甲冑の部位

甲冑の袖

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古墳時代に出現した甲冑(鎧兜)は、時代を追うごとに進化し、平安時代から用いられた「大鎧」(おおよろい)でほぼ基本的な部分の完成が見られます。主な部位としては、頭を守る「兜」(かぶと)、身体の中心を守る「胴」、足回りを守る「草摺」(くさずり)、そして戦闘力の要として、腕部分を守る「袖」(そで)です。大鎧には、「小札」(こざね)で作られた「大袖」(おおそで)があり、敵の矢や刃による攻撃に対し、肩から上腕部を保護しました。このように、甲冑(鎧兜)の部位のひとつひとつには、古人の工夫が込められているのです。甲冑(鎧兜)の袖について、その役割や種類、進化の過程を追っていきます。

戦闘力の要を守る「袖」の重要性

「大袖」は自由自在の防御パーツ

大袖

大袖

甲冑(鎧兜)の袖の中でも「大袖」は、胴の肩部分に装着し、肩から上腕にかけて防御するための部位です。戦いにおいて、まずは、武器を扱う両腕を何よりも守らなければなりません。腕に深手を負ってしまえば、戦い続けることはもちろん、自身の体を守ることすら不可能となります。

大鎧の大袖は、胴と同じく、金属や皮革片を綴じ合わせた「小札」で作られていました。大鎧は、「」と大袖、「」の3つの部位から構成され、これらは「三つ物」(みつもの)と称されており、このセットで1領となります。

大袖は、他の部品と接着されていない部品です。そのため、いざと言うときには、敵の刃や矢をかわす持ち楯としても活用されることもありました。また、場合によっては片側だけに装着した例も見られます。

日本式の甲冑(鎧兜)は、基本的には紐によって身に着ける作りとなっているため、その時々の必要性に合わせて、自在に装着することが可能。肩をひねることで、簡単に楯として構えられる袖は、非常に合理性のある、防御のための部品であったと言えるのです。

大袖と籠手の関係とは

籠手

籠手

大袖から先の部分には、筒袖型の「籠手」(こて)を装着して、腕を防御しました。時を経るにつれて、機動力を高めるために軽装化していった甲冑(鎧兜)ですが、籠手は大袖が消えたあとも、形を変えて長く残ることになります。籠手は、筒形の耐久性のある布地に鉄板や革を縫い付け、腕から手の甲を覆う構造が基本となっていました。

さらに籠手には、手の甲を保護する「手甲」(てっこう/てこう)が付属されていますが、指部分がないため、親指を守る「大指」(おおゆび)という部品が付けられたタイプもあります。弓を射るためには、指先の自由を確保しておかなければならない都合上、手先は露出しているのが一般的です。大鎧を着用する上級武士は、馬上から弓を射る戦闘様式を主流としていたため、籠手を左手だけに嵌めていました。

これに対して、胴丸を着用する中級、または下級武士は、徒歩で刀剣を用いる「徒武者」(かちむしゃ)として戦っていたため、籠手を両手に嵌めていたのです。しかし、戦闘の規模が大きくなると、上級武士も着脱しやすい胴丸を用いるようになり、戦闘様式も徒歩戦が中心となっていったため、中級、下級武士と同様に、籠手を両手に着けるようになっていきます。

甲冑の袖にはどんな種類がある?

大鎧を特徴付ける「大袖」

威毛

威毛

小札と呼ばれる小さな革や鉄の板によって構成される大袖は、美しい絹糸や組紐、革紐など、いわゆる「威毛/縅毛」(おどしげ)によって綴り合わされて現れる、美しい意匠が特徴です。大鎧の肩口に装着する大袖は、時代の流れと共にそのサイズに変化が見られます。

大鎧は、平安時代の中頃から末期にかけて、騎馬戦が主流とされた戦いに用いられた戦闘装束です。馬上から振り下ろされる太刀をよけ、矢に射抜かれることを防ぐ大袖は、大鎧に欠かせない部品です。

その後、弓矢の改良がなされ、「打物」(うちもの:刀剣や薙刀など、打ち合って戦いに用いる武器)による合戦が本格化する室町時代には、大袖が大型化していきます。最も大きい時代には40cm以上もある大袖を装着し、戦いに臨んでいました。

しかし、南北朝時代に入って「」(まさかり)や「金砕棒」(かなさいぼう)といった、大型で両腕を使う武器が登場。これらは、サイズだけでなく、重量が大きい大袖を着用して扱うのが難しい武器でした。

動きやすくなるように、大袖の取り付け部分に工夫が重ねられましたが、戦闘様式の変化によって支障が出るようになったため、そのサイズは、縮小傾向を辿ることになります。そして、最終的に甲冑(鎧兜)の袖は、腕に沿った形状へと変化していったのです。ついには、肩に大きく張り出した大袖の面影は消え、姿を消していきました。

動きやすさを追求した「壺袖」

「壺袖/壷袖」は、胴丸や「腹巻」などに用いられた、甲冑(鎧兜)の袖の一種です。鎌倉時代には戦闘規模が拡大し、「騎馬戦」を主体とした戦闘様式から、「徒武者」による組織的な戦いへと変わっていきました。

上級武士も動きにくい大鎧ではなく、胴丸を着用することが多くなり、甲冑(鎧兜)の袖には、小振りで動きやすい形状が求められるようになります。

壺袖は上部が広く、下の方が次第に狭くなっており、やや湾曲した形状によって、動作が容易になるよう工夫されているのが特徴。室町時代後期の武将について記した「大内義隆記」(おおうちよしたかき)の中に、「壺袖」という言葉の記載が見られます。

南北朝時代頃から出現した「広袖」(ひろそで)よりも軽量で、腕を動かしやすい壺袖は、室町時代後期に多く用いられていたと推測されている部品です。

現存する「壺袖」の一例が、「川越歴史博物館」(埼玉県川越市)が所蔵「紅糸威中浅葱腹巻」に見られます。この他にも、室町時代末期から戦国時代にかけて登場した「当世具足」(とうせいぐそく)の「当世袖」など、甲冑(鎧兜)の袖には様々な種類があるのです。

甲冑(鎧兜)に関する基礎知識をご紹介します。

時代と共に進化した甲冑の袖

袖の起源は古墳時代の「肩甲」

古墳時代に「短甲」(たんこう)が登場し、それと共に、「肩甲/肩鎧」(かたよろい)や草摺、籠手、「臑当/脛当」(すねあて)などの部品が、甲冑(鎧兜)の袖にすでに使われていました。

それらの中で、甲冑(鎧兜)の袖の起源となったのが、肩と上腕部を防御するための肩甲。短甲には、湾曲した鉄板を、革の紐で綴じた肩甲が使われていたのです。

この時代にはもうひとつ、支配者などの上級階級が着用したとされる「挂甲」(けいこう)があります。肩甲は挂甲と同様に、小さな金板の小札を、革や葦(あし)などで綴り合わせて作られていました。短甲の肩鎧よりもしなやかさがあり、より体に馴染んでいたと考えられます。

平安時代:徒武者の胴丸には袖がなかった!?

胴丸

胴丸

平安時代末期に武士階級が台頭してくると、騎馬戦が主流となり、上級武士は大鎧を着用して戦いました。

一方、徒歩で戦う下級武士は、奈良時代の「胴丸式挂甲」を改良した胴丸を用いるようになります。胴丸は軽いだけでなく着用が簡単なため、上級武士にも次第に広がっていったのです。

上級武士は、胴丸着用の際にも兜をかぶり、袖や籠手、臑当などを装備しましたが、徒武者達は袖を付けず、8枚に分かれた草摺のみを装着。軽装にすることで、移動や戦闘時の機動力を確保していました。

南北朝時代から室町時代:胴丸や腹巻の重武装化

朝廷が「北朝」と「南朝」に分かれて戦った南北朝時代は、争いが絶え間なく起こった時代です。鎌倉時代に登場した腹巻が、南北朝時代から室町時代の末期まで、前述した胴丸と共に多用され続けました。

そしてこの時代には、一般階級の武士も、胴丸や腹巻に兜や袖、籠手、臑当を付けた重武装で戦い、上級武士は、胴丸に大袖と筋兜などを併せて着用しています。そして、大袖や筋兜などと一緒に、腹巻を着用するようになったのは、胴丸よりも少しあとで、室町時代に入ってからと伝えられているのです。

甲冑の袖にまつわる3つの豆知識

①袖に込められたお守り効果

「威/縅」(おどし)は、甲冑(鎧兜)の小札を、糸や織布、革などで綴り合わせる技法。

日本式の甲冑(鎧兜)における美しさの根源となっており、それぞれの色には様々な意味が込められていました。特に「緋縅」(ひおどし)と呼ばれる技法に用いられる赤色や朱色には、魔除けの力があるとされており、袖の下部に施す「菱縫い」(ひしぬい)にもよく観られます。赤色は古くから活力を意味し、生命の源である太陽の色ともされてきました。日本の国旗である日の丸を始めとして、重要な場所や儀式などに多く用いられています。

また、邪気を払うために、神社の鳥居や、ひな段の緋毛氈(ひもうせん:朱色、または赤色の敷物)などにも使われており、さらには、現存する国宝の甲冑(鎧兜)にもあしらわれている色です。

戦国武将達は、甲冑(鎧兜)の袖に魔除けの色を取り入れることで、敵の刃や弓矢から身を守り、戦いに勝利することを願っていたと考えられ、命を懸けた真剣な戦いに挑んだ彼らの気持ちが、現在にまで伝わってくるのです。

②前面防御に特化した明智光春所用の甲冑(鎧兜)の袖

東京国立博物館」(東京都台東区)には、「明智光春」(あけちみつはる)所用とされる「和製南蛮胴具足」が所蔵されています。「南蛮胴」(なんばんどう)は、安土桃山時代に用いられていた当世具足の一種。南蛮胴には、西洋から16~17世紀頃に輸入された甲冑(鎧兜)を模倣したり、草摺や袖を加えて改造したりして制作された甲冑(鎧兜)があります。戦国時代から急激に導入が進んだ、鉄砲の攻撃にも強い形状であったため、「徳川家康」などの武将が愛用しました。

南蛮胴具足

南蛮胴具足

明智光春の和製南蛮胴具足の兜と胴は、打ち出された2枚の鉄板から構成されています。また、兜の前面が二重構造となっている他、大袖は小さな「小鰭」(こびれ)に置き換えられており、前からの攻撃への防御に適した形状だったのです。戦国時代はすでに、鉄砲の弾が脅威となり、大袖が実戦にそぐわなくなった時代。敵と対峙するためには、前面に鉄壁の守りを置くことが求められるようになっていました。西洋の様式で作られた甲冑(鎧兜)を、日本の戦いに対応させるため、独自の工夫が重ねられていたと言えるのです。

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③シンプルな甲冑を好んだ伊達政宗

戦国時代には多くの兵士による集団戦、専門部隊を配置した鉄砲戦など、これまでとは異なる戦闘様式が見られるようになりました。甲冑(鎧兜)についても、強固でありながら量産を可能とすることが求められます。そこで、従来の考え方や製法にとらわれない、新機軸の甲冑(鎧兜)が開発されるようになったのです。

当世具足と呼ばれるこの時代の甲冑(鎧兜)は、防御性の高い兜や胴に、動きやすい帷子(かたびら)形式の籠手、「脚絆」(きゃはん:歩きやすくするために、臑に巻き付ける布)などを用いて、より戦闘力を高める作りとなっています。一方で装飾的な要素も増え、各武将によって、変化に富んだ意匠の甲冑(鎧兜)が見られるようになりました。

その中で実質面を重視した甲冑(鎧兜)を用いていた武将が、「伊達政宗」です。伊達政宗は、大袖などの付属品を一切省略した甲冑(鎧兜)を好み、非常にシンプルな意匠を施した甲冑(鎧兜)に、全軍を統一させました。

大将から足軽まで身分を問わず、同じ甲冑(鎧兜)を身に着けていたということだけでも、伊達政宗が戦いに対して、合理性を重視していたことが窺われるのです。

仙台市博物館」(宮城県仙台市)では、伊達政宗が着用した「黒漆五枚胴具足」が所蔵されています。総体鉄地に黒漆塗が施されているのみで、余分な装飾はありません。胴は、縦5枚に蝶番(ちょうつがい)で繋がれており、肩も同じ構造で大袖はなく、全体的に簡素な印象です。しかし、シンプルでありながら重厚さが漂い、実戦上の優位性を極めた、伊達政宗の武将としての器量が感じられます。

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まとめ

甲冑(鎧兜)における袖の役割は、現代の衣服とは異なり、戦闘の生命線とも言える、肩や腕を防御すること。そのために甲冑(鎧兜)の袖には、様々な形状が生まれました。

戦闘様式が変わるにつれて、甲冑(鎧兜)の袖も変容していったのです。袖は甲冑(鎧兜)の一部分に過ぎませんが、その歴史を辿ると、時代による戦闘様式の変化についても、よく理解できるのではないでしょうか。

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