平安時代から鎌倉時代にかけては、貴族から武士へと支配力が移行していった時期です。武家の権力が増すにつれて、戦闘力の証である甲冑には改良が重ねられ、より進化を遂げていきました。日本における甲冑の歴史の中で、大きな転換期となった「大鎧」(おおよろい)や「胴丸」(どうまる)が成立。やがて、さらなる動きやすさを追求した甲冑が普及します。
騎馬戦が主流であった平安時代から、戦略規模が拡大する鎌倉時代へと、戦法に合わせて変化していった甲冑の様式についてご紹介しましょう。
平安時代中期から後期は、それまで貴族の子飼いのような存在であった武士階級が次第に力を付けていき、社会が大きく変わった時代です。そうした変化は、武士の戦闘着であった甲冑にも大きな影響を与えました。
時代背景と共に、平安時代中期から後期にかけての甲冑について見ていきます。
政治面では、律令国家体制から王朝国家体制へと変化していく時期で、藤原家が摂関家として治政の中心となっていました。
「桓武天皇」(かんむてんのう)の時代には、軍団の編成が廃止されており、それまで各地で機能していた治安維持が失われていきます。中央からの統一した指令が届きにくくなり、地方では頻繁に反乱や紛争が起こっていました。
また、納めるために運ぶ途中の税が強奪されたり、野盗行為が横行したりするなど、治安の混乱が続きます。特に9世紀の関東地方ではこうした状況が頻発し、富豪層はそれに対抗するために武装して、武士団を構成するようになりました。国が置いていた軍団の代わりに、富豪層が自前の軍事組織を持つようになったのです。
中央からの制御が難しくなったことで、朝廷は、地方の治安維持を武士団に委託します。これにより、武士はさらに力を蓄えることになりました。当時の歴史に残る大きな戦としては、1051年(永承6年)に起こった「前九年の役」や、1083年(永保3年)に始まる「後三年の役」などがあります。
一方、文化面では遣唐使が廃止されたことで、大陸からの影響が薄れ、日本独自の文化が花開きました。
931~938年(承平年間)には、わが国最古の辞典「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)が記されます。「ひらがな」による文学が数多く執筆され、建築様式では雅な「寝殿造」などが誕生。仏教の普及は続いていましたが、平安時代後期になると浄土教が身分の上下を問わず広まっていきました。
また浄土信仰に人気が集まる一方で、「末法思想」も広く信じられるようになります。「この世の終わり」への恐れや憂いから、極楽浄土を夢見る思想が広まっていったのです。
これより、平安時代中期から後期の甲冑の特徴を見ていきます。
大鎧の各部名称
古墳時代には、すでに「短甲」(たんこう)や、「挂甲」(けいこう)といった「小札」(こざね)を綴じ合わせる技法が確立していましたが、平安時代では、後世につながる形状の基礎が完成しました。
「大鎧」と「胴丸」の登場は、甲冑の歴史上、重要な転換点と言えます。大鎧のもととなったのは、前時代の「裲襠式挂甲」(うちかけしきけいこう)です。
裲襠式挂甲は、「貫頭衣」(かんとうい)のように前後がつながった状態の物を、頭からかぶるタイプの甲冑で、朝廷の武官の武装として用いられていました。裲襠式挂甲の基本形状を残しながらも、兜の「錣」(しころ)部分が大きな「吹返」に変わるなど、甲冑としての完成度を高めていきます。
重装備となる大鎧は、騎馬で戦う上級武将が着用しました。馬上から矢を射るときに、身体の横側が無防備となるため、右側には「栴檀板」(せんだんのいた)、左側には「鳩尾板」(きゅうびのいた)が配されるなど工夫が重ねられています。
胴丸の各部名称
馬に乗る武将が大鎧を着用したのに対し、徒歩で戦う中位及び下位の武士が用いたのは、より軽く動きやすさを追求した胴丸です。
古墳時代の「胴丸式挂甲」が原型となっており、平安時代末期にはほぼ完成したと考えられます。胴丸は、胴体全体がひと続きであり、右脇で引き合わせに綴じる形です。
大鎧の「草摺」(くさずり:胴の裾に垂れて下半身を守る部分)が4枚なのに対して、胴丸では歩きやすさ走りやすさが重視されるため、8枚に分かれています。兜が省略されることも多く、より軽快で機動性に富む装備となっていました。
甲冑の美を象徴する特徴として「糸縅」(いとおどし)があります。小札を綴じ合わせる「縅」の材質に用いるのは、絹などの糸を用いる糸縅、鹿の皮から作る「韋縅」(かわおどし)、絹の織物(布帛)を裂いて用いる「綾縅」(あやおどし)などです。
なかでも糸縅は、絹糸を鮮やかに染め上げ、自在に組み上げることで同じ物が2つとない甲冑が誕生しました。
代表的な糸縅の種類は、色を入れない白色、茜草(せんそう)の根の染料により赤系に染めた「緋糸威」(ひいとおどし)、藍(あい)を染料に用いた「紺糸威」(こんいとおどし)です。さらに、黄や紫、黒、萌黄色など様々な色彩の単色の物や、多色の「樫鳥縅」(かしどりおどし)、「啄木縅」(たくぼくおどし)などがあります。
日本の甲冑は、こうした色彩豊かな糸縅によって精緻に作り込まれて完成し、世界にも類をみないほど高い芸術性への評価を得る一因となっているのです。
兜の各部名称
日本の兜と言えば西洋の物とは異なり、大きく開いた吹返しや後頭部から首周りにかけて保護する錣が非常に特徴的。
平安時代中期から後期にかけては、こうした兜の基本形も定着していきます。兜は、頭部を防御すると同時に、武将の家や位を表現する役割も持っていたのです。
大鎧の登場と共に、「厳星兜」(いかぼしのかぶと)が登場。兜鉢に打たれた鋲(びょう)を星に見立て、力強い印象を与えています。
平安時代中期になると「鍛鉄」(たんてつ)の技術が向上し、1枚の鉄板から兜鉢を打ち出す手法も確立。武を誇る「前立」(まえだて)が登場してくるのもこの頃で、「鍬形台」(くわがただい)の両端に一対の装飾を置く「鍬形」がよく用いられました。
平将門
現在でも、東京都千代田区大手町に首塚があることで知られる「平将門」(たいらのまさかど)は、平安時代中期の武将です。桓武天皇の5世子孫で、桓武平氏という武士の家柄に生まれました。
貴族文化に華やぐ平安京で「藤原忠平」(ふじわらのただひら)に仕えていましたが、父との死別を契機に坂東(関東地方の古名)に戻った平将門は、叔父達に領地を奪われていることを知ったのです。
叔父のひとり「平国香」(たいらのくにか)らを殺害して領地を奪い返した平将門ですが、このことがきっかけとなり次第に朝廷と対立。独立国家の計画を立て、自らを新皇と称したことで「平将門の乱」が勃発しました。最終的には、謀反人として捕らえられ、940年(天慶3年)に処刑されます。
しかし、その後も平将門怨霊説は根強く残り、たびたび貴族社会に不安を与える存在となりました。
平将門の甲冑については、詳しいことが分かっていませんが、東京北新宿にある「鎧神社」には、947年(天暦元年)に平将門の鎧を納めた記録が残っていると言われています。
歴史上の人物が活躍した平将門の乱をご紹介!
「藤原景清」(ふじわらのかげきよ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士で、没年は1196年(建久7年)、生年は定かではありません。
平家に仕え、源平が戦った「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん)などで活躍しましたが、「壇ノ浦の戦い」で敗れたあとに捕らえられ、預け先の八田知家で絶食して亡くなったと伝えられています。勇猛果敢な武士として知られ、「屋島の戦い」では敵の兜の錣を手で引きちぎったと言われるほどです。
壇ノ浦の戦いのあとは生き延びて、主君の仇を打つべく「源頼朝」(みなもとのよりとも)の命を狙い続けたとも語られています。
藤原景清の甲冑姿は、「歌川国芳」(うたがわくによし)の「源平盛衰記讃州八嶋合戦」に「上総悪七兵衛景清」として描かれました。大鎧に長刀を振りかざし、兜には見事な鹿角の前立が見られます。
源頼朝・「源義経」の父親として知られる「源義朝」(みなもとのよしとも)は、平安時代の終盤に生きた河内源氏の武将です。
1123年(保安4年)に生まれ、没年は1160年(平治2年)、38歳で亡くなっています。白河院政の時代、「源為義」(みなもとのためよし)の長男として誕生した源義朝は、若くして東国を根拠地に勢力を伸ばしていきました。
南関東の武士団を統率する地位を得ると、「鳥羽院」(とばいん)との結びつきを強くし、1156年(保元元年)に起きた「保元の乱」の際には、「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)方として平清盛と共に活躍します。
しかしその後、平清盛と平家一門との待遇の差に不満を持った源氏方は「平治の乱」の際に平家と対立。戦いに敗れるも落ち延びた源義朝でしたが、身を寄せた元家人の裏切りに合い、殺害されました。
無念の死を遂げたものの、源義朝が東国に築いた地盤は源頼朝が兵を挙げる際の助けとなり、平氏討伐へとつながります。武家社会の基礎となった鎌倉幕府成立へ、大きな貢献を果たしたのは間違いありません。清和源氏には、代々伝わる8種の甲冑「源氏八領」(げんじはちりょう)があったことが、「保元物語」や「平治物語」に記されています。
「源太が産衣」(げんたがうぶきぬ)、「八龍」(はちりょう)、「楯無」(たてなし)、「薄金」(うすかね)、「膝丸」(ひざまる)、「沢瀉」(おもだか)、「月数」(つきかず)、「日数」(ひかず)と名付けられたこれら8領の甲冑は、たびたびの戦で失われ、現存しているのは楯無のみです。
源義経のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。
本格的な武士の時代となった鎌倉時代には、より合理性を追求した甲冑へと改良が加えられていきました。鎌倉時代の歴史的背景を見ながら、当時の甲冑の特徴や、活躍した武将達をご紹介していきます。
源頼朝が鎌倉幕府を開いたことで、武士中心の社会が始まったことはよく知られていますが、正確には1183年(寿永2年)に東国支配権の承認が得られたのが鎌倉時代の始まりです。
源頼朝は、全国に守護を置くなどして支配権を強めますが、京都の朝廷と地方の荘園はそのままとなっていたため、貴族階級の力がすべて失われたという訳ではありませんでした。
鎌倉幕府もまた、全国すべての武士を支配下に置くことはできず、支配していたのは直接の主従関係を結んだ御家人のみです。
しかし、2度に亘り「元寇」(げんこう)と呼ばれるモンゴル帝国の侵攻を大陸から受けるうち、次第に武士の力が結束され支配力も強化。源頼朝の死後には、北条家が幕府の実権を掌握しますが、武家政権の屋台骨である鎌倉幕府は、「御成敗式目」を制定するなど制度整備を進めていきました。
武士による地方の土地支配が確立し、所有権が安定したことで開墾も促進されます。経済が潤い、政局が定まるにつれて商品の流通も活発化して各地には市が立つようになりました。公家中心の社会から武家社会に変わると、文化や芸術方面にも変化が生まれます。風雅よりも質実剛健が好まれ、仏教や美術にも新しい気風が見られるようになったのです。
素朴で親しみやすい文化が庶民の間で育まれ、広がっていきます。鎌倉幕府は、宋(そう)風文化の受け入れに積極的で、大陸へ渡る民間船も多数往来していました。留学僧が頻繁に行き来し、奈良時代に次いで大陸文化が流入を見せた時代でもあります。
鎌倉時代には、軍備の規模が拡大していきました。平安時代は、騎馬戦が中心となっていましたが、鎌倉時代は歩兵の数が増大し、戦略がより複雑化します。上級武士が着用する大鎧は、馬の上で戦うことが前提となっており、馬上から矢を射るのに適した作りが考案されました。一方、弓矢の攻撃に備えるため、大鎧は非常に重量があり地上戦では不利だったのです。
治承・寿永の乱以降、歩兵戦力を多用した大規模な戦いが増えるにつれて、組み討ちなどの接近戦や格闘が勝敗を分けるようになっていきます。大鎧にも、騎乗していないときの機動性が求められるようになり、重量対策が課題となりました。
そこで考え出されたのが、胴体部分の裾をすぼめることで、腰で甲冑の重みを支える形式です。これにより両肩の負担を減らし、動きには俊敏性をもたらします。また、歩行や移動の妨げとならないよう丈を短くするなど、長時間の着用にも耐えられる工夫がされたのです。
胴丸は、もともと下級・中級武士用で、徒歩での実戦向きに進化してきた歴史があります。
しかし、接近戦が増えたことで、大鎧よりも機動性が高いことが評価され、上級武士も胴丸に「袖」を付けて「臑当」(すねあて)を加え、兜を被った形で着用するようになりました。
さらに、胸元の「押付板」(おしつけのいた)、肩の「杏葉」(ぎょうよう)、8枚からなる草摺という3要素が揃い、胴丸の特徴が確立。
徒歩の集団戦、兵力の増員といった戦闘方法の変革により、甲冑の進化が促進され、実情に合わせた選択がなされていったことが分かります。
実戦には、胴丸の改良型が用いられる一方で、大鎧は武士の精神を表す象徴となっていきました。武家の品格や力を表現するために、彫金や漆、染めの技術が集結し、美術工芸品としても価値の高い甲冑が生み出されたのです。彫金技術の向上は、兜にも大きな影響を与え、鎌倉時代には鍬形が広く用いられるようになります。
大鎧には、「金物」と呼ばれる金属製の装飾物が多く使われていました。「天辺の座」、「篠垂」(しのだれ)、鍬形、「据文金物」(すえもんかなもの)、「八双物」、「八双鋲」など各種の鐶(かん:金属製の輪)や鋲にも細かな紋様が彫り込まれ、当時の最先端技術が施されている甲冑も珍しくありません。
源頼朝
源頼朝は、「源平合戦」において平家を滅ぼし、武家社会を確立した鎌倉幕府の初代征夷大将軍です。河内源氏の源義朝の三男として誕生しましたが、源義朝は平治の乱で敗れ、伊豆国へ流されてしまいます。
その後、「以仁王」(もちひとおう)の令旨(りょうじ:皇后や皇太子の命令を伝える文書)を受け挙兵すると、坂東武士を統率して平家を壇之浦で滅亡へと追い込みました。
源頼朝は、功績のあった弟・源義経を追放し、また彼を匿った奥州藤原氏を滅ぼすなど冷酷な面を語られることも多い武将です。しかし政治力に優れ、武家政権の強固な礎を築いた功績は計り知れません。
「大山祇神社」(おおやまづみじんじゃ:愛媛県今治市)が所蔵する国宝「紫綾威鎧」(むらさきあやおどしよろい)は、源頼朝によって奉納されたと伝えられています。小札が糸ではなく、「綾」(あや:麻を芯にして畳んだ絹の織物)で縅されているのが特徴です。この様式の現存する大鎧は非常に数が少なく、貴重な1領とされています。
「源頼家」(みなもとのよりいえ)は、源頼朝と正室「北条政子」の嫡男で、鎌倉幕府2代将軍です。源頼朝の急逝により、18歳で家督を継いだ源頼家は、北条氏ら有力御家人による13人の合議制の下に置かれますが、これに反発して以降、北条氏と対立することになります。
通説では若さゆえの独断が御家人達の反感を買ったとも言われていますが、真相は明らかにされていません。
不穏な状況が続くなか、病に冒された源頼家は一時危篤状態となり、その間に将軍の位を剥奪されます。一命を取り留めたものの、その後は伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)の「修禅寺」へと送られ、北条氏の手により殺害されました。源頼朝の死からわずか5年で、政権は北条家へと移ることとなります。
足利尊氏
室町幕府を開いたことで知られる「足利尊氏」(あしかがたかうじ)。もとは鎌倉幕府の御家人でした。
鎌倉幕府150年の歴史に幕を下ろすことになった張本人ですが、鎌倉幕府の政治に限界を感じ、新たな武家政権樹立を目指して「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)と共に倒幕に立ち上がります。後醍醐天皇が2度目に挙兵した1331年(元弘元年)の「元弘の乱」においては、足利尊氏は幕府側として出陣しました。
しかし、その2年後には後醍醐天皇方へと寝返り、倒幕に参加。これを果たすことになります。足利尊氏が、なぜ鎌倉幕府を裏切ったのかについては、諸説語られており、よく分かっていません。「承久の乱」では、「北条泰時」(ほうじょうやすとき)を助ける大将のひとりとして活躍し、武勲を挙げていることから、優れた軍略家であったことが見て取れます。
現在、ニューヨークにある「メトロポリタン美術館」では、足利尊氏が「篠村八幡宮」(京都府亀岡市)に奉納したと言われる、国宝「白糸褄取威之大鎧」(しろいとおどしのおおよろい)を所蔵。黒漆塗りの小札に白糸で褄取り(つまどり)に威した大鎧は、胴に「不動明王絵韋包み」が施されており、華麗さと剛健さを感じさせる姿です。
平安時代に日本的な甲冑の原型が確立し、さらに武家社会へと変化した鎌倉時代に、甲冑は、より完成形へと近付いていきます。
戦闘方法が変わるにつれ、合理性・機動性を追求した様式になる一方で、武士の精神性の象徴へと昇華した大鎧の美術的な要素が高まっていく時代です。当時求められていたのは、単なる戦闘服という役割だけではないことが、甲冑の歴史を追うことで、より深く理解することができます。