忍者のイメージと実像

忍者の役割

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「戦国時代や江戸時代に忍者がどんな活躍をしていたか」と聞かれたとき、みなさんはどのような姿を想像するでしょうか?黒い忍び装束で闇夜にまぎれ、屋根の上を走り回って敵の城に忍び込み、悪事を企む密談に聞き耳を立てる。敵に出会えば手裏剣や忍び刀で戦闘し、劣勢と見るや煙幕を張って煙のように消えて逃げ失せる。
しかしこのイメージの多くは後世に生まれた創作で、実際には町中を歩き回ったり敵を見たら戦わずに逃げたりすることが忍者には求められていました。

忍者の誕生から見る役割

諸説あると言われる忍者・忍術の起源は、古代中国の諜報員「間諜」(かんちょう)をベースに発展していったという説が有力とされています。兵法書「孫子」(そんし)では、用間(間諜の運用方法)を5つの種類に分けて記載しています。

郷間(ごうかん)
敵国に暮らす一般市民を取り込み、一般市民に敵国内を探らせ、情報を収集する。
内間(ないかん)
敵国の重要な役職にいるが不満を持っていたり欲深い人物を賄賂などで味方に付け、自国に有利になるよう動かす。
反間(はんかん)
自国に侵入した敵国の間諜を取り込み、自国に有利になるよう二重スパイとして活動させる。
死間(しかん)
自国の間諜を敵国内で故意に捕まらせ、偽の作戦など虚偽の情報を自白させることで、敵国の裏をかき戦を優位に進める。このとき間諜は、死を覚悟して捕らえられることとなる。
生間(せいかん)
敵国に侵入し情報収集をしたのち、自国に生還してその情報を伝える。
兵法書「孫子」

兵法書「孫子」

このなかでも、敵国内で諜報活動を繰り返し自国に戻り報告する「生間」が、日本の忍者が担った主要な役割だと言われています。

忍びの起源とも言われている「大伴細人」(おおとものほそひと)も、「聖徳太子」に仕えて諜報活動を行ない、主君と敵対していた「物部守屋」(もののべのもりや)の誅殺に貢献。

その功績の大きさは、「志能便」(しのび)という称号を与えられたほどで、諜報活動による情報がいかに重視されていたかが分かります。この役割から忍者は生きて情報を持ち帰り味方に伝えなくてはならず、敵地での死は許されません。頼れる味方のいない敵国のなかで、なんとしても生き残り帰還するために目立たないように任務を遂行。万が一見つかっても敵と戦わず逃げて生存率を高める立ち回りが要求されたのです。

そのため、より効率的な移動を追求した走法や泳法などを体得し、どんな状況下に置かれても1人で生存できる医学や、現代で言うサバイバル術・護身術の習得を求められました。

つまり人目に付かない夜の街道や道なき道を進み、敵に出会っても、戦闘で相手を倒すことより、死亡する危険性の低い逃走を選択する。それが忍者の役目を果たすための手段なのです。

戦国時代の忍者

室町時代や安土桃山時代など、他国との戦が頻繁にあった戦国時代の忍者は、諜報活動の他に破壊工作や要人の暗殺も多く担っていたとされます。

14世紀に成立した古典文学「太平記」でも、難攻不落の砦を攻める際、嵐吹く夜に敵の砦へ侵入し建物に火を放ち敵陣を混乱させる忍者の様子が描かれています。

また別の場面では、敵の夜襲を撃退した忍者が、撤退する敵兵に紛れて敵軍に侵入し工作を図ろうとする姿も見られます。しかしこの作戦は敵軍が、合い言葉で一斉に座ったり立ったりする「防諜」のための忍術「居すぐり・立ちすぐり」を行なうことで、紛れ込んだ忍者が見つかり失敗に終わっています。

このことから、太平記の舞台となった南北朝時代には常態的に忍者が運用されていて、忍者を警戒した対策も備えられていることが分かります。

室町時代後期に起こった室町幕府と六角家の戦い「長享・延徳の乱」(ちょうきょう・えんとくのらん)では、のちに「甲賀忍者」として名を馳せる甲賀の一族が六角家側について活躍しました。乱の中で起こった「鈎の陣」(まがりのじん)と呼ばれる1487年(長享元年)の戦では、甲賀忍者たちが六角家から伝授された「亀六ノ法」(かめりくのほう)を駆使して幕府軍に応戦。

手足を引っ込める亀のように、敵が攻めてくると山中に身を隠し、撤退すれば後ろから攻撃を加える。神出鬼没なゲリラ戦法を展開したり、幕府軍の陣に火を放ち指揮系統を乱したりと様々な働きが光り、甲賀忍者の名が知れわたるきっかけとなりました。

一説には、この戦の陣中で死亡した室町幕府9代将軍「足利義尚」(あしかがよしひさ)の死因も、暗殺に入った甲賀忍者に受けた傷によるものだと言われています。

また甲賀と並び有名な忍者と言えば、甲賀から山を挟んで隣にある伊賀の里の伊賀忍者。甲賀地域に多く自生する薬草を利用した薬の扱いに長けた甲賀忍者に対し、当時最先端の技術だった火薬の知識が豊富だった伊賀は火器やのろしの技術が発達した里でした。

また伊賀忍者は、六角家などに仕えていた甲賀忍者と違い、特定の主君を持たず各地の大名に雇われて戦う傭兵のような存在だったのです。

傭兵として生きる伊賀忍者の普段の生活は、午前に農作業をはじめとした家業に従事し、午後には寺に集まり集団で訓練を行なっていたとされています。

日頃から修練を重ねて身体を鍛え、大名の要請を受けた際に戦に加わり精鋭として多くの敵を討ち取ったり、敵陣に忍び込み破壊工作を行なったりと活躍しました。

織田信長」が討たれた本能寺の変の直後には、自らも身の危険を感じた「徳川家康」が、伊賀・甲賀忍者の支援を受けて摂津国堺(現在の大阪府堺市)から三河国(現在の愛知県東部)に帰還しています。堺にいた徳川家康は、人目に付く東海道での移動を避けて伊賀国(現在の三重県西部)を経由し三河国へ。地の利を活かした防衛術・生存術に長けた忍者達が、自国を目指す徳川家康とその家臣を警護しました。

のちに「神君伊賀越え」と呼ばれるこの行程を支えた功績から、徳川家康は伊賀・甲賀忍者を兵力として召し抱え重用。江戸幕府が開かれてからも、代々徳川家に仕えることとなりました。

神君伊賀越えのルート

江戸時代の忍者

江戸時代に入ると、江戸幕府による統治が進み大規模な戦が激減します。そのため忍者に求められる役割も、戦の中で行なわれる破壊工作などが減少していきました。

代わって江戸幕府が抱える伊賀・甲賀忍者は、幕府に対する反乱の動きを事前に察知する諜報や、忍者の身体能力・護身術を活かした要人の警護などに携わるように。

平時は江戸城正門の警備にあたり、将軍が徳川家の菩提寺へ参拝したり京都御所へ参上する際には護衛として付き従うなど、将軍の身を守る重要な役目を担いました。

1637年(寛永14年)に起こった島原の乱では、老中「松平信綱」(まつだいらのぶつな)の命を受けた甲賀忍者が一揆軍の陣取る原城(長崎県南島原市)に潜入。城を囲う塀の高さや食糧の備蓄量などを調べ、乱の鎮圧に寄与する功績を挙げました。

島原の乱以降、幕末に入るまで本格的な戦いが起こらなかったため、これが忍者が参加した最後の戦とされています。その後は反乱を早期に抑えることを重視した幕府が、各国の監察という任を与え運用。

忍者は各地へ赴き、町中を歩きながら町の様子を窺ったり、歩幅を数え町中の距離を測ったりと、諜報活動を行ないました。忍者の得た情報をもとに、幕府は諸大名に反乱の兆しがないかを調査しました。

これに類似する役職として、江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)が創設した公儀隠密・御庭番(おにわばん)の存在も知られています。

幕末に入ると、「ペリー」の黒船来航など多くの外国船が日本に現れるようになり、幕府も未知の存在を相手取る必要性に迫られました。

そこで津藩(現在の三重県津市)藩主・藤堂家は、藩に仕えていた伊賀忍者「沢村甚三郎」(さわむらじんざぶろう)にペリーの乗る蒸気船の調査を命じます。

命を受けた沢村甚三郎は蒸気船に侵入し、船内を探索しながら書類やパン、タバコ、ロウソクを持ち出し、主君に届けました。これが「忍者」と呼ばれる存在の最後の活躍であると言われています。

現在も生き続ける忍者の精神

黒船への侵入をもって、記録に残っている正式な忍者の活躍は途絶えることとなります。

しかし後世にも、「忍者」と呼ばれないながらも諜報活動に従事する存在は絶えませんでした。

「開国」という転換期を迎え新たな世界が一挙に広がった日本にとって、未知の領域の情報を得ることは何よりも大切なことだったのです。

江戸時代に記された忍術書「万川集海」(まんせんしゅうかい)にある、「智名もなく勇名もなし」という一文。

この言葉に込められた、自らの名誉を求めずひたすらに耐え忍ぶ精神は、現代でも日本人が持つべき美徳のひとつとして根付いています。大陸で生まれた間諜の役割が海をわたり、日本人の価値観の根底にある「忍耐」と交わって誕生したのが、忍者という日本独自の存在なのかもしれません。

忍者の役割

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忍者の成り立ち

忍者の成り立ち
忍者は、室町時代から江戸時代に大名や領主に仕え、戦においては独立部隊として諜報活動、破壊活動、浸透戦術(強力な少数部隊を作って、部分的に攻めていく戦術)、謀術(ぼうじゅつ :相手を油断させて、隙を作り出す)、暗殺などを行なう役割を担っていました。日本で有名な忍者としては伊賀忍者、甲賀忍者などが挙げられます。

忍者の成り立ち

創作上の忍者

創作上の忍者
歴史と創作の狭間にある謎の存在「忍者」。戦国時代には、数多く実在したとされていますが、その実像は定かではありません。江戸時代には、「賊禁秘誠談」(ぞくきんひせいだん)に登場する「石川五右衛門」(いしかわごえもん)や「百地三太夫」(ももちさんだゆう)、同時代の読本(伝奇小説)や歌舞伎狂言に登場する「自来也」(じらいや)などが忍者として創作されました。また、800年代に遣唐使として密教を持ち帰った空海をはじめ、実在した人物の中でも実は忍者だったのではないかと語られている人物もいます。創作上の忍者では物語や歌舞伎などで創作された忍者の他、歴史上に実在しながらも実は忍者であったとされている人物をご紹介します。

創作上の忍者

海をわたるNINJA(海外の忍者像)

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日本国内では頻繁に映画やアニメで取り上げられ、子どもから大人まで知らない人はいないであろう「忍者」の存在。では、海外の人々には、忍者はどれほど知られていて、どのような存在だと認識されているかご存知でしょうか?海をわたるNINJAでは、海外での忍者の知名度や、どういったイメージで捉えられているかなど、海外の「NINJA」像をご紹介します。

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