刀剣は、一見するとどれも同じに見えますが、実は、「古刀」、「新刀」、「新々刀」、「現代刀」という4つの時代区分があります。現在でも特に価値が高い古刀と新刀では、刀身の造りや鍛錬法など、様々な点において違いが見られるのです。その中でも新刀は、それまでの伝統にとらわれず、自由で優美な作風を示す刀工が多いのが特徴。時代の流れと共に進化を遂げ、素晴らしい名刀を生み出した新刀の代表的な刀工について解説すると共に、各刀工が制作した「刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)」所蔵の刀剣をご紹介します。
安土桃山時代と江戸時代をまたぐ、1596~1781年(慶長元年~安永10年/天明元年)に作られた刀剣が、「新刀」に区分されます。
この時代の作刀が新刀と呼ばれるようになったのは、江戸時代からであり、1721年(享保6年)、軍学者である「神田白竜子」(かんだはくりゅうし)によって著された刀剣書「新刀銘尽」(あらみめいづくし)や、「鎌田魚妙」(かまたなたえ)による「新刀弁疑」(しんとうべんぎ)の影響があります。
これらの書物の中で、1596年(慶長元年)の作刀が、新刀や「新刃」(あらみ)と表現されたことから、その時代の刀剣を指す場合に用いられる言葉として定着していきました。
ただ実際には、1596年(慶長元年)で明確な区切りがあったという訳ではなく、新刀という呼称は、作刀技術や材料のゆるやかな変革により、「古刀」とは違った特徴を持つ刀剣を意味していたと考えられています。
古刀から新刀に移り変わったのは、「豊臣秀吉」による天下統一がその要因のひとつ。日本全体が安定するようになると、様々な場所において、新しい城下町が発達していきました。これに伴い、全国の刀工達も各地へ移動するようになります。
そのため、作刀技術がそれぞれの城下町へと分散し、それぞれの地域のみで伝わっていた技法に、新技術が融合されるようになったのです。安土桃山時代の華やかな空気の中で、より美しく洗練された刀剣へと進化。古刀の優れた技術の模倣を超え、個性的な刀剣が数多く誕生していきます。
新刀が登場した慶長年間頃は、武将の間に下剋上の考えが浸透した実力本位の社会。豊臣秀吉は、茶の湯の「千利休」など、その道に秀でた実力者を尊重し、出自にとらわれずに、高位への登用を行ないます。
刀剣の世界においても、その空気が反映されており、伝統や家系とは関係なく、独学で作刀の道を究める刀工も多く見られるようになったのです。
そして、この新刀の時代には、交通網が発達したことで人や文化の行き来が盛んになり、作刀技術にも交流が生まれました。多様な技術を持つ刀工が、江戸や大坂をはじめとする都市に集まり、従来の手法に新しい技術が加えられたことで、刀剣の進化が加速していったのです。
新刀の黎明期と言える慶長時代には、戦いに明け暮れていた戦国時代の雰囲気が、色濃く残っており、勇壮で頑健な姿をした刀剣が多く見られます。
さらには、寛文年間(1661~1673年)頃になると、武士が大小(「打刀」と「脇差」)2振の刀剣を腰に帯びることが義務付けられたため、刀身の長さが抑えられた刀剣が好まれ、また、太平の世となったこともあり、武器としての意味合いを失っていきます。
加えて元禄年間(1688~1704年)頃の刀剣は、武士の象徴として扱われるようになり、実用性よりも、姿の優美さが求められるようになりました。
新刀全体では、古刀と比較すると「反り」が浅い姿が多く、その地肌は精緻であることが特徴。刃文は大柄であり、美しい文様が施されています。
堀川国広
「新刀の祖」と称される「堀川国広」(ほりかわくにひろ)は、もともとは「飫肥城」(おびじょう:現在の宮崎県日南市)の城主であった「伊東家」に仕えた武士でした。
しかし、「島津家」の侵攻によって伊東家が滅びたことから山伏(やまぶし:仏教に山岳信仰が取り入れられた「修験道」を、山に籠もって修行する者)となって、諸国を巡ります。その際に堀川国広は、各地で作刀技術を学んでいたのです。
流浪の身でありながら、その技量は高く評価されており、足利(現在の栃木県足利市)の地での滞在中には、「足利城」城主の「長尾顕長」(ながおあきなが)の依頼を受け、「山姥切国広」(やまんばぎりくにひろ)を鍛刀しています。
1590年(天正18年)頃には、流浪の旅を終えて「信濃守」(しなののかみ)を受領。新刀の刀工の中では、最も多くの作刀が、重要文化財に指定されています。そして1599年(慶長4年)には、京都の一条堀川に居を構え、多くの優れた門弟を世に送り出しており、旧主家であった伊東家が復興したあと、再び仕えることとなりました。
水減し
「埋忠明寿」(うめただみょうじゅ)は1558年(永禄元年)、「足利家」に仕えていた金工師「埋忠重隆」(うめただしげたか)の次男として誕生。
13歳の頃に、室町幕府15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)に仕え、兄の病没後は、当主として「埋忠家」を率いました。
もともと同家は、足利家の金工師として高い名声を得て、刀剣鑑定を生業としていた「本阿弥家」(ほんあみけ)や諸大名から金工の注文を受けていた名流でしたが、埋忠明寿は、刀工としてもその才能を発揮。「玉鋼」(たまはがね)を赤く熱し、鎚(つち)で叩いて一定の厚さに打ち延ばす「水減し」(みずへし)と呼ばれる新たな技法を考案し、「新刀の祖」として、前述の堀川国広と並び称されている名工です。
埋忠明寿は、金工を本業としていたため、その作刀数はあまり多くありませんが、「京都国立博物館」(京都府京都市)所蔵の「山城国西陣住人埋忠明寿(花押) 慶長三年八月日他江不可渡之」は、国宝に指定されています。
また埋忠明寿は、刀工の師として、初代「肥前忠吉」(ひぜんただよし)などの優れた弟子を育成しました。
また埋忠明寿は、作刀活動を行ないながらも、彫り物の名人としても高く評価されていた刀工でもあります。彫り物を必ず刀剣の両面に施したり、人の目を引くような大きな彫り物を入れるために、寸法の割には身幅を一段と広くしたりするなど、彫り物に合わせた刀剣を作る、個性的な刀工だったのです。
江戸新刀の3人の名工「江府三作」(こうふさんさく)として挙げられる「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)は、甲冑師としても知られています。本名を「長曽禰興里」(ながそねおきさと)と言い、「虎徹」は、その入道(にゅうどう:出家、剃髪して仏道に入ること)名です。そのため刀剣書などでは、「興里」もしくは「長曽禰興里」と記されることも多く見られます。
長曽根虎徹は、刀工よりも甲冑師としての時代の方が長く、刀剣作りを本格的に始めたのは、50歳を過ぎた頃からです。
現在の滋賀県彦根市にある「佐和山城」(さわやまじょう)城下で生まれ、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」後、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)を先鋒とした「徳川家康」方の東軍により、同城が陥落したことによって、現在の石川県金沢市に移り住みました。
そして、金沢で甲冑師として名を揚げたのち、江戸に住み替えて刀工となります。その後、長曽根虎徹は没するまでに、200振以上の刀剣を鍛え、大名道具、大名差しとして大きな人気を博したのです。
徳川家康の十男であり、「紀州徳川家」の始祖でもある「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)が所蔵した「長曾禰興里入道虎徹」、現在の愛知県新城市周辺を中心に活躍した「奥平家」(おくだいらけ)伝来の「長曾祢興里入道乕徹」など、長曽根虎徹作の多くの刀剣が、重要文化財に指定されています。
初代「越前康継」(えちぜんやすつぐ)は1554年(天文23年)、現在の滋賀県長浜市下坂浜町に生まれました。このことから越前康継は「下坂市左衛門」と名乗り、初期の作品には「肥後大掾下坂」(ひごだいじょうしもさか)という銘を残しています。
越前国(現在の福井県北東部)の領主であった徳川家康の次男「結城秀康」(ゆうきひでやす)に召し抱えられ、のちに江戸での鍛刀を命じられたことで、徳川家康・「徳川秀忠」(とくがわひでただ)親子のもとに仕えます。
その腕の確かさから士分待遇を与えられ、徳川家康の1字を賜って「康継」と改名。徳川家のみが用いていた「葵の御紋」を、作刀の銘に施すことを許されたことから見ても、越前康継は、破格の厚遇を受けていたことが分かるのです。
このようなことから、世間からは「御紋康継」や「葵下坂」などと称されるようになった越前康継。2代(通称:「右馬三郎」[うまさぶろう])までは、江戸の「徳川将軍家」と越前国の「松平家」に隔年で出仕していました。
しかし2代が亡くなると、その弟(通称:「四郎右衛門」[しろうえもん])が分家し、越前系康継の3代となります。一方で、2代の嫡男(通称:「右馬助」[うまのすけ])は、江戸系康継の3代を継承。これ以降、越前系は幕末の9代まで、江戸系は明治時代にあたる12代まで引き継がれ、それぞれが栄華を極めました。
「以南蛮鉄於武州江戸越前康継 慶長十九年八月吉日」、「於武州江戸越前康継 以南蛮鉄末世寶二胴本多五郎右衛門所持」など重要美術品に指定された刀剣は多く、「徳川美術館」(愛知県名古屋市)を始め、各所に所蔵されています。
「陸奥守忠吉」(むつのかみただよし)は、「近江大掾忠広」(おうみのだいじょうただひろ)の長男として生まれ、本家3代目を継承しました。
江戸幕府4代将軍「徳川家綱」(とくがわいえつな)の時代に、最上大業物の刀工として名を馳せ、1660年(万治3年)には、「陸奥大掾」を受領。さらに1661年(万治4年/寛文元年)、「陸奥守」に任命されました。
陸奥守忠吉の作刀は、豪壮で伸びやかさがある姿で、その刃文は、山城伝に範を取った「直刃」(すぐは)や「足長丁子」(あしながちょうじ)を多く用いています。また、「地鉄」(じがね)は「小糠肌」(こぬかはだ)で、小板目が精緻に詰み地沸微塵につき明るいのが特徴です。
徳川家綱のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。
野田繁慶
「野田繁慶」(のだはんけい)は、江戸時代初期に活躍した、三河国(現在の愛知県東部)出身の刀工です。もともとは、江戸の地において幕府専属の鉄砲工「胝惣八郎」(あかがりそうはちろう)に師事し、「清尭」(きよたか)の銘で鉄砲作りに励んでいました。
1607年(慶長12年)、徳川家康が駿府(現在の静岡県静岡市)へ隠居する際、野田繁慶も鉄砲工としてそれに随従。火縄銃の制作などを手掛けていましたが、やがて刀工に転向します。徳川家康の没後は、徳川秀忠から鍛刀を命じられ、武蔵国八王子(現在の東京都八王子市役所)に移住しました。
野田繁慶は新刀期の刀工ですが、その作刀は、南北朝時代から鎌倉時代、すなわち古刀期の名工である「相州正宗」と鑑定されたと伝わっており、野田繁慶の作刀技術の高さが窺えます。
現代にまで伝わる作刀は、その多くが重要文化財や重要美術品の指定を受けており、その中の1振である刀「銘 小野繁慶 奉納接州住吉大明神御宝前」は、野田繁慶作の火縄銃や鉄砲と共に、現在の大阪府大阪市にある「住吉大社」(すみよしたいしゃ)に所蔵されている名刀です。
「法城寺正弘」(ほうじょうじまさひろ)は、法城寺一派の頭領であり、長曽祢虎徹と共に新刀期を代表する名刀の作り手です。その本国は、山陰道の但馬国(現在の兵庫県北部)であったとする説もありますが、はっきりとは分かっていません。
法城寺正弘は、江戸で刀工としての腕を振るい、同派は隆盛を誇りました。「近江守」(おうみのかみ)を受領したことから、その作刀の銘に、「近江守法城寺橘正弘」と入れるようになります。
その作風は、江戸新刀の中で高い評価を受けている長曽祢虎徹と酷似しており、目の詰んだ美しい地鉄、直刃調に互の目が連なった数珠刃風の刃文に、金筋・砂流し(すながし)の入る作風が特徴です。
法城寺正弘の作刀は、往々にして、長曽根虎徹の名品と間違えられることがあったと伝えられていますが、実際に長曽祢興里との交流があった可能性も指摘されています。
摂津国(大阪府北中部、兵庫県南東部)出身の初代「和泉守国貞」(いずみのかみくにさだ)は、早くに母親が亡くなり、上京して堀川国広に師事しましたが、実際には、兄弟子である「越後守国儔」(えちごのかみくにとも)に学んだと伝えられています。
その後、大坂に移動し、同門であったとされる「河内守国助」(かわちのかみくにすけ)と共に、「大坂新刀」の礎を築きました。
その作刀には、「於大坂和泉守国貞」、「摂州住藤原国貞」、「和泉守藤原国貞」、「和泉守国貞」などの銘を切り、後述する息子である「井上真改」(いのうえしんかい)と区別するために「親国貞」と称されることもあります。
和泉守国貞は、日向国飫肥藩の伊東家に長く仕えましたが、晩年近くは体調を崩し、井上真改に代作をさせることが多くなりました。
和泉守国貞の作風は、南北朝時代の美濃伝の刀工「志津三郎兼氏」(しづさぶろうかねうじ)を彷彿とさせる刃文など、多種多様な乱刃を焼くのが特徴。重要美術品指定の刀「於大阪和泉守國貞」などが代表作です。
「井上真改」(いのうえしんかい)は1630年(寛永7年)、初代「和泉守国貞」の次男として、現在の宮崎県にあたる、日向国木花村木崎に生まれました。
「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ)と共に、大坂新刀の双璧をなす名工です。
井上真改は9歳になると、父の門人となって作刀技術を学び、20歳頃には、すでに父の代作を務めるほどになっていました。24歳で「国貞」を襲名、25歳で「和泉守」を受領。父親と同じ「和泉守国貞」の銘を切ることになったため、初代・和泉守国貞の作刀を「親国貞」と呼び、井上真改を「真改国貞」と称して、区別する場合もあります。
和泉守国貞の銘を切るようになってからは、飫肥藩藩主であった伊東家の命でのみ刀剣を作るようになり、井上真改と改称した1672年(寛文12年)以降の作刀は少なくなりました。
刀工「井上真改」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。
大坂新刀の三傑のひとりに数えられる「一竿子忠綱」(いっかんしただつな)は、初代「粟田口近江守忠綱」(あわたぐちおうみのかみただつな)の子として誕生しました。「一竿子」とは号であり、近江守を受領するまでと、晩年の作刀に銘として刻まれています。
「一竿子彫り」と呼ばれる彫り物の名手としても知られ、刀身のみならず、彫刻についても自身で手掛けた刀剣には、その銘に「彫同作」、「彫物同作」と入れられているのが特徴です。
京都国立博物館所蔵の太刀「粟田口一竿子忠綱彫同作 宝永六年八月吉」は、重要文化財に指定されており、徳島県徳島市にある「国瑞彦神社」(くにたまひこじんじゃ)には、旧国宝に指定された太刀「粟田口一竿子忠綱彫同作寶永六年八月吉」が所蔵されています。
80歳あまりまで鍛刀し、「良業物」(よきわざもの)と評される名刀を、多数世に送り出した名工です。
刀工「一竿子忠綱」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。
摂津国出身の「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ)は、初代「津田助広」(通称:「ソボロ助広」)の養子であり、2代・津田助広を継いだ刀工です。
生涯にわたり1,700振もの作刀をしたと伝えられ、新刀最上作にして大業物の名工のひとりです。「越前守助広」の銘以外にも、角津田銘が切られた刀剣が500振あまり、丸津田銘が650振あまりあり、さらに槍や薙刀、鉞(まさかり)なども制作していました。
また津田越前守助広は、大海の波を思わせるような、華やかでダイナミックな「濤瀾乱」(とうらんみだれ)と称される刃文を創始したことでも知られています。
刀工「津田越前守助広」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。
肥前国(現在の佐賀県)佐賀に生まれた初代「肥前忠吉」(ひぜんただよし)は、本名を「橋本新左衛門尉」(はしもとしんざえもんじょう)と言い、もともとは、「少弐氏」(しょうにし)という武士の一族であったと伝えられています。
1584年(天正12年)、祖父と父が「沖田畷の戦い」(おきたなわてのたたかい)で亡くなり、この時肥前忠吉は、わずか13歳であったため、橋本家は知行断絶となりました。
そして肥前忠吉は、一族の刀工の世話を受けたのち、上京して山城国(現在の京都府南部)の「埋忠明欽」(うめただみょうきん)・埋忠明寿親子のもとで刀工としての修業を重ねます。
佐賀に戻ると「鍋島家」に召し抱えられ、100名を超える刀工集団を築き上げました。作風は、「小糠肌」と呼ばれる小板目肌のよく詰んだ精緻な地鉄に、重ねは厚く、豪壮な印象を与えます。代表作である刀「肥前國住藤原忠廣 寛永七年八月吉日」が、佐賀県の重要文化財として指定されています。
戦国時代が終わりを告げ、世情が安定してくると、刀剣のあり方にも変化が訪れます。
実用的な武器としての刀剣の意味が薄れていったことにより、求められる要素は変化していきますが、新刀期における優れた刀工は、素晴らしい刀剣を作り続けました。
それらの刀剣には、創意工夫を凝らし、新たな技術を創出した刀工達の努力が宿っていることが窺えるのです。有名な刀工について知ると、刀工であるはずの人物が、もとは武士や野鍛冶の出自であるといった興味深い一面があることにも気付かされるのではないでしょうか。
そんな刀工達によって作られた新刀期の刀剣には、時代の変化に対応した先人の息吹が込められていると言えます。