日本刀は、古墳時代以降に生まれ、時代が進むごとに姿を変えながら洗練されていきました。
日本刀の特徴と言えば、大きな反りがある点。この形を確立していったのが「古刀」期と呼ばれる日本刀の歴史です。901年(延喜元年)の平安時代中期から、安土桃山時代末期の1596年(慶長元年)まで、古刀期に活躍した代表的な刀工達をご紹介します。
国指定文化財(国宝や重要文化財)に選ばれている作品の多くは、古刀に分類される日本刀です。しかし、一口に古刀と言っても、平安時代中期から安土桃山時代末期という、約800年の長い年月に亘って作られているため、ひと括りで表現することはできません。
しかし、この古刀期に「五箇伝」(ごかでん)が生まれ、各地域、各時代で特色あふれる美しい日本刀が作刀されました。
ちなみに、五箇伝とは「大和伝」(奈良県)、「山城伝」(京都府)、「備前伝」(岡山県)、「相州伝」(神奈川県)、「美濃伝」(岐阜県)のことです。5つの地域に伝わる伝法は、それぞれが独特の特徴を持ちながら、お互いに優れた技術を共有し、発展しました。
「五箇伝」をはじめ、日本刀に関する基礎知識をご紹介します。
平安時代初期から中期へかけての日本刀の主流は、貴族階級が佩用(はいよう:身に付けて用いること)する「平造り」の直刀でした。それらは戦ではなく、儀式などに使用することを目的としていたため、あまり実用的な作りではありませんでした。
そして、平安時代中期以降には、日本刀の基本形とも言える「鎬造り」(しのぎづくり)で、長く反りのある「湾刀」(わんとう)へと変化。この変化の背景には、騎馬戦の登場があります。馬上から日本刀を振り下ろして薙払うのに、長寸で反りのある湾刀が適していたのです。
そして、手元から湾曲する形を「腰反り」と言います。
平安時代後期になると、武士の勢力が増大。こうした動きで日本刀の需要は高まり、質の良い砂鉄が取れる地域に刀工が集まるようになります。各地域で刀工が集団化し、流派が生まれ、それに伴い日本刀は発展しました。
太刀は柄と刀身が一体となった「毛抜形太刀」(けぬきだち)などの様式を基本として、日本刀の形式が定まっていき、より実戦性の高い姿へとなっていきます。
刀鍛冶
鎌倉時代初期は、鎌倉幕府による武家政治の体制が確立し、日本刀の需要が高まり、さらに刀工達の数が急増。「後鳥羽上皇」が「御番鍛冶」(ごばんかじ)を設け、刀工達を招き積極的に作刀を奨励するようになり、多くの名刀が作られました。
その際に招かれたのは、「粟田口派」(あわたぐちは)や「一文字派」(いちもんじは)などの名工達です。鎌倉時代中期になると、平安時代の優美な姿から、実用性を重視した豪壮な姿に変化していきます。
身幅が広く、鋒/切先は幅広で長さが詰まり、反りは腰反りから「中反り」に変わりました。まさに大鎧を打ち砕くのにふさわしい姿です。
鎌倉時代末期には、1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)の2度にわたる「元寇」の急襲で、日本刀作りは活発化し、より堅牢な造りへとなっていきました。
そして、時代が進むにつれて、従来の馬に騎乗して太刀で戦う戦法から、集団の徒歩による接近戦の戦法が主流になっていきます。この時代の日本刀は、3尺(約90cm)以上の大きさを持つ大太刀や野太刀が多く作られています。
振り回しやすいように軽量化し、重ねを薄くするなどの工夫を凝らしているのが特徴。
この時代の大太刀は、のちに多くが「磨上げ」(すりあげ)や「大磨上げ」(おおすりあげ)と呼ばれる加工法で短くし、打刀に作り変えられました。
大小二本差し
1467年(応仁元年)には、「応仁の乱」が起こり、やがて戦国の世に時代は移り変わります。各地で戦国武将達の戦が増え、日本刀の需要も爆発的に増大しました。
こうして「数物」(かずもの)と呼ばれる実用重視の大量生産品が作られます。
その一方で、武将達は「注文打ち」とも言われる自分用の日本刀を刀工達に注文しました。
また、これまで帯で腰に佩いていた太刀から、腰に差す「打刀」へと変化します。大小2振の日本刀を使用するようになったのは、室内や狭い場所での戦闘に対応するためです。
そしてかつての大太刀を、戦国武将達が戦に用いりやすいよう秘蔵の太刀を大磨上げさせることを「天正磨上」(てんしょうすりあげ)とも呼びます。
歴史上の人物が活躍した合戦をご紹介!
新藤五国光
父「粟田口国綱」が山城国(現在の京都府)から相模国に招かれ、子である新藤五国光も作刀技術を身に着けて起こった一派。作風は、刃文に小板目肌(こいためはだ)がよく詰み、蜘蛛の巣が張ったような風合いが特徴です。
刀工「国光」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。
日本刀史上、最も著名な刀工のひとり。師である新藤五国光の興した相州伝の作風をより独自の流派へと進化させました。
また、相州正宗の技工を継ぐ「正宗十哲」(まさむねじってつ)と呼ばれる優秀な弟子を輩出。その弟子達も全国に散らばり作刀しました。
相州貞宗は、「彫刻の名手」とも呼ばれ、護摩箸や梵字、倶利伽羅など個性的な彫り物が特徴。作風は、正宗が実戦的で華美な作柄であるのに対し、貞宗はそこに豪壮さが加わり穏やかな印象になります。
それは、正宗以上によく詰んだ美しい鍛え肌によるものです。
刀工「貞宗」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。
美濃伝の刀工集団「三阿弥派」(さんあみは)でもありました。初代兼元は、「三阿弥兼則」(さんあみかねのり)の孫で、父の名が「六郎左衛門」(ろくろうざえもん)であったことにちなんで、「孫六」と称したと言われています。
また、孫六兼元を襲名した2代目兼元は、「四方詰め」と呼ばれる独自の鍛刀法を編み出し、その名を全国に知らしめました。折れず、曲がらず、切れ味も良いと戦国武将達に愛用され、江戸時代には「関の孫六」の名で広く有名になりました。
刀工「孫六兼元」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。
切れ味も良く、のちに最高ランクの「最上大業物」と評価されたほどで、江戸時代には「千両兼定」(高値で取引されることから付いた呼び名)とも称されました。有名な日本刀では、「柴田勝家」や「明智光秀」などが所持した「篠ノ雪」(ささのゆき)があります。
篠ノ雪の名前は、鋒/切先に触れるだけで、笹の葉に積もっている雪が落ちるくらいによく斬れるという意味から付けられました。
三条という名前は、京都三条に居住していたことから付けられました。代表作は「三日月宗近」という太刀で、前述した天下五剣の1振でもあり、その中で最も優れた日本刀とされています。「三日月」の由来は、刀身に三日月形の刃文の一種が数多く現れることからです。
そんな短刀作りの名手である粟田口吉光が作刀した「一期一振」(いちごひとふり)は、希少な太刀。それ故に「一期一振」(生涯で一度きりの太刀)と号されています。
古備前友成
伯耆国(現在の鳥取県の一部)の「大原安綱」、山城国の三条宗近と共に、日本最古の「三名匠」と呼ばれる刀工。そして古備前派は、備前伝をはじまりとし、のちに興る「一文字派」や「長船派」の源流でもあります。
友成作の日本刀は、「平教経」(たいらののりつね)が「厳島神社」(広島県廿日市市)に奉納した太刀「厳島の友成」や「鶯丸」(うぐいすまる)などが有名です。
刀工「友成」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。
なかでも「長船派」は高く評価され、どの時代でも名刀の代名詞。光忠は武士の時代に即した、実戦向けでありながら華やかな作風が魅力。光忠作の日本刀には、燭台ごと斬り落としたと言う切れ味の鋭さを物語る「燭台切光忠」(しょくだいきりみつただ)などがあります。
刀工「光忠」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。
現存する長光の日本刀は、国宝や重要文化財、重要美術品を合わせると70点存在します。代表作は「大般若長光」(だいはんにゃながみつ)という太刀。
室町時代にはすでに「大般若」の異名で広く知られた名刀で、600貫(現代の金額で約2,000万円相当)の高値が付けられた名刀です。
刀工「長光」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。
しかし応仁の乱が起こると、実戦に即した日本刀が必要とされます。三原派の日本刀は斬れ味が良かったことから、以降、評判を集めました。
江戸時代に書かれた「懐宝刀尺」(日本刀の切れ味の良さを順位に表した書物)では、最上大業物の1振にも選ばれています。