江戸時代

江戸時代の服装とは

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天下泰平の世と言われた江戸時代は、和のファッション文化が熟成された時代でもあります。職業に応じた衣服が誕生し、武士や町人など、身分に応じたバリエーション豊かな服装が生まれました。装飾品も多彩になり、庶民の間にもオシャレや流行を楽しむ習慣が広がっていきます。一方、戦闘服だった甲冑(鎧兜)は、戦いがなくなったことにより、美術品や防具としての価値が高まっていきました。そんな江戸時代の衣服や装飾品・甲冑(鎧兜)について、ご紹介します。

江戸時代の衣服の流れ

江戸時代は、和の服飾文化が花咲いた時期と言っても過言ではありません。鎖国によって日本独自のファッションが育ち、当時の法令や流行の影響を受けながら進化・熟成されていきました。そんな江戸時代における、衣服の特徴や流れについて、詳しく説明します。

江戸時代初期:1596年(慶長元年)~1688年(貞享5年)

小袖

小袖

まだ戦国時代の余韻が残り、武家が権力や経済力を持っていた江戸時代初期は、ファッションも武家が主導権を握っていました。

庶民は、麻や苧(お)などの質素な素材の衣服を着用していた一方、武家女性は金銀箔や刺繍などが入った豪華な衣服を着飾り、身分による服装の格差が激しかったことが伺えます。

また江戸時代初期は、それまで上流貴族の下着として着用されていた「小袖」が主役になっていった時代です。

江戸初期における小袖は、身幅が広く、丈は身丈と同じで、袖丈は短く、袖口は小さい物が一般的。帯は2寸(8cm)程度と狭く、折りこむスタイルの「カルタ結び」が普及しました。

また、江戸幕府の体制に反発する「男伊達」(おとこだて)や「かぶき者」と呼ばれる者(今で言う、やくざや町の用心棒のこと)も現れ、豪快で大胆な柄の衣服が着用されました。

江戸時代中期:1688年(元禄元年)~1789年(天明9年)

友禅染

友禅染

江戸時代中期になると、それまで貴族や武士の特権だった花見や旅行などの娯楽や行事が庶民にも広まり、商人や町人達が経済力を付け、「町人文化」が最盛期を迎えます。

中期の前半は、「元禄模様」と呼ばれる花鳥や百花、風景などを描いた華麗な模様が流行し、今でも人気のある「友禅染」が誕生したのはこの頃です。また、当時活躍した尾形光琳の画風を模した「光琳模様」もブームとなりました。

振袖

振袖

中期の後半になると、豪華な模様は下火になり、縞模様や小紋といった控えめな柄が普及するようになります。また、江戸時代中期になると、普段着の小袖もフォルムや帯が変化し、「機能性」よりも「見た目」が重視されるようになります。

小袖の身幅は、初期に比べると細身になり、身丈は裾を引きずるほど長くなりました。「帯」は幅が広く、長い帯が普及し、「帯結び」にも多彩なバリエーションが生まれます。

そのファッションリーダーになったのが、当時人気のあった歌舞伎役者達です。上村吉弥による「吉弥結び」(きちやむすび)などを中心に、様々な帯の結び方が誕生し、「昼夜帯」と呼ばれるリバーシブルの帯なども流行しました。

なお、「機能性」より「見た目」という流行から、「袂」(たもと)を長くさいた「振袖」を娘に着せる習慣も始まったのです。袖の長さは1尺5寸くらいから始まり、時代の経過と共に長くなり、2尺9寸(ほぼ90㎝)まで達したと言われています。

江戸時代後期:1789年(寛政元年)~1868年(慶応4年)

重ね着

重ね着

江戸時代後期も、「見た目」重視の優美な衣装が流行り、「羽織」や「お太鼓結び」など、現在の着物に通じる物が多く登場しました。

しかし、「寛政・天保の改革」によって贅沢品への規制が一段と厳しくなり、櫛などの小物でも、華美な品と見なされれば奉行所に連行されるようになります。

そんな状況下においても、ファッションリーダーとなったのは中流以下の庶民です。

江戸時代中期の後半から、地味な「縞模様」や「小紋」が普及しましたが、質素な衣服を着ながらも、小物や裏裾などを使い、「規制の範囲内でオシャレを楽しむ」という新しい美意識が誕生します。

そのような流れの中、「重ね着」をする人が増え、襦袢や内着などの配色や模様を工夫することがセンスの見せ所でした。「一見地味だけど、よく見るとオシャレ!」というのが「江戸の粋」とされたのです。

また、小袖は、身丈や身幅・袖幅が現代とほぼ同じ寸法となり、裾を引いて細長く見せるスタイルが主流となりました。

服を見れば職業が分かる「江戸時代の服装」

江戸時代は、職業や身分に応じ、衣服の形や素材などが分類されていました。これらの種類豊富な服装は、江戸のファッション文化をさらに彩ることになります。江戸時代の衣服について、職業別に紹介します。

公家

礼服

礼服

朝廷に仕える公家の男性は、即位式には「礼服」を、年中儀式には「束帯」を着用するのがルールでしたが、日常の公務では、束帯の略装となる「衣冠」などを身に付け、私服としては「狩衣」を着用していました。

公家の女性の場合、女官は即位式や年頭儀式に「唐衣裳装束」(からぎぬもしょうぞく)と呼ばれる平安時代の女官の正装を着用。年中儀式には「小袿装束」(こうちきしょうぞく)という略装を着ていました。

下級女官は、「張着」(はっき)を着用。その他一般の公家女性は、「小袿」や「五衣」(いつつぎぬ)などを重ね着したスタイルが主流でした。なお、宮中では古来より「広袖形式」の服装でしたが、江戸時代には小袖形式の衣服も着用されるようになります。

1620年(玄和6年)に、二代目将軍「徳川秀忠」の娘「正子」(のちの東福門院)が入内したことにより、武家が着用していた小袖形式の服装が、宮中に取り入れられるようになったと言われています。

武家

狩衣

狩衣

武士は、「官位」や「家格」などによって服装が決められており、儀礼用衣服は特に細かく、「束帯」、「衣」、「直垂」、「狩衣」、「大紋」、「布衣」、「素襖」、「長裃」の8つのランクに分かれていました。

正装・礼装には、「長裃」や「半裃」などを着用しましたが、普段は小袖を着流す、飾らない格好もしていたと言われています。

武家女性においても、家柄や身分・年齢によって細かく規定されており、将軍家に仕える大奥の場合、将軍に謁見できる、御目見(おめみえ)以上の女性は、「腰巻」や「打掛」姿が基本的な服装で、将軍に謁見できない御目見以下の女性は、小袖姿が主流でした。

町人

町人

町人

町人男性は、正装には「羽織袴」を、礼装には「裃」(かみしも)を着用し、プライベートでは小袖を着流すというのが一般的。江戸時代中期になると「浴衣」が誕生し、夏場には浴衣1枚で過ごすこともありました。

町人女性の正装や礼装は、小袖に「雪駄」(せった)でしたが、裕福な家は「打掛」を使用。普段着は町人男性同様に小袖が主流で、仕事をする際は裾を端折って「襷」(たすき)で留め、前掛けや手ぬぐいを着用しました。

男性の小袖の素材は「木綿」がメインでしたが、女性の場合は木綿の他に「羽二重」(はぶたえ)、「縮緬」(ちりめん)、「綸子」(りんず)などがあり、柄にも様々なバリエーションがありました。

農民・漁民

農民・漁民の服装

農民・漁民の服装

農民や漁民の服装は、1628年(寛永5年)に公布された「衣服制限令」によって、「布」または「木綿」に限定されます。

彼らの衣服で特に重視されたのは、農作業や漁仕事に耐えうる「耐久性」と「防寒性」でした。

このため、生地を重ね合わせて細かく縫う「刺し子」という手法が取り入れられます。この刺し子は、やがて「魔除け」や「豊作祈願」といった、特定の意味や装飾性のある模様を縫い表す手法として発展していきました。

遊女

花魁

花魁

遊女が働く吉原には、特有のルールや身分制度があり、着用する衣服にも決まりがありました。

遊女の中で最も位が高かった「花魁」は、豪華な小袖を2枚着用し、錦や「緞子」(どんす)などの前帯を結び、さらに「打掛」を2~3枚羽織るという華麗な服装でした。

この豪華な服装は、「花魁道中」を行なう際の外装着で、普段は小袖や「胴抜き」(襟や裾などに赤地を用いた衣服)を着ていました。

庶民にも流行した江戸時代の「装飾品」

江戸時代になると、「装身品」が多彩になり、「オシャレ」と「実用性」を重視したアイテムが一般化しました。江戸時代で特に人気のあった装飾品を紹介します。

髪飾り

かんざし

かんざし

江戸時代に入ると、女性の「結髪」が定着。「島田髷」や「勝山髷」などの髪型が誕生し、「かんざし」や「櫛」といった髪飾りが普及しました。

かんざし
武家や庶民を問わず、女性に広く浸透した装飾品です。楕円形や細身など様々な形が誕生し、蒔絵や漆・透かし彫りなど、技巧を凝らしたかんざしが作られるようになります。素材は、象牙やべっ甲、珊瑚、金、銀などが用いられていました。
櫛(くし)
木製の「黄楊」(つげ)を素材とした櫛が広く普及しましたが、高価な「象牙」や「べっ甲」の櫛も流行。牛爪など、安価な素材で作られた「べっ甲風」の櫛も作られました。
笄(こうがい)
髷(まげ)を作るための実用品です。髷の外にはみ出す部分があるため、装飾品としての一面もあります。初期は角や鳥の骨を使用し、のちにべっ甲などを用いた品が流通しました。

袋物

袋物(ふくろもの)とは、日常的に使用する「小道具を携帯するための袋」で、懐に入れるタイプと腰から下げるタイプがありました。武士や町人達の間で広く愛用されており、主に普及していた袋物は次の通りです。

煙草入れ
煙草の葉や煙管、火打石など、喫煙に必要な道具を入れる袋です。煙草入れには、懐に入れる「懐中」や根付を付ける「ひとつ下げ」、煙管を筒に入れて腰に下げる「腰差し」などの種類があります。主に町人の間で普及し、男女共に持ち歩きました。
紙入れ
懐紙や鼻紙、鏡や楊枝など、身なりやエチケットに関する道具を入れる袋です。江戸時代前半は長方形の袋にフタが付いたタイプが普及し、後半になると、二つ折りや三つ折りタイプが普及します。もともとは遊客の持ち物でしたが、江戸時代には町人を中心に男女隔てなく使用されるようになりました。
守り袋
神社仏閣のお守りを入れる袋です。巾着などの形をしており、懐に入れて携帯していました。
袂落とし(たもとおとし)
左右の袂に入れる小さな袋です。左右の袋は紐か鎖でつなぎ、首からかけられるようになっていました。主に、懐紙や手ぬぐい、煙草道具なども入れており、忘れ物を恥じる武士が多用していたと言われています。
箱迫(はこせこ)
箱のような形をした袋で、武家や裕福な町人が、儀式や年中行事の際に使用していた装飾品です。懐紙や櫛・鏡などを収納していました。
印籠
小さな容器を3段ほど重ねて紐でつなぎ、紐の先に留め具(根付)を付けた装飾品です。用途は薬入れで、主に武士が使用していました。「蒔絵」や「螺鈿」(らでん)など趣向を凝らした品が作られており、服装の規制が厳しかった江戸時代に、オシャレや個性をアピールする方法のひとつとして普及しました。
根付
印籠の留め具として使用された、提げ紐です。大きさは1㎝から数㎝程度で、印籠と同様に、オシャレやオリジナリティを表現するグッズとして流行。人物や動物をかたどったデザインが流通し、素材には木材や象牙などが使用されました。

江戸時代の甲冑(鎧兜)

江戸時代は「天下泰平の世」と言われていますが、甲冑(鎧兜)の出番がなくなったわけではありません。初期には実戦に用いられ、その後は美術品や防具として新しい価値が見出されました。

江戸時代の甲冑(鎧兜)の役割と特徴

越中具足

越中具足

江戸時代における甲冑(鎧兜)は、主に戦闘服としての役割を果たしていました。1637年(寛永14年)の「島原の乱」では、福岡藩の「黒田忠之」(くろだただゆき)といった武将が甲冑(鎧兜)を着用して出陣したと伝えられています。

その後は、戦闘服としての役割は薄れ、美術品や防具としての需要が増えていきました。美術品としての甲冑(鎧兜)は「飾り甲冑(鎧兜)」とも呼ばれ、各藩に所属していた甲冑師によって新たな甲冑(鎧兜)が制作されたり、軍学者による改良などが行なわれたりしました。

江戸時代中期になると、甲冑(鎧兜)は「武家の家柄」を表す象徴的な存在になります。デザインも「実用性」より「様式美」が優先され、当世具足が使用される前の「大鎧」や「胴丸」といった「復古調の甲冑(鎧兜)」が好まれるようになりました。

その一方、藩がオリジナルで制作する当世具足も登場します。

代表的な物としては、仙台藩で作られた「雪の下胴具足」や細川家で着用された「越中具足」があります。

防具としては軽量化され、下級武士や足軽などに着用されるようになります。特に多用されたのは、携帯可能な「畳胴」(たたみどう)と、着物の下に着込むことができる「鎖帷子」(くさりかたびら)でした。

折りたたみ式の甲冑(鎧兜)「畳胴(畳具足)」

畳胴

畳胴

「畳胴」(たたみどう)とは、「蝶番札」(ちょうつがいざね)や「馬甲札」(ばこうざね)などの金属片と鎖を家地(いえじ:下地の布や革)に縫い付けた胴のことで、「畳具足」とも呼ばれています。小さく折畳むことができたためこの名が付きました。

畳胴の最大の特徴は、板状の金属片を使用しており、他の当世具足より軽量で持ち運びが容易だった点です。

また、鎖でつながれた金属片を家地に縫う簡単な方法で制作された具足だったため、大量に生産することが可能でした。

畳胴は主に下級武士や足軽などが使用しましたが、旅先での非常時に備えて、上級武士が持ち運ぶこともあったのです。

忍者や赤穂浪士・新選組が使用した「鎖帷子」

鎖帷子

鎖帷子

「鎖帷子」(くさりかたびら)は、細かく編んだ鎖を裏地のない麻の生地に縫い付けた衣服で、防具として着物の下に着用します。

鉄製の甲冑に比べて薄く軽量だったため、装いやすく動きやすいというメリットがありました。防御力もあり、日本刀などの攻撃から身を守る役割を担っていました。

この鎖帷子を着用していたことで有名なのが、忍者や赤穂浪士、新選組などです。

忍者の衣服については諸説ありますが、「忍装束」と呼ばれる衣服の下に鎖帷子を着用していたと言われています。

また、赤穂浪士は、1702年(元禄15年)に実行した吉良邸への討ち入りに際し、防具として鎖帷子を用意したとされており、新選組の「土方歳三」も、1864年(元治元年)に発生した「池田屋事件」の際に着用したと言われています。

江戸時代の服装とは

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