江戸時代

江戸時代の食文化とは

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戦国時代が終わり、「太平の世」となった江戸時代は、商業が発展するとともに生活レベルも向上し、私達が毎日食べている日本食の原型が作られていきました。 特に、「醤油」や「みりん」といった日本独自の調味料が普及した他、そば、寿司、てんぷら、うなぎの蒲焼きなどといった外食できる屋台や店が増えたことにより、「外食文化」が定着します。そんな江戸時代の食文化について、詳しく説明します。

「1日3食」が定着

江戸時代の前は、ほとんどの人々が「1日2食」でした。しかし、江戸時代になると、水車による精米の機械化で精米技術やスピードが向上したことや、江戸で発生した「明暦の大火」(めいれきのたいか)の復興作業で、肉体労働をする職人達が2食だけでは足りなくなったことにより、「1日3食」を摂ることが定着。

また、高価だった照明用の菜種油が値下がりしたことによって灯りが使用されるようになり、1日の活動時間が長くなったことも後押ししました。

「醤油」の普及

醤油の製造

醤油の製造

江戸時代初期頃までは、関西地方が食文化の中心でした。「醤油」の醸造は、兵庫県の龍野市(現在のたつの市)や和歌山県湯浅町などで本格的に生産。関西地方で醤油が普及すると、質の高い醤油は、堺市大阪市などから水運を使って江戸へ運ばれ、江戸の町にも広がっていきました。

その後、醤油の産地として名高い千葉県野田市銚子市など、関東地方でも作られるようになった他、淡口醤油、白醤油などといった様々な醤油が造られるようになり、これに伴って料理も多様化。

当時、生魚は酢や味噌で和えたナマスにして食べるのが一般的でしたが、刺身として食べる他、にぎりずしや照り焼きなどといった料理へと発展し、醤油の普及と共に、江戸時代の食文化も大きく変化していきました。

「みりん」の普及

「みりん」の起源については諸説ありますが、戦国時代に中国から「蜜淋」(みいりん)という甘い酒が伝わったという説と、「練酒」や「白酒」の腐敗防止のため、焼酎が加えられてみりんになったという説があります。

現在みりんは、主に調味料として使われていますが、戦国時代までは、甘い高級酒として飲用されていたのです。江戸時代後期になってから、「蕎麦つゆ」や「蒲焼きのたれ」など、料理のコクやうま味を引き出す調味料として使われるようになりました。

ただし、明治時代以降もみりんは高級品だったため、一般家庭にみりんが普及するのは、昭和30年頃になってからになります。

「砂糖」の国産化

徳川吉宗

徳川吉宗

江戸時代に普及した嗜好品のひとつに、「砂糖」があります。砂糖は、1610年(慶長15年)に、奄美大島の「直川智」(すなおかわち)という人物が、中国からサトウキビの苗を持ち帰り、栽培を始めたのが国産砂糖の始まりだとされています。

江戸時代以前にも砂糖を使ったお菓子はありましたが、当時砂糖は輸入しないと手に入らない高級品で、上流階級しか口にできず、薬用として用いられていました。

17世紀後半になると、薩摩藩が琉球でサトウキビ栽培と砂糖の製造を積極的に行なうようになります。製造された砂糖は、大阪の問屋から江戸の問屋へと出荷され、江戸で砂糖の需要が拡大すると、8代将軍「徳川吉宗」が、琉球からサトウキビを取り寄せ、砂糖の国産化を奨励。高松藩丸亀藩徳島藩などでも砂糖生産が行なわれるようになり、この砂糖の普及が、和菓子などの発展をもたらしました。

「料理書」の普及

江戸時代に普及した物のひとつに、「料理書」があります。文字を読める人が増えたことにより、木版印刷の料理書がたくさん出回りました。それまでは、口承によって伝えられていた料理の知識が、書物に記されて民衆の間にまで広まるようになります。

作られた当初は、料理人が読む専門書でしたが、江戸の町で外食文化が発達した頃から、一般大衆向けの料理書が多く刊行され、1782年(天明2年)に生まれた「豆腐百珍」という料理本は、料理方法の紹介だけでなく、豆腐にまつわる文学作品なども掲載されました。

また、今で言う「グルメガイドブック」のような飲食店を紹介する書物「江戸名物酒飯手引草」が登場。貸座敷御料理に始まり、蒲焼き、どぜう、寿司、茶漬け、そばなど、それぞれの名店が紹介されました。江戸時代の人々にとって、食文化はとても大切な楽しみだったことがうかがえます。

「旅行ブーム」と「茶屋」の普及

江戸時代、庶民が旅をすることは各藩の法律によって原則禁止されていましたが、病や怪我を癒すための治療行為であれば認められていました。

また、江戸時代後期に入ると、「お蔭参り」と呼ばれる伊勢参拝がブームとなります。これをきっかけに、もともと信仰を目的とした旅が、道中の食事や温泉などが旅の目的となり、庶民の楽しみのひとつとなりました。

これに伴って、五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)を中心に、旅行者の宿泊・休憩所となる「宿場」や「茶屋」が普及し、お茶や餅、菓子、酒やつまみの料理なども提供されるようになりました。

もともと街道の休憩場所として作られた茶屋ですが、やがて江戸の町中にも作られるようになります。

部屋を貸し切って会合などに使う「待合茶屋」や、劇場の近くに作られた「芝居茶屋」などが作られた他、男女の出会いの場を提供する「出会茶屋」といったユニークな茶屋も登場しました。

また、「明暦の大火」の復興作業に励む職人達に、食事を提供するために生まれたのが「煮売茶屋」です。煮売茶屋では、あらかじめ用意した定食を提供した他、食事やお酒を提供する「居酒屋」なども登場しました。

宿場町で生まれた「名物料理」

江戸時代の旅行ブームの中で、各地の宿場町で名物料理が誕生します。埼玉県蕨市(わらびし)は、かつて中山道(なかせんどう)の宿場町として栄え、「お茶漬け」が名物となりました。このお茶漬けは、地元の神社の名前にあやかって「和楽備茶漬け」(わらびちゃづけ)と名付けられ、焼きおにぎりの上にかつおダシを注ぎ、「じゃこの山椒煮」や「湯葉の金平」などをトッピングして食べました。

また、徳川家康が静岡県の府中宿に立ち寄った際、献上されたきな粉をまぶした餅を食べると、そのあまりにのおいしさに感動し、その餅に「安倍川もち」と名付けたと伝えられており、現代でも静岡県の名物となっています。

にぎりずし

にぎりずしは、もともと東南アジアで生まれ、日本では奈良時代には食べられていたと言われています。当初は「なれずし」と呼ばれ、川魚を米と塩で混ぜた物を、数ヵ月から数年、重石を置いて熟成させた物で、魚のみを食べていました。

江戸時代になると、酢が普及し、箱につめた酢飯の上に魚介類を乗せて蓋をし、重石を置いて数時間後に食べる「早すし」が誕生。その後、お客様の前で新鮮なネタを即席でにぎる「にぎりずし」が登場します。このにぎりずしは、立売り屋台などでさかんに売られ、江戸の各町には1~2軒の寿司屋があったと言われています。

ただし、当時はまだ冷蔵できなかったため、寿司ネタに火を通した物や、酢でしめた物だったと言われています。

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