安土桃山時代

安土桃山時代の住宅(家)とは

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安土桃山時代を象徴する建築と言えば、「城郭建築」が挙げられます。織田・豊臣政権により天下が統一されると、城は軍事拠点から「権力の象徴」としての意味を持つようになり、絢爛豪華な天守閣が造られるようになりました。代表的な城としては、織田信長の「安土城」や豊臣秀吉の「大阪城」などが挙げられます。 また、武士達の間では「茶の湯」が流行し、武将の個性を反映した様々な茶室が作られるなか、「数寄屋造」という新しい建築様式が誕生しました。そんな安土桃山時代の建物についてご紹介していきます。

安土桃山時代の「城」

城と言うと、石垣の上に天守(天守閣)が建ち、周りには城下町が広がっている景色をイメージしますが、もともと城は、敵の攻撃を防ぐために築かれた軍事拠点であり、食糧や武器などの備蓄場所でした。

しかし、織田信長豊臣秀吉によって天下が統一されると、城は敵の攻撃を防ぐ防衛機能だけでなく、権力の象徴となり、平時は政庁、有事には司令塔という機能を果たすようになりました。

このような天守がある城のほとんどは、安土桃山時代から、江戸時代初期に築かれた物で、織田信長の安土城がその始まりとされています。

  • 織田信長のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

  • 豊臣秀吉のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

  • 織田信長のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

  • 豊臣秀吉のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

天守(天守閣)

当初、城は山や丘などの高いところに作った砦のような形態で、敵の様子を探るために設けた「物見やぐら」としての役割を果たしていました。

しかし、安土桃山時代になると、防衛機能などの「実用性」だけでなく、城主の力や威厳を示し、民衆を支配する権威の象徴としての「芸術性」も加わり、絢爛豪華な「天守」(天守閣)へと発展しました。

城郭建築の原型を作ったとされる織田信長の安土城は、地下1階、地上6階建て、天守の高さが約32メートルとされ、籠城用の井戸や武者走り、石落などの設備が少ないことから、政治や象徴としての役割を優先させて作られたと考えられています。

また一般的に天守は、日常的な居住空間としては使用されませんが、織田信長はこの天守で生活していたと言われています。

歴女に人気の「天守」についてご紹介します。

障壁画

「城郭建築」とともに、安土桃山時代を象徴するひとつが「障壁画」です。障壁画は、城郭内部にある襖(ふすま)や壁、屏風(びょうぶ)、障子などに描かれた絵画のことで、絢爛豪華さが好まれた安土桃山時代は、金箔の地の上に、花や鳥などの鮮やかな絵を描いた「濃絵」(だみえ)が流行しました。

描かれるテーマは、花や鳥といった日本的な題材の物から、虎や龍など中国の物まで多種多様で、名古屋城の本丸御殿では、当時の障壁画を復元した作品を観ることができます。

これらの障壁画を描いたのが「狩野派」と呼ばれる画家集団で、のちに江戸幕府の御用絵師としても活躍する「狩野永徳」(かのうえいとく)が、安土城や大阪城の障壁画を描いたと言われています。内裏、城郭などの障壁画から扇面に至るまで、様々なジャンルの絵画を手掛け、その後の日本美術界に多大な影響を及ぼしました。

襖障子の歴史や描かれていた障壁画についてご紹介します。

武将達の外交の場「茶室」

茶室

茶室

安土桃山時代になると、織田信長や豊臣秀吉などの戦国武将をはじめ、武士達の間で「茶の湯」が大流行します。狭い茶室に武士達が集まり、ひとつの茶碗を回し飲みしながら話をする社交の場となっていました。

「茶室」に招かれた客人は、「躙り口」(にじりぐち)という縦横60cmほどの狭い入口から入らなくてはいけないため、まず刀を外し、茶室の外にある「刀掛け」に刀を置いてから茶室に入室します。

刀を持たず、お互いに丸腰だからこそ、リラックスした状態で話し合えたのです。

現代まで残ってきた武士の風習をご紹介します。

茶室の構造

茶室はその広さによって、4畳半以下の「小間」(こま)と4畳半以上の「広間」(ひろま)に分類されます。室内には、「床の間」(とこのま)や「炉」(ろ)の切られた畳があり、また客が出入りする躙り口の他に、亭主が出入りする「茶道口」(さどうぐち)が設けられました。

現代の和室にもあるように、床の間には「禅の精神」を表した言葉が書かれた「掛け軸」が掛けられています。また、畳の一部分を四角形に切り取った炉には、中に炭を入れて火をおこし、その上に釜を乗せて湯を沸かしました。

また、茶室は「亭主」と「客人」の位置関係や炉の切られた場所によって呼び方が変わり、亭主の右側に客人がくるのが「本勝手」(ほんがって)、左側にくるのが「逆勝手」(ぎゃくがって)です。

畳のどの部分で炉を切るかは、「台目切り」(だいめぎり)や「向切」(むこうぎり)などの4通りあり、これらと主客の位置関係とを掛け合わせた8通りの分類があります。

「茶室」から始まった住宅様式「数寄屋造」

安土桃山時代までの武士の住居は、「書院造」(しょいんづくり)と呼ばれるスタイルが一般的でした。書院と言う書斎スペースや、棚などを設けた重厚感のある様式が武士に好まれましたが、「侘び・寂び」(わび・さび)の精神を重んじる茶の湯が流行するにつれ、「数寄屋造」(すきやづくり)という新しいスタイルが好まれるようになります。

「数寄」(すき)とは「好き」の当て字で、茶の湯や生け花といった風流に心を寄せる様を指し、「数寄屋」とは、もともと茶室を意味していました。

「数寄屋造」は、決まった形式があるわけではなく、床の間の段差や書院造に見られた格式張った要素が取り払われ、竹や杉皮を天井にあしらったり、土壁を用いたりするなど、自然の素材が用いられました。

「千利休」の茶室

千利休

千利休

安土桃山時代の「茶の湯」や「茶室」を語る上で欠かせない存在が、茶道を大成させた「千利休」です。彼は、織田信長や豊臣秀吉の茶道の先生であり、武士の政治にまで影響を及ぼしました。

千利休の作った茶室のうち、彼の精神性が最もよく表現されているのが、「妙喜庵 待庵」(みょうきあん たいあん)です。わずか2畳の茶室で、壁も黒く、一切の余計な物がありません。まさに、「侘び寂び精神の極致」とも言える、徹底した最小限主義が追求されています。

なお、「妙喜庵 待庵」は、豊臣秀吉が「山崎の戦い」で勝利したのち、山崎城建設の際に作らせた物だと言われています。現在、日本最古の茶室建造物として、国宝に指定されており、京都大山崎で観ることができます。

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戦国武将達の個性豊かな「茶室」

茶の湯を愛した安土桃山時代の武士達は、自分達の個性や精神を反映した茶室を作りました。織部焼(おりべやき)の祖であり、武家茶道に多大な影響を残した「古田織部」は、「燕庵」(えんなん)という茶室を残しています。

燕庵は、「相伴席」(しょうばんせき)という客のお供の人が座るスペースと「客座」の間に、取り外し可能な襖を設けたことが大きな特徴です。

武士である古田織部は、千利休の精神を受け継ぎながらも、相伴席をメインの客の位置と隔てることによって、武士として位の高い人を迎えられるよう工夫を加えました。

また、狭く暗かった千利休の茶室と比べると、広くて窓も多く作られたため、明るい空間になっているのも特徴です。

国宝茶室「如庵」

国宝茶室「如庵」

この他に、織田信長の弟で千利休の弟子でもあった「織田有楽斎」(おだうらくさい)は、国宝に指定されている「如庵」(じょあん)という茶室を作りました。床の間の横にある壁が斜めになっていたり、竹を並べて打ち付けて作った「有楽窓」と呼ばれる窓を用いたりと、随所に遊び心を見ることができます。

江戸時代に入ると小堀遠州が作った「忘筌」(ぼうせん)など、さらに個性的な茶室が登場。この忘筌では「躙り口」がなくなり、「吊り障子」という上半分だけの障子の下をくぐって入る入口が設けられました。

  • 武家茶道「有楽流」の開祖としても有名な「織田有楽斎」(織田長益)をご紹介します。

  • 歴史上の人物と日本刀にまつわるエピソードをまとめました。

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