安土桃山時代

安土桃山時代の文化とは

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安土桃山時代になると、織田信長や豊臣秀吉の政策によって寺院勢力が抑えられ、ポルトガル人やスペイン人など南蛮人との貿易が盛んになったことにより「南蛮文化」が融合し、多彩な文化へと発展していきます。一方で、千利休によって「わび茶」が大成された他、「囲碁」や「浄瑠璃」などといった娯楽も発展し、新興大名や京都、大阪、堺、博多の豪商らが、文化の担い手となりました。
豊臣秀吉の居城であった伏見城が桃山にあったことから、「桃山文化」とも呼ばれる「安土桃山時代」の文化について、詳しくご紹介します。

安土桃山時代の文化の特徴

「茶の湯文化」の確立と「わび茶」の大成

千利休

千利休

「茶」の始まりは、奈良・平安時代に遡ります。遣唐使や留学僧などによって、中国から日本へと伝わり、当時は、貴族階級や僧侶など、限られた人しか口にすることのできない貴重な物でした。

武家政権となった鎌倉時代になると、武家の間で「抹茶」を飲む習慣(喫茶)が広まります。豪華な美術工芸品を飾った座敷で、「唐物」と呼ばれる高価な中国の茶道具を鑑賞しながらお茶を飲む「茶会」が開かれるようになり、「茶の湯文化」が定着していきました。

その後、禅を学んだ「村田珠光」(むらたじゅこう)により、国産の簡素な茶道具が取り入れられ、「わび・さび」といった精神性を重視する「わび茶」という様式が登場。わび茶は、これまでの茶室や調度品にお金をかけた豪華な茶の湯ではなく、「慎ましさの中にある美しさを感じ取ること」を重視した茶の湯です。「武野紹鴎」(たけのじょうおう)がさらに簡素化させ、発展させていきました。

そして、武野紹鴎のわび茶をさらに深めたのが、豊臣秀吉の側近(筆頭茶頭)として仕えていた「千利休」です。千利休は、心の交流や充足を重視した茶の湯を目指し、書院造の建物内にあった茶室を独立させ、無駄を一切排除した四畳間ほどの小さな茶室にするという、わび茶の様式を完成させました。その後、この様式は、高価な茶道具を用意できない町民の間にも広く浸透していきます。

安土桃山時代の「娯楽」

「囲碁」と「将棋」

織田信長

織田信長

戦国時代、武将達が夢中になったのが「囲碁」と「将棋」です。囲碁の歴史は、約4,000年前の中国で発祥したとされ、奈良時代に遣唐使により日本へ持ち込まれたと伝えられています。

囲碁は、戦国時代における兵法の集大成とも言われており、織田信長も熱中しました。1578年(天正六年)、上洛した織田信長が「寂光寺」に立ち寄った際、「本因坊算砂」(ほんいんぼうさんさ)が囲碁の腕前を披露したところ、織田信長は「まさに神業、名人の技だ」と称賛したと伝えられています。

その後、織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉は、全国から囲碁のナンバー1を決める大会を開催。優勝した本因坊算砂には、天下人公認の「プロ棋士」という称号を与えたと伝えられています。

一方、将棋が日本に伝わったのは、7世紀頃。京都の医者でありながら、将棋が強かった「大橋宗桂」(おおはしそうけい)は、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らに召抱えられ、「名人」の称号が与えられた他、将棋の指導にあたりました。

囲碁は、盤上の陣地を取り合い、最終的に多く取った方が勝ち。一方、将棋は、味方を失ったとしても、最終的に敵の王将を討ち取れば勝ち。安土桃山時代の戦国武将たちは、囲碁や将棋を娯楽として楽しみながらも、戦術の研究をしていたのではないでしょうか。

浄瑠璃

浄瑠璃の始まり

浄瑠璃の始まり

桃山文化の芸能で、後世に大きな影響を与えたのが「浄瑠璃」です。浄瑠璃の始まりは、琵琶を伴奏楽器にして物語を語る劇場音楽でした。

その後、「三線」(さんしん)という楽器をもとに三味線が作られ、浄瑠璃の伴奏に三味線が使われるようになります。

安土桃山時代に誕生した浄瑠璃は、源義経と旅路途中に出会った宿屋の娘との恋物語を語った「浄瑠璃姫物語」などがあり、人気を集めました。

安土桃山時代の「工芸」

磁器の始まりと「有田焼」

有田焼

有田焼

日本各地には様々な焼き物がありますが、日本を代表する陶磁器のひとつに「有田焼」があります。有田焼は、佐賀県有田町を中心に生産される磁器で、その歴史は、豊臣秀吉に深くかかわっているのです。

豊臣秀吉は、千利休が「高麗茶碗」(こうらいちゃわん)を珍重していたことに影響を受け、1592年(天正20年)、「朝鮮出兵」をした際、朝鮮半島から陶芸家や芸術家を一緒に連れ帰ります。

そのうちの1人、陶工「李参平」(りさんぺい)が、有田の泉山で磁器を作るための陶石を発見。この陶石で「白磁」(はくじ:白素地に無色の釉薬をかけた磁器)を初めて焼いたのが、日本における磁器の始まりとされています。

安土桃山時代の文化とは

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清洲会議

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「清洲会議/清須会議」(きよすかいぎ)は、「明智光秀」が起こした「本能寺の変」によって、自害した「織田信長」の後継者を決めるために開かれた会議です。代表的な出席者は、「柴田勝家」や「丹羽長秀」(にわながひで)、「池田恒興」(いけだつねおき)、そして「羽柴秀吉」(のちの豊臣秀吉)の4人が挙げられます。「会議」と言えば聞こえは良いですが、この清洲会議をきっかけに新たな対立が生じ、のちに激烈な戦へと発展していったのです。今回は、清洲会議の内容や、そののちに起こった戦いについても解説します。

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安土桃山時代の服装とは

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