安土桃山時代

安土桃山時代の食文化とは

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1573年(元亀4年/天正元年)、織田信長が十五代将軍「足利義昭」を京都から追放してから、徳川家康が江戸幕府を開く1603年(慶長8年)まで、わずか30年しかなかった「安土桃山時代」。
織田信長、豊臣秀吉などの強大な権力のもと、豪華絢爛な「桃山文化」が誕生。ポルトガル人やスペイン人などの渡来によって、新しい料理、お菓子などが多くもたらされた安土桃山時代の食文化について、ご紹介します。

安土桃山時代における「武士」の食文化

「武士」の食生活

「安土桃山時代」の武士は、まだ1日2食が一般的で、1日3食へと変化したのは、江戸時代に入ってからと言われています。

武士も庶民たちと同様、麦や粟を混ぜた「赤米」や「黒米」を食べており、精製された「白米」は、公家などの上流階級の人たちしか食べることができない高級品でした。食事の内容は、ご飯と味噌汁が基本で、武士たちは、ご飯に味噌汁をかけて食べていたと言われています。

豊臣秀吉が天下を取ると、戦地では、戦国大名に米や魚、キジ料理などのご馳走を振る舞い、士気を高めたとされています。

一方、足軽の食事は、3日で済む合戦の場合は自前で弁当を持参し、それ以上の長い戦いになると、戦国大名が食料を準備していました。

足軽の弁当は「腰弁当」と呼ばれ、干飯や炒米、焼き味噌や 芋茎(ずいき)、梅干しなどが中心でした。

また、水については、敵地にある井戸水は毒が入れられている可能性があったことから、米を炊く際は、濡らした手ぬぐいで米を包み、それを地面に埋めてその上で火を燃やして炊きました。

飲み水は、川の水を汲んできて、浄水効果のある杏仁(きょうにん)やタニシの干物を入れて上澄みを飲んでいたと言われています。

武田信玄が食べていた「陣中食」

武田信玄

武田信玄

合戦の際に戦地で食べられた食事を、「陣中食」と言います。

武田信玄は、禅の修行の際に禅僧から「ほうとう」を振る舞われ、米よりも軽く保存しやすいことや、甲斐国は小麦が取れ、粉を使った食文化が根付いていたことから、「ほうとう」を陣中食として取り入れたと言われおり、現在も山梨県の郷土料理となっています。

貴族が食べていた「本膳料理」

本膳料理

本膳料理

安土桃山時代の公家などの上流階級は、「二汁七菜」という豪華な食事で多品目だったことから、「二の膳」、「三の膳」と複数の膳が置かれました。

最高の宴会「七の膳の宴会」では、8種類の汁物と30種類以上のおかずが出されたと言われており、このような宴会料理は、「本膳料理」(ほんぜんりょうり)と呼ばれています。

「南蛮菓子」の伝来

1543年(天文12年)、ポルトガル人が種子島に漂着して以来、日本はスペイン人やポルトガル人といった「南蛮人」と交易をするようになり、鉄砲はもちろん、金平糖やカステラといった「南蛮菓子」が、商人たちによってもたらされました。

金平糖

今ではすっかり日本のお菓子として定着している「金平糖」は、安土桃山時代にポルトガルからもたらされました。語源は「confeito」(コンフェイト)と言い、ポルトガル語で「砂糖菓子」を意味します。

当時は貴重だった砂糖がたくさん使われていたことから、金平糖は贈り物としても大変重宝されました。

当時、宣教師「ルイス・フロイス」がキリスト教の許可を得ようと対面した際、甘い物が好きだった織田信長に、ガラス瓶に入った金平糖を献上品として持っていったというエピソードが残っています。

カステラ

カステラも、南蛮人からもたらされたお菓子のひとつ。カステラの名前の由来は諸説ありますが、ポルトガル語の「Bolo de Castella」(カスティリアのお菓子)からという説が有力です。

カステラの材料には、小麦粉や砂糖の他、鶏卵が使われており、当時、宗教的な理由から鶏卵を食べる習慣がほとんどなかった日本ですが、このカステラの伝来によって、鶏卵を食べる習慣が広がり、日本の食文化に大きな変化をもたらしたと言われています。

ボーロ

金平糖やカステラ以外にも、当時の南蛮人によってもたらされたお菓子に「ボーロ」があります。

語源は「Bolo」と言い、ポルトガル語で「お菓子全般」という意味。
日本では、小麦粉と砂糖と水を練り、カステラ用の釜で焼いた物をボーロと呼んでいます。

「南蛮料理」の伝来

「肉食文化」の伝来

安土桃山時代までの日本では、「肉食」が禁忌(きんき)とされていました。このため、宣教師「フランシスコ・ザビエル」が、日本にキリスト教の布教にやってきた際は、日本の人々の感情をそこなわないように、肉を食べないようにしていたと言われています。

やがて「キリスト教」が日本に広まると、キリスト教に改宗した人は「仏教」や「神道」での禁忌から解放され、肉を食べるようになりました。

また、南蛮船が出入りしていた長崎では、一般の人々も肉を食べるようになり、ブタの飼育も行なわれたという記録が残っています。

「南蛮野菜」の伝来

ポルトガル人によって、「かぼちゃ」や「トウガラシ」といった野菜も日本に伝来しました。かぼちゃの語源は「Camboja」で、ポルトガル語で「カンボジア」の意味です。

かぼちゃと同様、トウガラシも南蛮から伝わりましたが、日本人には刺激が強すぎたのか、あまり消費量は多くなかったと言われています。

「天ぷら」の伝来

今はすっかり日本食には欠かせない「天ぷら」ですが、もともとはポルトガルから南蛮料理として調理法が伝わったのが始まりとされています。

天ぷらの語源は「temporas」とされ、ポルトガル語で「四季に行なう斎日(忌み日)」の意味です。カトリックでは、この「忌み日」に野菜や魚に小麦粉で衣を付けて揚げた料理を食べていたことから、天ぷらと呼ばれるようになったと考えられています。

「茶の湯」と「和菓子」

千利休

千利休

茶道は、804年(延暦23年)に、僧侶だった空海と最澄が、中国から茶葉を日本に持ち帰ったのが始まりとされています。

安土桃山時代になると、「千利休」(せんのりきゅう)によって茶の湯が大成され、織田信長や豊臣秀吉をはじめ、多くの大名たちの間で「茶の湯」が流行しました。

茶道には、砂糖を使った甘いお菓子がつきものですが、当時、砂糖は南蛮からの輸入品でまだ高級品だったことから、栗や柿といった果物や、椎茸や昆布などが出されていたとされています。

千利休が愛したお茶菓子として有名なのが、「ふの焼き」というお菓子です。ふの焼きは、小麦粉を水で溶いて平鍋に入れて薄く焼き、味噌を塗って丸めた物を言います。

「煉羊羹」の誕生

現代の「羊羹」(ようかん)は、寒天の割合の違いによって、固めの「煉羊羹」(ねりようかん)と、やわらかい「水羊羹」に分けられていますが、安土桃山時代の羊羹は、小豆と小麦粉(または葛粉)を用いて作った「蒸し羊羹」が一般的でした。

羊羹の起源は中国の料理で、「羊の肉を使ったスープ」。これが禅僧によって日本に伝えられ、当時、禁じられていた羊肉の代わりに「小豆」を用いた物が、日本における羊羹の始まりとされています。

安土桃山文化時代になると、茶道に影響を受けた「鶴屋」という和菓子屋の当主が、寒天の原料である「テングサ」と「粗糖」(精製されていない砂糖)、「小豆あん」を用いて炊き上げた羊羹を開発。その後、千利休の助言を受けて完成したのが煉羊羹と言われています。

安土桃山時代の食文化とは

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1575年(天正3年)4月、織田信長が名実ともに天下人となった、歴史上非常に重要な合戦「長篠の戦い」が起こりました。織田・徳川連合軍が、戦国最強と言われた武田軍を相手に圧勝した戦いです。

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