鎌倉時代

鎌倉時代の住宅(家)とは

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奈良時代や平安時代は貴族文化が栄え、寝殿造など優美な建物が多く建てられましたが、鎌倉時代になると武士を中心とした社会へ変化し、中国(宋と元)の文化や技術が伝来したことから、多種多様な建築様式が生まれました。そんな鎌倉時代の住宅(家)について、詳しくご紹介します。

鎌倉時代の建物の特徴

武士が居住した「武家屋敷」の建物

鎌倉時代の武家屋敷

鎌倉時代の武家屋敷

平安時代は、生活に優雅な豊かさを求めた寝殿造の建物に対し、鎌倉時代は、見た目よりも実用性を重視し、貴族が居住した寝殿造を簡素化し、敵からの襲撃に備えた「武家屋敷」へと変化しました。

かつて「武家造」と呼ぶことがありましたが、新しく武家独自の建築様式ができたとは考えにくいことから、今では武家造という言葉は使われなくなっています。

武家屋敷は、敵を遠くから監視できるよう丘の上に建てられ、屋敷の周囲には、敵からの侵入を防ぐため、堀を造り、網代編みの竹垣などで囲みました。

建物の屋根は板葺きで切妻になっており、棟は寝殿造のように廊でつなぐことはせず、ひとつひとつ離して建てられています。

建物内の床は「板敷」、座る場所にだけ畳を敷きます。部屋の仕切りは、軍議等が行なえるよう「ふすま障子」や「唐紙障子」などに変化が可能です。また、戦で「馬」が使われるようになったことから、「馬屋」と呼ばれる場所も、新たに造られました。

「畳」の登場

畳

鎌倉時代になると、い草を使った畳が誕生します。畳職人が生まれ、本格的な畳の生産が始まりますが、高価だったため、庶民は変わらず「藁」(わら)や竹を使った「筵」(むしろ/植物を編んで作った敷物)を使っていました。

もともと畳は、高貴な人の座る場所や、寝る場所として使われていましたが、鎌倉時代に武士達が権力を持ち、家の使い方の変化に伴って、畳の使い方も変化。来客や接待が多い武家は、小さめの部屋に畳を敷き詰め、現代の和室のような使い方をしました。

鎌倉時代における「寺院」の建築様式

鎌倉時代の寺院の建物は、大きく5種類に分けられます。平安時代からの伝統を継承した「和様」という建築様式の他に、「重源」(ちょうげん/浄土宗の僧)が伝えた宋伝来の「大仏様」という様式や、禅宗とともに導入された「禅宗様」、大仏様と禅宗様をミックスした「折衷様」、和様を主とし大仏様の特徴を加えた「新和様」といった様式が登場しました。

和様建築

平等院鳳凰堂

平等院鳳凰堂

和様建築は、奈良時代に中国から伝来した建築技法を、平安時代に日本の気候や趣向に合わせて発展した伝統的な建築様式で、平安時代に建てられた寺院建築が代表的です。

主な特徴は、柱を固定するために「長押」(なげし)を使い、「縁側」を作るなど。代表的な和様建築に、「平等院鳳凰堂」や「金剛峯寺不動堂」、「当麻寺本堂」があります。

大仏様建築

東大寺南大門

東大寺南大門

大仏様建築は、寺院建築のひとつで、浄土宗の僧「重源」によって伝えられた建築様式です。主に中国の南宋で取り入れられていた建築様式だったことから、かつては「天竺様」(てんじくよう)と呼ばれていました。

その後、世界最大の木造建造物「東大寺大仏殿」を再建する際、構造的強度や費用面で適した建築技法だったことから「大仏様」になったと言われています。

主な特徴は、野屋根や天井がなく屋根裏が見え、組物を貫き通す「通し肘木」(とおしひじき)、柱を水平方向に支える「貫」(ぬき)、柱に挿す「挿し肘木」(さしひじき)などを使い、構造を露出した無骨なデザインです。代表的な大仏様建築に、「東大寺南大門」や「浄土寺浄土堂」があります。

禅宗様建築

円覚寺舎利殿

円覚寺舎利殿

禅宗様建築は、禅宗と合わせて日本に伝わってきた中国(宋)の建築様式にあたり、別名「唐様」(からよう)とも呼ばれています。

主な特徴としては、柱を水平方向に支える「貫」(ぬき)を多用して建物を補強していることや、柱は円柱で床を張らず、屋根の四方の先端が強く上方に反っていること。代表的な禅宗様建築に、「円覚寺舎利殿」や「正福寺地蔵堂」があります。

折衷様建築

和様建築をベースに、大仏様建築と禅宗様建築の良い部分を組み合わせ、渾然一体化した建築様式を折衷様建築と言います。鎌倉時代の末期ごろから、瀬戸内海沿岸の地域を中心に増えました。

主な特徴としては、縦横に框 (かまち) を組み、間に薄い板を入れた「桟唐戸」(さんからと)や「木鼻」(貫や台輪などが柱から突き出している部分)には禅宗様が使用され、柱間はやや縦長で、軒の四隅が反り上がっていることです。代表的な折衷様建築に、「鶴林寺本堂」や「明王院本堂」、「太山寺本堂」があります。

新和様建築

新和様建築は、和様建築を基本に大仏様建築を導入し、構造面の強化と意匠を加えた建築のことを言います。柱を貫で連結し、その先端の木鼻に装飾として「繰形」(くりかた)を付けるなど、今までの建築様式に見られなかった手法が取り入れられているのが特徴です。

代表的な新和様建築として、「平等院観音堂」や「薬師寺東院堂」、「十輪院本堂」があります。

鎌倉時代における「庶民」の住まい

農民などの庶民は、貴族が持っている「荘園」(しょうえん/貴族の領土や所有する土地の区画)に住んでいたと言われています。

武士はもともと、その貴族に付いて土地や主を守る役目をしており、庶民はその土地で農作業をするために、畑や田んぼの周辺や、道端に住んでいました。

しかし、農民達の暮らしは苦しく、特に荘園内に暮らす農民達は、年貢は貴族と武士達への二重払い、そのうえ屋敷の修繕や大工仕事、戦があれば兵として駆り出されるという状態で、貧しく厳しい生活です。

縄文時代のイメージが強い「竪穴式住居」も、鎌倉時代はまだ庶民が使っていましたが、「方形竪穴式住居」(ほうけいたてあなしきじゅうきょ)と呼ばれる鎌倉時代特有の建物も登場。縄文時代の竪穴式住居は、丸みを帯びた穴ですが、方形竪穴式住居は、長方形か正方形に掘られていました。

その後、土台や基礎など何もない状態で、柱を直接土に立て、木で雑に建てた「掘立て小屋」が登場します。床などはなく、土の上に「筵」(むしろ)を敷いて、寝起きしていたと言われています。

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