鎌倉時代

鎌倉時代の食文化とは

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人間が生きるために必要な食であるお米が登場してから、格差社会は大きくなり、富める者と貧する者とに分かれてしまいました。 鎌倉時代は、権力の移行期であり、食の変換期でもあります。武士の台頭で肉食も解禁されましたが、農民は相変わらず苦しい生活でした。そんな鎌倉時代の食生活についてご紹介します。

格差社会はお米から始まった!鎌倉時代の米事情

権力の象徴となったお米

「武士は食わねど高楊枝」(ぶしはくわねどたかようじ)と言う言葉。この言葉から、武士は質素な食生活を送っているイメージが伝わってきます。鎌倉時代から始まった、武士政権もやはり「質実剛健」(しつじつごうけん)がモットーでした。

嘆かわしいことですが、現代の日本はお米の需要が減少。また、田んぼも農家の後継者問題や減反政策などを受け減少しているため、お米の生産も減ってきています。

弥生時代は、我が国でのお米はお腹を満たすことと同時に、給料や通貨代わりでもありました。より多くのお米を手にするため、土地を奪い、農作業に従事する人々を作る必要が出てしまい、強い者が武力を持ち、争いや格差を生み出したのです。

それ以来、お米と土地は権力の象徴となってしまいました。最初にその力を持った者は、大和朝廷から始まる天皇。そのうち、公家や貴族達も自分用の土地を持ち、さらに仏教が力を持ってからは僧が力を持ち、そこを守る武士達が、いつしか土地を奪う人達になったのです。

権力者が誰に変わっても、お米を作っている農民や、すべての庶民が、日常的にお腹一杯お米を食べられるようになったのは、昭和の後半に入ってからと言っても過言ではありません。

二毛作ができるようになったものの白米は貴族だけ

鎌倉時代は、農業に馬や牛を使うようになり、金属製の鍬(くわ)や鋤(すき)などの農業機具が誕生。さらには、早く成長する「早稲」(わせ)と呼ばれる稲も登場し、二毛作ができるようになりました。

農業技術が飛躍的に発展して、春にお米、秋には麦と、同じ田んぼで2回作物が取れるようになったのですが、お米は年貢に取られてしまうので、庶民が口にできるのは麦・粟(あわ)・稗(ひえ)など粗末な作物ばかり。武士は同じお米でも、玄米を好んで食べていました。質実剛健をモットーとしていたわりには、お米を食べていた分だけ、庶民よりはまだ良い食事です。「強飯」(こわめし)と言って、炊くのではなく蒸した玄米を主食としていました。

しかし、源氏や平家は貴族ですが、その下に就いた武士という者は、元々自らの土地を耕し守る農民でもあったので、何もしないで白米を食べていた貴族達よりは、お米を食べる権利はあるのです。税の取り分を増やそうとした武士によって、灌漑(かんがい:田畑への水路)や水車などが作られ、草木や肥(こえ)などの肥料も工夫されるなど、農業が発展。さらに、戦のときなど外で食べることが多い武士達は、調理法や携帯食も工夫をしています。

例えば、玄米をそのまま持ち歩き、布に包んだ玄米に、水を掛けた状態で土に埋め、その上で焚き火をすると玄米も炊き上がると言う調理法を使って、ご飯を食べていました。

現代の「おにぎり」のように握って焼いた玄米を、竹の皮で包んで持ち歩く「屯食」(とんしょく)も登場しています。

身体が資本の武士ですから、体力を付けるためにも食事は大切でした。そのうえで、戦中には食事に手間取っている暇はありません。当然、合理的価値観も出てくるので、年々発展していったのです。

反面、公家や貴族達は、白米をおかゆにしたり「姫飯」(ひめいい)と呼ばれる、釜で炊いたやわらかいご飯を食べたりしていました。動くことも少ないので、贅沢病と言われた「脚気」(かっけ)にもなりやすく、実は不健康で早死にしていたのです。

そのため、この時代の平均寿命は24歳。乳幼児の多くは、医学の発展した昭和後期まで、長生きは難しく、鎌倉時代は災害が多発した時代でもありました。武士は戦での死なども多く、食生活はあまり寿命と関係無かったとも言えます。

体力勝負の鎌倉武士によって肉食再開

忌み嫌われていた肉食を復活させた鎌倉武士

焼肉は、現代人に好まれている食事です。おいしいだけではなく、人は本能で身体に必要な栄養素があることを知って、お肉を食べたくなると言えます。お肉の焼ける匂いや、タレの香りだけでも、ご飯をたくさん食べたくなるほど、食欲をそそられるものです。

奈良・飛鳥時代から権力を持ち始めた、仏教の僧侶達。平安時代は、天皇も仏教に傾倒し、寺はより一層力を付けていました。その影響から、肉食も禁止令が度々出されていましたが、全く食べなくなったのかと言えば、やはり誘惑に勝てるものではなく、こっそり食べていたのです。

肉食は、こっそり食べるしかないほど、一般的には禁じられた存在でした。信心深い人であれば、やはり忌み嫌う食物であり、天皇自らが禁止令を出していたこともあって、公家や貴族達、そして僧侶などは、堂々と食べたいと言えなかったのです。

都は海のない京都、畑も遠く、そもそも新鮮な魚介類や野菜はありません。そのため、公家や貴族達は塩で加工されたおかずを食べていたのですが、お肉も極力避けられていました。

武士達も、戦うために走ったり、長い距離を歩いたりしました。もちろん鎧や弓、そして槍、刀剣などの武具は重いため、まずは体力が必要となります。筋力と体力を付けるには、やはりお肉の栄養価が一番高く、効率の良い食材でした。

武士は、武芸も磨かねばならないため、狩りもよくします。戦場で食べ物が不足すれば、現地調達ということもあり、その結果、庶民よりはお肉を手に入れやすい環境にあったのです。

縄文時代の狩り

縄文時代の狩り

鎌倉時代の武士達は、公家や貴族達に白い目で見られ、軽蔑されても、堂々とお肉を食べていました。お肉は現代と同じく、焼いたり煮たりして食べたので、おいしいそうな匂いがあちこちからしたと想像できます。同じ人間ですから、公家や貴族達、僧であっても我慢できるはずがありません。彼らもこっそりと、お肉を食べるようになってしまったのです。

武士達が食べたお肉は、ウサギ、タヌキ、猪、鹿、熊、猿、鶏肉ではウズラや鴨。しかし武士達も、農作業で使う大切な牛や馬は、食べなかったと言われています。食べるのは、あくまでも狩りをしたお肉だけでした。狩りは、命対命の戦い。熊や猪などであれば、自らも危険が生じる訳です。

武士達も家畜は食べなかったことから、信心深くなかった訳ではないことがうかがえます。ただ家畜は食べないとは言っても、飢饉が起きれば大切な牛や馬も食べざるを得ないため、飼育した鶏は食べていました。

宗教の概念よりも、生きていくために食糧を確保するということは、鎌倉時代だけではなく、その後も人々の命題となっていくのです。

災難続きの鎌倉時代~民のために働いた北条泰時

試される大地、日本国の災害

源頼朝

源頼朝

災害大国日本。自然の恵みがある代わりに、ときに容赦なく人々を襲う自然の猛威は、現代人の我々も他人事ではありません。地震、台風、洪水、干ばつ、大雨、噴火など、日本は昔から災害が多発していました。

お米が登場してからは、蓄えることもできたことから、権力の象徴となりましたが、畑や田んぼを手に入れても、天候に食を左右されることになります。

日本の日記や古文書などには、天気を記録している書物がたくさん残されていたおかげで、当時の災害や気候の変動などを知ることができるのです。

鎌倉時代に書かれた「吾妻鏡」(あづまかがみ)という歴史書にも、災害の数々が記録されています。源頼朝が、平清盛を倒して鎌倉に幕府を開いた頃が、気候の温暖な時期のピークになり、その後、寒冷化していきました。

ちょうどその頃、1181年(養和元年)には雨が全く降らずに、京都や西日本全域で干ばつによる「養和の飢饉」(ようわのききん)が発生。気候の変化によって、大雨、台風、洪水、そして鎌倉時代は、地震がとても多くなっていきました。「衣食足りて礼節を知る」と言う言葉がありますが、人間心とお腹が不安になると、世情も乱れていくのが世の常です。

瑞祥(ずいしょう)での改元希望!暗い改元が増えた鎌倉時代

元号を変えることを「改元」(かいげん)と言います。改元は、天皇が変わったときにされますが、一世一元が制定される前までは何か災いが起きたときなどにも行なわれていました。平安時代前期までと鎌倉時代の改元の理由を見比べてみると、鎌倉時代の災害が、いかに多かったかが見えてくるのです。

平安時代前期までは、天皇が変わったときと、近隣国から何かを献上されたなどのお祝いごとでも、改元しています。そのことを「瑞祥」(ずいしょう)による改元と言いますが、平安時代後期から鎌倉時代は、お祝いごとの改元は消え、災害や疫病という暗い理由での改元が多くなりました。

そのような中で、養和の飢饉の50年後には、鎌倉時代150年ほどの歴史の中で最大と言われる「寛喜の飢饉」(かんきのききん)が発生。1230年(寛喜2年)は夏に霜や雪が降り、続いて暴風雨と大洪水に見舞われたのです。

食べ物や仕事を求め、農民達は逃げ出し、京都や鎌倉には彷徨う人々が集まりました。そこで、幕府は「備蓄米」などを出しましたが追いつきません。街は死臭が漂い、人買いが行なわれ、幕府も対応しきれないほどの大惨事だったのです。

その頃の将軍は、源頼朝の次男である「源実朝」(みなもとのさねもと)でしたが、源頼朝亡きあとは、妻の「北条政子」(ほうじょうまさこ)が崩壊しかけた家臣達をまとめます。そして、北条方の人間が将軍補佐職の座に就き、執権政治という体制を取りました。

北条泰時

北条泰時

北条政子の甥であり、第3代執権になった「北条泰時」(ほうじょうやすとき)がその人物。

1221年(承久3年)に起きた「承久の乱」(じょうきゅうのらん)に総大将として出陣し、大活躍した武士です。

「承久の乱」とは、もう一度実権を取り戻したい「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が北条泰時の父であり、第2代北条執権だった「北条義時」(ほうじょうよしとき)を討伐するために京都で兵を集め挙兵した騒動のこと。

10万の兵を引き連れて上洛した北条泰時は、上皇側を制圧。その結果、幕府軍の圧勝で終わり、後鳥羽上皇は隠岐島(おきのしま:現代の島根県)に流されてしまいました。ここで朝廷の力は完全に弱り、実権は完全に北条家が握ることになったのです。

武勇にも優れた北条泰時は、人物的にも優れており、寛喜の飢饉の際には年貢の免除やお米、酒などの配給をしました。そして、できる限りの心遣いをしたうえに、自分も徹底的に節制して武士達にも緊縮令を出したのです。

さらに、飢饉をきっかけにして、武士達の法令「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)を作成。それまで無秩序だった武士達の規律を正したのです。

醤油のもとになった溜(たまり)が誕生

おいしい食を楽しむには欠かせない調味料

鎌倉時代の料理は、基本的に味付けはありません。塩漬けにした干物や梅干しなど、塩味の料理はありましたが、その他は調味料を付けておかずを食べていたのです。

この時代、味噌は貴重品でした。中国から来た僧が「すり鉢」を伝えたことから、粒味噌をすり鉢で潰したあとに、「お湯を注ぐと溶ける」ことが分かり、武士達はこの頃から味噌汁を味わい始めます。

梅干しをご飯に乗せて食べるという概念も、武士達が始めたことでした。お肉を食べ、玄米に梅干し、そして味噌汁まで付くと、とてもバランスの良い食事になったのです。

この時代、もうひとつ代表的な調味料があります。「醤」(ひしお)と言う、塩と「麹」(こうじ)を発酵させた調味料で、味は塩や醤油、酢を混ぜ合わせたようなイメージです。おかずは、この醤に付けて食べるのが定番の味付けでしたが、この醤自体を舐めておかず代わりにもしていました。

鎌倉時代は、農業や武士政権、服装などの変換期ですが、日本人にとって欠かせない調味料である、醤油のもと「溜」(たまり)も発見された時代です。いつの時代も、発明や開発は、ちょっとした偶然から発展しますが、この溜もそのように発見されました。南宗(なんそう:現在の中国の一部)で学んできた、臨済宗の僧である「心地覚心」(しんちかくしん)が、信州で味噌作りを教えていたときに、溜が発見されたと伝えられています。

食に対する飽くなき探求心は、昔も今も変わらない物なのかもしれませんが、この偶然できた溜で食べ物を煮て食べたという話もあり、新たな調味料として人々は使い始めます。しかし、庶民が醤油を楽しめるようになるのは、江戸時代に入ってからなので、鎌倉時代の人達はそのおいしさを知ることはありませんでした。

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