平安時代

平安時代の住宅(家)とは

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奈良時代は、唐の文化や仏教の影響を受けた重厚な建物が多く建てられましたが、平安時代になると遣唐使が停止され、貴族を中心とした時代に変化したことから、見栄えを重視した建物が多く建てられました。そんな平安時代の住宅について、詳しく解説します。

平安時代の建物の特徴

貴族が居住した「寝殿造」の建物

寝殿造

寝殿造

平安時代における建築の特徴は、「寝殿造」です。寝殿造とは、平安時代に建てられた建築様式のことで、主に上流階級の貴族が居住する建物の様式でした。この寝殿造の建築様式は、中国古来の宮殿建築をベースに、日本文化を取り入れた建築様式と言われ、10世紀頃にほぼ完成したとされています。

寝殿造の建築様式は、大きな敷地内の中央に、主人の住む「寝殿」を置き、家族が住む「対の屋」(たいのや)を東西北の三方に配置し、その間を「渡殿」(わたりどの)や「透渡殿」(すきわたどの)という渡り廊下で結んだ形式が一般的です。

また、寝殿の南側には池や庭園を配置。東西の「対の屋」から南へ延びる「中門廊」という廊下の先には、納涼や遊宴のための「釣殿」(つりどの)や「泉殿」(いずみどの)が設置されていました。

築地塀・門
敷地は「築地塀」(ついじべい)と呼ばれる土塀で囲まれており、東西北の三方にそれぞれ「門」を作り、東西のどちらかが正門となるのが一般的でした。

また、門は家の格式を表す物だったことから、身分によって構造や規模に規制があります。門柱の前後に控柱を2本ずつ、左右合わせて4本立てた「四脚門」(よつあしもん)は、大臣以上などと定められていました。

寝殿
「寝殿」とは、中心となる正殿の意味で、敷地の中央に南面して建てる建物のことを言い、主人夫妻の居住スペースとして利用していました。なかには「夫婦でもそれぞれの場所を確保したい」と、寝殿を東西に分けることもあったとされています。
対の屋
「対の屋」とは、寝殿の東西に設けられた副屋のことで、それぞれ「東の対」や「西の対」と呼び、寝殿の北側に「北の対」を建てる場合もありました。主に、主人夫妻の子ども達が住む部屋として使われていたとされています。
庭園・池・釣殿・泉殿・作泉
平安貴族にとって「庭園」は娯楽のひとつであったことから、寝殿の南側には、庭園や池が整備され、美しい景観を楽しめるようになっていました。

また、「東の対」と「西の対」から延びた「中門廊」の先には、釣りや花見、管絃などを楽しむ場所として、「釣殿」(つりどの)や「泉殿」も設置。この他にも、「作泉」(つくりいずみ)と呼ばれる人工泉や滝を作り、釣殿に船着き場を作って船遊びをする貴族もいたと言われています。

車宿・待所
平安時代の貴族は、牛車で移動するのが一般的だったことから、正門を入った南側には、牛車と牛の車庫となる「車宿」が建てられていました。また、寝殿や対の屋とは少し離れた位置に、貴族に仕える家司の執務室として「侍所」(侍廊)が配置されています。

「寝殿造」の内部

蔀

寝殿造の建物の屋外と屋内を仕切っているのは、「遣戸」(やりど)と呼ばれる引き戸や、「妻戸」(つまど)呼ばれる両開きの扉、そして「蔀」(しとみ)と呼ばれる雨戸のような物です。

「寝殿」や「対の屋」の内部は、床は板張りで、部屋と廊下の間は、障子や御簾(みす)などを垂らして仕切っており、間仕切りはほとんどありませんでした。

また、壁の代わりに「格子」(蔀)をはめることで、昼間は開けて夜間は閉めるという空間の仕切り方ができ、開放的、かつプライベートはしっかり守られる空間になっています。

格子
格子とは、細い角材を板に組み込んで作られた物で、「一枚格子」と「二枚格子」の2種類があります。一枚格子は部屋の内側に付けられ、外側に御簾が付くのが一般的。二枚格子はその逆で、御簾が内側です。格子は、下部が取り外せるようになっており、人の出入りができるようになっています
母屋・庇
寝殿でメインの部屋となるのが「母屋」(もや)です。天蓋ベッドのような「帳台」(ちょうだい)や、厨子棚などが置かれた主人の生活スペースです。

また、この母屋の周りに設けられたスペースを「庇」(ひさし)と呼び、方角によって「南庇」や「東庇」と呼び方が変わりました。なお、庇は必ず四方向に設置されているとは限らず、家によっては一面のみの場合もあります。庇の有無で広さの印象が大きく変わるため、寝殿造のなかには庇の横に連なる「孫庇」を付ける家もありました。

塗籠
「塗籠」(ぬりごめ)は、母屋の東西いずれかに設置され、先祖代々伝わる宝物などを収納していました。塗籠は、寝殿造の中でも神聖な空間と考えられていましたが、平安時代後期になると、そのような意識も薄れ、普通の物置として利用されていたと言われています。なお、塗籠への出入りは、母屋側に設置された妻戸からのみとなっていました。
渡殿
「渡殿」(わたりどの)とは、寝殿と対の屋の間にある渡り廊下です。寝殿の東西にある渡殿は、建具がなかったことから、「透渡殿」(すきわたりどの)と呼ばれました。

「寝殿造」に住んでいた平安時代の偉人達

現代に語り継がれる平安時代の偉人には、「寝殿造」に住んでいた人もたくさんいます。その中でも、有名な3人を紹介します。

藤原頼長の「宇治小松殿」

藤原頼長は、平安時代末期に活躍した公卿で、父「藤原忠実」(ふじわらのただざね)からの寵愛をたっぷり受けており、藤原忠実が建てた寝殿造「宇治小松殿」を藤原頼長に譲ったと言われています。

「宇治小松殿」は、シンプルな構造で「対の屋」がなく、母屋の周りにしっかり「庇」が設けられ、寝殿が広々としているのが特徴です。

平清盛の「六波羅泉殿」

平清盛は、「保元の乱・平治の乱」で勝利し、後白河上皇の信頼を得ながら、政治的地位を高めていき、武士として初めて「太政大臣」にまで登りつめました。そんな平清盛が建てた寝殿造が「六波羅泉殿」で、寝殿の母屋が北と南で区切られているのが特徴です。

藤原定家の「京極殿」

藤原定家が住んでいたとされる寝殿造「京極殿」は、最小の寝殿造と言われています。寝殿と「対の屋」が渡殿で繋がっている一般的な構造と違い、寝殿と「対の屋」がそれぞれ独立しているのが大きな特徴です。

庶民が居住した建物

長屋(町屋)

長屋(町屋)

庶民が住んでいた建物は、「長屋」(町屋)と「竪穴式住居」の2種類があります。平安京に住む庶民達は、「持ち家」を持っている人はほとんどおらず、多くが部屋を仕切った「長屋」に住む生活だったと言われています。中は決して広くなく、半分は土間、もう半分は床を張るという内装が一般的でした。

平安京内は家に住むことができたものの、地方の田舎ではまだ「竪穴式住居」での生活です。竪穴式住居は、旧石器時代や縄文時代などに作られた住まいで、地面を掘って窪みを作り、柱を立てて葦などの植物で屋根を覆っていました。

しかし、平安時代後期になると、竪穴式住居の姿は消えていき、平安京の庶民と同じように、長屋での生活に変わっていったのです。

平安時代の住宅(家)とは

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