平安時代

平安時代の文化とは

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平安時代は、約200年間続いた遣唐使が廃止され、唐文化と日本文化が融合し、日本独特の「国風文化(藤原文化)」が形成されていきました。特に文学での発展はめざましく、平安貴族を中心に「仮名文字」が使用されるようになり、女性作家が活躍した時代です。そんな平安時代の文化について、詳しく解説します。

平安時代の文化の特徴

平安時代に発展した「文字」

万葉仮名から平仮名への変移

万葉仮名から平仮名への変移

日本で文字が使われるようになったのは、平安時代に入ってからと言われています。この頃はまだ現代のような日本語(漢字・平仮名・片仮名)ではなく、中国の漢字を使って日本語を表記していました。

最初に登場したのが、「万葉仮名」(まんようがな)です。万葉仮名は、現代の漢字と同じように「音」と「訓」の読み方がありますが、漢字の意味を考えて使うことはせず、発音のみを表しました。

主に、日本最古の和歌集「万葉集」の表記に使用されていたことから万葉仮名と呼ばれるようになり、別名「真仮名」(まがな)や「男手」(おとこで)とも言います。

その後、万葉仮名を簡略化した草書体「草仮名」(そうがな)文字が多く使われるようになると、その草仮名をさらに崩した「平仮名」が9世紀中ごろから登場。貴族の女性が手紙を書く際によく使用されたことから、「女手」(おんなで)とも呼ばれ、広く定着しました。

平仮名と言っても、現代のように一字一字離して書くのではなく、英語の筆記体のように、流れるような「連綿体」で続けて書くのが一般的でした。

平仮名のあとに登場したのが、「片仮名」(かたかな)です。当時は「かたかんな」と呼ばれ、「伊」を「イ」、「呂」を「ロ」など、万葉仮名の漢字の一部を省略して表記しました。

この他にも、「獅子」を掛け算の4×4で連想して「十六」と表記するなど、漢字の意味を自由に考えて使う「戯書」(ぎしょ)と言う遊び文字や、葦の葉や水流、鳥などの文字を絵画化した「葦手」(あしで)という装飾文字など、様々な文字が登場しました。

平安貴族達の間で流行した「手紙」文化

文字が発展し、文字が日常的に使われるようになると、貴族の男女間で、和歌を詠んで、手紙(ラブレター)を贈り合う風習が生まれます。

貴族の女性はめったに外に出ることはなく、他人に顔を見せること自体がタブーとされていました。男女の出会いは、知人や乳母から姉妹や知人を紹介してもらい、「あそこの家に美しい姫君がいる」という噂を聞き付けた男性が、覗きに行くというのが一般的。男女の出会いの場が、ほとんどありませんでした。

このため、平安貴族の男達は、自分の想いを「五・七・五・七・七」の和歌に凝縮し、手紙を贈るようになったのです。ただし、手紙と言っても単に贈れば良いのではなく、会うことができない分、和歌のセンスや手紙の贈り方、タイミングなどが重要で、女性から評価されるポイントとなっていました。

男性は、女性に知性やセンスをアピールするため、紙に香をたき付けたり、使用人に手紙を届けさせるのではなく、木や花の枝に結んで送る「文挟み」(ふみばさみ)で贈ったり、香木などを砕いて和紙などに小さく包んだ「文香」(ふみこう)を手紙などに添えるなど、女性を振り向かせようと様々な演出を施しました。これらの努力が認められて、初めて意中の姫君から直筆の手紙が届き、恋がスタートしたのです。

なお、平安時代の手紙は、「消息」(しょうそく)や「文」(ふみ)と呼ばれており、「手紙」と呼ばれるようになるのは江戸時代に入ってからになります。

手紙の発展とともに使用された「文房具」

手紙の文化が発展するとともに、使用する紙や筆などの様々な「文房具」が登場し、書き手の教養やセンスを感じさせるポイントになりました。

手紙を書く筆は、主にうさぎや狸、鹿などの毛が使われ、特に毛がやわらかいうさぎの筆が好まれ、細かい字を書く場合は、鹿が好まれたようです。

筆に付ける墨は、松根を燃やしてできた「煤煙」(燃料を燃やして出るすすと煙)を採取し、「膠」(にかわ/ゼラチンを主成分とする接着剤)を練って固めて作ったと言われています。

また、墨を入れる「硯」(すずり)は、「墨磨り」(すみすり)の略で、粘土を焼いて作る「瓦硯」(がけん/陶製の硯)が一般的です。しかし、平安時代後期になると、石で作られた「石硯」(せきけん)が作られるようになり、中国製の輸入品は大変珍重されました。

平安時代の文学

平安文学の流行

手紙文化と同様、文字の登場とともに発展したのが「文学」です。特に、空想的な内容を楽しむ「伝奇物語」の他、和歌を中心とした「歌物語」、虚構の物語で構成される「作り物語」などが流行し、様々な作品が世に生み出されました。代表的な作り物語として、「竹取物語」や「伊勢物語」があります。

また、フィクションで書かれた物語に対し、書き手の日常や想いを書き綴って読み物としたのが「日記」や「随筆」です。いわゆるノンフィクションの物語で、ひとつの作品として読めるよう、書き方に一工夫を加えている物もあります。代表的な作品は、「土佐日記」(とさにっき)、「蜻蛉日記」(かげろうにっき)、「紫式部日記」(むらさきしきぶにっき)、「枕草子」(まくらのそうし)などです。

後世に名を残した有名人

平安時代の文学作品は、特に女流文化が栄えた時代です。現代に名を残す有名人達の中でも、女流作家に焦点を当てて紹介します。

紫式部

言わずと知れた女流作家、「紫式部」(むらさきしきぶ)は、源氏物語や紫式部日記など数多くの有名作品を残した女性です。平安時代を代表する作家のひとりで、教科書などにも作品が掲載されています。幼い頃から漢文が読めたなどの逸話があり、才女としても有名です。

清少納言

紫式部と肩を並べて有名なのが、枕草子の作者であり、平安時代を代表する女流作家「清少納言」(せいしょうなごん)。その父である「清原元輔」(きよはらのもとすけ)も有名な歌人で、曽祖父「清原深養父」(きよはらのふかやぶ)は、「古今和歌集」の代表的歌人のひとりです。まさに、平安時代の文学一家と言えます。

文学以外の貴族文化

平安時代に栄えた文化は、文学以外にもたくさんあります。その中でも、特に平安貴族達に愛されていた文化は「香」(こう)です。香とは、香料を使って香りを楽しむ文化のことで、当時は毎日お風呂に入る風習がなかったため、消臭目的で利用されていたと考えられます。

香の歴史は、日本書紀に記されているほど古くからありましたが、実際に調合して香りを楽しむようになったのは平安時代と言われています。また、頻繁に手紙を書いていた平安貴族達の間では、和歌や紙の色とは別に、季節感を相手に届けるため、手紙に香をたきつけることも、貴族のたしなみとされました。

蹴鞠

蹴鞠

他にも、物語のワンシーンを絵画化した物語絵を観たり、鞠を落とさずラリーを続ける「蹴鞠」(けまり)をしたり、馬を走らせてスピードを競う「競馬」(くらべうま)をするなど、平安時代には多くの娯楽が発展しています。

そして、重箱に詰めた食事を持って行き、「物見遊山」(ものみゆさん)で花見や紅葉狩りを楽しむ平安貴族も、多く見られました。

庶民達の文化

毎日充実した日々を送る平安貴族とは対照的に、庶民の文化は働くことに一生懸命で、娯楽と呼べる物はほとんどありませんでした。しかし、そのような質素な生活の中でも、コマやサイコロ、木トンボ、路上での将棋や双六(すごろく)など、身近な物で遊び、娯楽を楽しんだと言われています。

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