平安時代

平安時代の食文化とは

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「桓武天皇」(かんむてんのう)が平安京に遷都してから鎌倉幕府誕生まで、およそ400年間続いた「平安時代」。権勢は「摂関政治」から「院政」、そして「武家政権」へと移行していく中で、平安時代の貴族や武士、庶民はどんな食生活を送っていたのでしょうか。 「平安時代の食文化とは」では、貴族や庶民の食文化についてご紹介します。

平安時代における「貴族」の食文化

「貴族」の食生活

平安時代の「貴族」の食生活

平安時代の「貴族」の食生活

主食
貴族の食生活は、米を主食とし、主菜や副菜、デザートまで付いた豪華な食事で、庶民とは一線を画した優雅な暮らしぶりだったと言われています。

ただし、米と言っても今のようにふっくらとした白米を食べていたわけではなく、うるち米を甑(こしき)で蒸した「強飯」(こわいい)と呼ばれる少し硬めの米を食べていました。

また、貴族は客人を迎えて酒宴や饗応などを頻繁に行なっていたこともあり、強飯は、塗り椀に円柱状(または四角)にてんこ盛りに盛られ、その上からお箸を立てて刺し、より立体的かつ豪華に見える「高盛り」という盛り付け方が平安時代の作法となっていました。

現在では仏様の影膳となっていますが、てんこ盛りに盛り付けて、たくさん食べてもらうことが、平安時代の最大級のもてなしだったと考えられています。

主菜
貴族が暮らしていた京都は、海から遠い場所にあったことから、新鮮な海の幸を食べることは難しく、食卓に並ぶ魚は、川から獲れる淡水魚や魚介類・海藻などで、腐らないよう干物か塩漬けになっていたとされています。

魚介類や野菜の他にも、近くの山で獲ることができるヤマドリやハト・スズメなどの鳥類や、クマやイノシシなどの獣類も食べられていたことが、平安時代中期の漢和辞書「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)に記されていました。ただし、平安時代でも時期によっては食材の様子が異なり、前期は食材の制限がなかったものの、中期になると、仏教文化の影響を受けて肉食を禁じたこともあったと言われています。

デザート
平安時代にも、お菓子やデザートの風習は存在し、平安時代中期に編纂された「延喜式」(えんぎしき)という格式(律令の施行細則)によると、梨、麹、なつめなどの果実類の「木菓子」が季節に応じて出されており、もち米の粉を練って焼いた「ひちら」という煎餅のような物や、肉桂皮の粉末を付けた「てんせい」という餅などの唐菓子も、食べられていたと記されています。

さらに、貴族の私有地である荘園が始まると、馬や牛を放牧する酪農が広まり、牛乳や「酪」(牛乳を濃縮して粥にした物)、「蘇」(酪をさらに濃縮してチーズにした物)なども、デザートとして食べられるようになりました。

調味料
平安時代の主な調味料は、「酒」・「酢」・「塩」・「醤」の4種類で、これを「四種器」(ししゅのもの)と呼びました。各自の膳の上に置かれており、自分で好みの味付けをして食べていたようです。ただし、酒や醤は貴重な物であったことから、身分の低い者には塩と酢の2種類となり、「二種物」と呼びました。

貴族を苦しめた「生活習慣病」

平安時代になると紙と筆が普及し、読み書きができる人も増えたことから、歴史書や文学、絵巻物に病気のことが書かれるようになりました。平安時代における死因の半分は「結核」による物だったとされていますが、「はだかの日本史」によると、貴族における病死の2割は、「脚気」(かっけ)だったとされています。

主な原因として、平安時代における庶民の食事は、1日1~2回だったのに対し、貴族は早い段階から1日3回に増え、味付けも自分の好みで偏っていた食生活が原因のひとつとされています。また、庶民と異なり貴族は労働をしないため、日頃からあまり体を動かすという習慣がなく、塩分が高い食材に、糖度の高い酒を飲んでいたことから、「糖尿病」などの生活習慣病になりやすかったようです。

貴族は贅沢な食生活を送り、庶民のように飢える心配はありませんでしたが、贅沢三昧の食生活が仇となり、このような健康問題に悩まされていました。

平安時代における「庶民」の食文化

「庶民」の食生活

主食
農作物は天候に大きく左右され、生産量も限られていたことから、庶民の食卓に白米が上がることはめったにありませんでした。このため、庶民の主食は「麦類」や「アワ」・「キビ」などの雑穀が中心で、腹持ちを良くするために、粥状にしてかさ増しして食べるなどの工夫をしていたようです。

また、食事の回数は1日2回が基本で、朝と夕方しか食事を摂っていませんでした。

ただし、下級官吏や大工など、早朝から出仕する仕事や肉体労働に就いている人は、昼間に「硯水」(けんすい)と呼ばれる簡単な間食を摂っていたと言われています。

副食
貴族とは違ってとても質素で、基本的には、米粥と汁物、干物や野菜の和え物などが並ぶ「一汁三菜」であったとされています。副食としては、ウリやネギ、ごぼう、フキ、ナス、せりなど、野菜や穀物が多く、粕漬、酢漬けにして食べていました。

また、遣唐使によって麺類が伝来し、麦を使った現在のうどんのような物が食べられていたと言われています。

平安時代から食べられていた「かき氷」

清少納言が食べた高級スイーツ「かき氷」

現代のかきごおり

現代のかきごおり

平安時代中期、「清少納言」によって書かれた随筆集「枕草子」の四十二段に、「あてなるもの。…削り氷に甘葛(あまずら)入れて、新しき鋺に入れたる」という記述があり、清少納言が「削り氷」というデザートを食べたと書き記されていました。

削り氷とは、「かき氷」のことで、「甘葛」(ツタの樹液を煮詰めた蜜)というハチミツのような甘味料を、かき氷にかけて食べたと書かれています。

平安時代のかき氷は、冬の間に自然の冷気によってできた氷の塊を、日の当たらない山麓の洞窟や掘った穴にすすきやワラビの穂などを敷き詰めて置き、その上から草を覆って、夏まで保存していました。この施設を「氷室」(ひむろ)と呼び、宮内省の主水司(宮中の飲料水や醤、氷室などを管理した役所)が管理したとされています。

冷蔵庫や製氷機のなかった平安時代。かき氷は大変希少な物であり、清少納言の心をときめかせた物だったことがうかがい知れます。今では、誰でも気軽に食べられるかき氷ですが、「おいしいスイーツに心がときめく気持ち」は、今も昔も変わらないのではないでしょうか。

その後、本格的な「氷屋」ができるのは江戸時代の幕末頃で、「製氷所」が誕生するのは、明治時代となります。

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