名家に代々伝えられた日本刀

前田家伝来の薙刀 無銘 片山一文字(号 大外刈)

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薙刀の必殺技「大外刈」(おおそとがり)の号を持つ「薙刀 無銘 片山一文字」。この薙刀を最初に所持していたのは、薙刀の名手と言われた「山口修弘」(やまぐちながひろ)です。豊臣秀吉から賜ったこの薙刀はそののち、どのようにして加賀百万石を誇る前田家へと伝わったのでしょうか。薙刀 無銘 片山一文字(号 大外刈)について、詳しくご紹介します。

薙刀 無銘 片山一文字の最初の所持者、山口修弘とは?

「大外刈」(おおそとがり)の号を持つ、「薙刀 無銘 片山一文字」をはじめに所持していたのは、安土・桃山時代に活躍した武将「山口修弘」(やまぐちながひろ)と伝えられています。

山口修弘は、越前国(現在の福井県)で1万3,000石を所有。父は「山口宗永」(やまぐちむねなが)で、父と共に「豊臣秀吉」、「小早川秀秋」に仕えました。

父の山口宗永は、1598年(慶長3年)に主君・小早川秀秋が豊臣秀吉から越前国・北ノ庄15万石を与えられた際に、小早川家の重臣として、加賀国「大聖寺城」(だいしょうじじょう:現在の石川県加賀市)を受領。6万石の城主となり、小早川家から独立しました。

さらに山口修弘も、1年後の1599年(慶長4年)に、加賀国江沼郡(えぬまぐん)に13,000石を与えられています。

なお、山口修弘は武断派として朝鮮出兵にも参戦。薙刀の名手と言われ、数々の武功を挙げました。山口修弘の愛刀である薙刀・大外刈は、豊臣秀吉が山口修弘に下賜した物と伝えられています。

大聖寺城の戦いが勃発

1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると、五大老の「徳川家康」、「前田利家」、「毛利輝元」、「小早川隆景」、「宇喜多秀家」と五奉行の「石田三成」、「浅野長政」、「前田玄以」(まえだげんい)、「増田長盛」(ましたながもり)、「長束正家」(なつかまさいえ)で、後継者「豊臣秀頼」を支える体制となりました。

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い

しかしこれが徐々に崩壊していき、石田三成を中心とした西軍と、徳川家康を中心とする東軍が対立し「関ヶ原の戦い」が起きるのです。

山口修弘、山口宗永父子が支持したのは、西軍でした。そこで、東軍「前田利長」は、山口宗永が住む大聖寺城を攻撃します。

これが、関ヶ原の前哨戦と言われる「大聖寺城の戦い」です。

前田利長が率いたのは20,000もの兵。一方、山口修弘、山口宗永父子側の兵は、わずか500余り。しかし、薙刀の名手と言われた山口修弘が大奮闘。豊臣秀吉から賜った薙刀・大外刈を携え、果敢に攻め込んで行ったのです。

山口修弘は、城壁傍らの乱戦で、薙刀・大外刈を振り回して、敵を次々と薙ぎ倒し、孤軍奮闘。しかし多勢に無勢。山口修弘は、敵に取り囲まれてしまいます。

ところが、それを見ていたのが、山口修弘の乳母。なんと山口修弘の乳母は名だたる怪力の持ち主で、周囲の人に木材や大石を運ばせては前田軍の兵士に次々と投げ付け、十数人を討ち取ったという逸話が残っています。

山口修弘と乳母は、天下無双の立ち回りを繰り広げましたが、結局は兵の数には敵わず、山口父子そして乳母も共に自刃し、大聖寺城は落城したのです。

合戦の街 関ヶ原
「関ヶ原の戦い」の経緯や結末、関ヶ原の現在についてご紹介します。

戦利品として前田家へ伝来

加賀藩の居城 金沢城

加賀藩の居城 金沢城

山口家が滅亡すると、自刃した山口修弘の愛刀であった薙刀・大外刈は、戦利品として前田利長が手に入れます。

前田利長とは、豊臣政権下で絶大な力を誇った五大老のひとり、前田利家の嫡男です。

豊臣秀吉の死に続き、前田利家が金沢(現在の石川県金沢市)で死去すると、前田利長は大坂城(現在の大阪城)に留まり、五大老のひとりとして豊臣秀頼を補佐していました。

なぜ、前田利長は、東軍・徳川家康側に付くことになったのでしょうか。

前田利家は豊臣秀吉のナンバー2と呼ばれた人物です。豊臣秀吉の没後、徳川家康が必ず天下を狙って動き出すに違いないと警戒していました。そこで、前田利家は前田利長に「3年間は金沢に帰るな」と言い付けていたのです。

しかし、この命令に反して、うかつにも前田利長は金沢に帰郷。この結果、前田利長は徳川家康に謀反をするに違いないと疑いを持たれてしまいました。

そこで、前田利長は疑いを晴らすため、母「芳春院」(ほうしゅんいん)通称「まつ」を、人質として江戸に送り出すなど画策していくうちに、前田利長は東軍・徳川側に付かざるを得なくなったのです。結局は、前田利長が徳川方へ味方したことで前田家は存続することとなり、江戸時代には「加賀百万石」という謳い文句にもあるような隆盛を極めました。

大外刈は富山藩主・前田利次と共に富山へ伝来

関ヶ原の戦いのあと、北陸は能登(現在の石川県七尾市)、加賀、越中(現在の富山県)の3つの国を前田家が支配しました。1605年(慶長10年)に前田利長は、加賀藩の藩主の座と薙刀・大外刈を異母弟の「前田利常」(まえだとしつね)に譲ります。

そののち、薙刀・大外刈は1639年(寛永16年)に、前田利常の次男「前田利次」(まえだとしつぐ)へ伝来。なお、前田利次は前田利長の甥で、前田利家の孫にあたる人物。初代富山藩の藩主として、新田開発を奨励し、富山の地を開拓していくことになるのです。

現在、薙刀 無銘 片山一文字(号 大外刈)は、名古屋刀剣博物館「名古屋刀剣ワールド」(メーハク)が所蔵しています。

前田利常
戦国武将を主に、様々な珍説をまとめました。

薙刀 無銘 片山一文字(号 大外刈)とは?

薙刀 無銘 片山一文字(号 大外刈)は、備前国(現在の岡山県)を拠点とする片山一文字派の刀匠が、鎌倉時代中期から後期にかけて作った1振です。

一文字派とは、鎌倉時代前期から南北朝時代にかけて、備前国で最も隆盛を極めた一大流派のこと。一文字と呼ばれるのは、刀身の(なかご)部分に、天下一であることを表す「一」の文字を刻んでいたことに由来します。一文字派のなかでも刀工の住む地域や刀剣の作風によってさらに流派が分かれます。

片山一文字派は、もともと福岡一文字派からの分派です。福岡一文字派は、福岡庄という地域にある一文字流派でも最古参。片山一文字派は、福岡一文字派の「則房」(のりふさ)が近隣の片山という地域に移り住んで刀剣を作ったことから始まりました。則房のが切ってある刀剣は太刀だけですが、同刀工が薙刀の名手と言われていることもあり、片山一文字の刀剣には薙刀や薙刀直しといった無銘の作品が多く見られます。

片山一文字派の特徴は、地鉄(じがね)が明るく冴えて強い鉄味を示していること。また刃文の状態もはっきりしており、乱刃が逆がかっているところです。地鉄とは、刀身の表面に生じた模様のことを指し、別名で鍛肌とも言います。刀身の模様は、炭素量が異なる材料を組み合わせて折り返し鍛錬することで生じますが、片山一文字派では炭素量が多く、刀身の焼き入れ部分が黒く冴えているのが持ち味です。

号の大外刈とは、薙刀術において繰り出す必殺技のこと。片山一文字の切れ味の良さを物語るかのような名前で、かつての持ち主・山口修弘が大聖寺城で繰り広げた戦いぶりが目に浮かぶようです。

本薙刀は、地鉄が小板目肌に杢が交じり地景入り乱映りが立っています。また、刃文は丁子乱れに互の目が混ざって逆がかり、匂口冴えた逸品。丁子乱れとは、丁子の実が連なったような形をして、互の目とは丸い碁石が連続したような刃文のことを言います。丁子乱れは一文字派の得意とする作風であり、片山一文字にもその特徴が表れています。

薙刀 無銘 片山一文字
薙刀 無銘 片山一文字
無銘
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
50.6
所蔵・伝来
豊臣秀吉→
山口修弘→前田家→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

前田家伝来の薙刀 無銘 片山一文字(号 大外刈)

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