「薙刀 銘 直光」は、江戸時代末期に幕臣によって結成された「京都見廻組」(きょうとみまわりぐみ)を指揮した「岩田通徳」(いわたみちのり)が所持した薙刀です。作刀したのは「細田直光」(ほそだなおみつ)。細田直光は刀鍛冶として優れていましたが、時代に翻弄された結果「贋作の名人」として有名になってしまった人物です。岩田通徳と細田直光の来歴を追っていきながら、薙刀 銘 直光について、詳しくご紹介していきます。
岩田通徳
「岩田通徳」(いわたみちのり)は、江戸幕府直属の家臣である旗本の家に生まれ、「京都見廻役」(きょうとみまわりやく)として警察組織「京都見廻組」(きょうとみまわりぐみ)を指揮した人物。
京都見廻組とは、幕末に「新選組」(しんせんぐみ)が活躍していた同時期、会津藩主で京都守護の「松平容保」(まつだいらかたもり)のもとで結成された警察組織のこと。
身分を問わず入隊できた新選組とは違い、旗本の次男・三男のなかから腕の立つ者を選んだ、言わば「名門子弟によるエリート集団」でした。
しかし、なかなか人が集まらず、常に人材不足に悩まされていたと言われています。理由としては、新選組が百姓から武士に取り立てられるという野心や、篤い志を持った者が入隊してもてはやされていたのに対して、京都見廻組はお役目として任務にあたるという、やや冷めた目線であったからではないかと考えられます。
新選組と同じように京都守護の任務に就いていましたが、新選組とは警備を担当する区域が違っていたため、職務上で協力し合うことはありませんでした。新選組が主に「祇園」(ぎおん)などの歓楽街を担当したのに対し、京都見廻組は「御所」や「二条城」などの重要拠点を担当。
なお、当時は身分の上でも組織としても、京都見廻組の方が新撰組よりも上に見られていました。そのためか、お互いに反発しあうことが多かったと言われています。
坂本龍馬
京都見廻組が一躍有名となったのは、1867年(慶応3年)に「坂本龍馬」(さかもとりょうま)が暗殺された「近江屋事件」(おうみやじけん)。
これが、京都見廻組によるものだとする説が有力視されたのです。
元々、坂本龍馬殺害については様々な説が存在します。「新選組説」、「薩摩藩説」、「土佐藩説」、「紀州藩説」と言ったものから、坂本龍馬と一緒に殺害された「中岡慎太郎」(なかおかしんたろう)の相討ち説やフリーメイソン説などの眉唾なものまで。
そのなかで一番信憑性が高いとされているのが、京都見廻組による殺害なのです。
ただし、もし坂本龍馬の殺害が京都見廻組によるものだったとすると、警察組織としての任務となるので、「暗殺」という表現は適切ではありません。当時の坂本龍馬は、前年1866年(慶応2年)の「寺田屋事件」(坂本龍馬襲撃事件)における捕り方殺害の下手人として、言わば逃亡犯だったので、京都見廻組の襲撃は職務上妥当なものとなります。
それならば、なぜ京都見廻組は坂本龍馬を殺害したことを公表しなかったのでしょうか。そこで登場するのが「黒幕説」です。殺害自体は京都見廻組によるものでも、通常任務ではなく極秘任務としての暗殺であり、そこには他に黒幕があったのではないか、という説が存在します。
ただし、岩田通徳は坂本龍馬殺害にはかかわってはおらず、「佐々木只三郎」(ささきたださぶろう)、「今井信郎」(いまいのぶお)、「渡辺篤」(わたなべあつし)、「世良敏郎」(せらとしろう)など少数の者が、上官である岩田通徳や「小笠原長遠」(おがさわらながとお)にも告げずに行なったと言われているのです。京都見廻組において、岩田通徳がどのような任務を行なったのかは、残念ながら分かっていません。
京都見廻組はそののち、「新遊撃隊」(しんゆうげきたい)、「狙撃隊」と何度も名称変更しますが、岩田通徳はその頭となり、1868年(慶応4年)には隊士を引き連れ、日光の警備にあたった記録が残されています。
1868年(慶応4年)4月、岩田通徳は「大目付日光奉行」として日光へ赴きます。しかし、新政府より退去命令が下され、6月には江戸に戻されました。そののち、駿府へ移封を命じられた徳川家に伴って静岡に移住。掛川奉行を務めた記録が残っています。
驚くべきは、そのあとの岩田通徳の転身です。何と岩田通徳は東京に戻り、「式部寮雅楽課」(しきぶりょうががくか:現在の宮内庁式部職楽部)に職を得ます。そこで、宮中の式典などでの「雅楽」に関する仕事に携わるのです。
雅楽とは、古代日本に伝わった中国大陸や朝鮮半島などの音楽や舞に、日本独自の要素を加えて完成した日本の古典音楽。宮中で演奏する際の手配や様々な事務を行なって、雅楽の伝承を行なうのが岩田通徳の仕事でした。
ただ、式典の準備だけをしていただけではなく、岩田通徳はかなり雅楽の世界に精通していたようで、1878年(明治11年)には「音律入門」を出版。同年のパリ万国博覧会の音楽展示では、出品する楽器・楽譜等の手配や解説書の作成などにあたったという記録が遺されています。
それまでとは全く畑違いの分野でも砕心して取り組み、成果を上げているのが記録から伺えます。旗本時代に京都見廻組の隊長まで務めた岩田通徳は、剣の腕も相当のものだったと思われますが、それをすっぱりと捨てて新天地で活躍したことは見事の一言です。
「薙刀 銘 直光」は、静岡岩田家に伝来した1振。岩田通徳は、それまでの自分自身の経歴もすべてこの薙刀と共に、静岡に置いていったのかもしれません。
薙刀 銘 直光を作刀した「細田直光」(ほそだなおみつ:細田平次郎直光)は、江戸時代末期に活躍した新々刀の名工。「鍛冶平」(かじへい)と異名が付くほどの腕前でしたが、残念ながら現在では「贋作」(がんさく:偽物)の名人としての方が有名です。
細田直光は、常陸国鹿島郡(ひたちのくにかしまぐん:現在の茨城県鹿嶋市)の「鹿島神宮」ゆかりの名家の生まれだとされ、新々刀の名工「次郎太郎直勝」(じろうたろうなおかつ)に入門します。師である次郎太郎直勝は、新々刀を代表する名工「大慶直胤」(たいけいなおたね)の門人で、のちに婿養子となった人物。師匠の大慶直胤にも劣らぬ技量で知られる名工です。
細田直光自身の腕前も、大慶直胤や次郎太郎直勝の流れを汲み、備前伝や相州伝など、多彩な技を見事にこなす高い技量を見せました。ところが不運なことに、本来であれば刀工としてこれからというまさにそのとき、1876年(明治9年)3月に「廃刀令」が出されてしまいます。
そんな生活苦のなかで、細田直光が活路を見出したのが、「贋作づくり」でした。彼の作った偽物は、そのできの素晴らしさから、容易に本物と見分けが付かず、注文が殺到。贋作名人としての方が有名になったことにより、現存する自分自身の作品は少ないのです。そのため、本来は名工として名を残せたはずでありながら、歴史の波に翻弄された悲運の刀匠と細田直光を見る向きもあります。
近藤勇
新選組局長「近藤勇」(こんどういさみ)の愛刀は、当時爆発的な人気を誇った「虎徹」(こてつ)だとされますが、非常に高価だった虎徹を近藤勇が所持できたとは思われず、現在では偽物だというのが定説です。
そして、その偽虎徹を作ったのは、他ならぬ細田直光ではないかと言う説があります。
それが事実であれば、新選組と京都見廻役の隊長がどちらも、細田直光の刀剣を愛刀としていたということになり、不思議な縁を感じずにはいられません。