名家に代々伝えられた日本刀

大坂城代青山家伝来の
津田越前守助広と井上真改の合作刀

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お洒落な人が集う街、東京・青山地区は、大坂城代青山家の江戸屋敷があったことから名付けられています。この大坂城代青山家お抱えの刀鍛冶をしていたのが「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ)です。大坂城代青山家と津田越前守助広の歴史、津田越前守助広が大坂新刀の双璧と称される「井上真改/真改国貞」(いのうえしんかい/しんかいくにさだ)と制作した合作刀について詳しくご紹介します。

華麗なる名家・青山家とは

大坂城代青山家は、江戸時代初期から幕府の重臣として、徳川家に仕えた名家です。

青山宗家初代「青山忠成」(あおやまただなり)は江戸幕府初代将軍「徳川家康」の小姓となり2代将軍「徳川秀忠」の側近を務めた人物。1601年(慶長6年)に初代江戸町奉行に就任し、2万石を与えられ大名となりました。

青山忠成の嫡男「青山忠俊」(あおやまただとし)も「大坂冬の陣・夏の陣」で武功を挙げて老中となり、徳川秀忠の近侍や3代将軍「徳川家光」の補導役を務め、武蔵国岩槻藩(むさしのくにいわつきはん:現在の埼玉県さいたま市)4万5,000石の藩主となりました。

ところが、青山忠俊は実直な性格だったことから、事件が起こってしまうのです。青山忠俊は、徳川家光が男色や女装を好むことを諫言。徳川家光の機嫌を損ね、所領を没収され蟄居となってしまいました。のちに許され、青山忠俊の嫡男「青山宗俊」(あおやまむねとし)は出世することとなります。

青山宗俊

青山宗俊

青山宗俊は、1648年(正保5年)に小諸藩(こもろはん:現在の長野県小諸市)3万石の藩主となり、1662年(寛文2年)には5万石で大坂城代となります。大坂城代とは、大坂城主(将軍)の代わりに大坂城(現在の大阪城)を預かるという重職です。

大坂冬の陣・夏の陣のあと、大坂藩は廃止され、江戸幕府の直轄地となっていました。

そののち、1678年(延宝6年)に同じく5万石で浜松藩(現在の静岡県)の藩主として移封。

1748年(寛延元年)「青山忠朝」(あおやまただとも)の時代には、篠山藩(ささやまはん:現在の兵庫県)に転封し、明治維新まで篠山藩主として存続しました。

なお、現在の東京・青山地区(東京都港区)は、青山家の江戸屋敷があったことにちなんで名付けられています。青山通りの北面に青山宗家、南面に分家の屋敷がありました。

青山宗俊が見出した天才刀工とは

津田越前守助広とは

津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ)は、1637年(寛永14年)生まれ。大坂新刀を代表する、摂津国(現在の大阪府)の刀工で、2代助広のこと。新刀最上作、大業物を手掛けています。父は「ソボロ助広」。ソボロ助広は、新刀上々作、大業物を作刀した名工でしたが、1655年(明暦元年)に死去。これにより、18歳で2代助広を襲名しました。

1657年(明暦3年)には越前守を受領。1667年(寛文7年)大坂城代・青山宗俊に才能を見出され、十人扶持の好待遇で召し抱えられます。青山宗俊は武力に長け、武器としての刀剣へのこだわりが強かった人物。

2代助広は、青山宗俊からの注文打ちを数多く制作し、特別重要刀剣になっている代表作「村雨」などを作刀。また、津田越前守助広は青山宗俊の求めに応じて、字を草書体で丸く切る「丸津田銘」を用いるようになりました。さらに、「濤乱刃」(とうらんば)という華やかな独自の刃文を生み出し、腕を上げたのです。

しかし、1678年(延宝6年)に青山宗俊が大坂城代から離れることになると、信州小諸へ。これを機に津田越前守助広は、禁裏御用鍛冶(天皇お抱え鍛冶)となりますが、1682年(天和2年)46歳の若さで死去しています。

現代刀の名工・名匠
現代の日本刀を代表する作品を生み出し、突出した技術を持っている刀匠をご紹介致します。

井上真改とは

井上真改/真改国貞」(いのうえしんかい/しんかいくにさだ)は、摂津国で活躍した刀工です。1630年(寛永7年)生まれで、9歳のときに父「和泉守国貞」(いずみのかみくにさだ)から刀工の技術を学び、20歳で積極的に父親の代作を作っていたとされています。

1652年(慶安5年)、24歳のときに父を亡くし、2代国貞の名を襲名。父親が仕えていた飫肥藩(おびはん:現在の宮崎県伊東家に仕えるようになり、150石を頂戴しました。初代が作った刀剣は「親国貞」、2代国貞(井上真改)の作品は「真改国貞」と呼び分けられています。

1661年(万治4年)に朝廷に刀剣を献上したところ称賛され、(なかご)に「十六葉菊花紋」を明記することを許可されることとなりました。1672年(寛文12年)8月以降は、井上真改と改名し、数々の実績を残します。

しかし、1682年(天和2年)に53歳で急死。酔った勢いで井戸に落ち、そのまま溺死したと言われています。偶然にも「大坂新刀の双璧」と共に呼ばれた、津田越前守助広と同年の死去となりました。

刀剣研究家・鎌田魚妙とは

「鎌田魚妙」(かまたなたえ)とは、江戸時代中期の武士で、刀剣研究家。津田越前守助広と井上真改を大絶賛した人物です。

三島神社

三島神社

伊予国(現在の愛媛県)喜多郡櫛生村にある「三島神社」の神官「鎌田正謹」(かまたまさのり)の次男として誕生。

20歳で上京し、公卿「西洞院時名」(にしのとういんときな)に仕えたあと、公卿「桜井氏福」(さくらいうじとみ)に仕え、川越藩(現在の埼玉県)松平家に仕えました。

川越藩江戸藩邸にて職務を全うしながらも刀剣の研究に勤しみ、1777年(安永6年)に「新刀弁疑」(しんとうべんぎ)を上梓。この本のなかで、「新刀とは慶長以来である」とはっきり定義。これにより、慶長以降に作られた刀剣のことを新刀と呼ぶことが広まったのです。

また、1796年(寛政8年)には「本朝鍛冶考」(ほんちょうかじこう)を出版。刀鍛冶に位列を付け、刀剣研究家としての名を広めました。1796年(寛政8年)に70歳という年齢で生涯を終えています。

大坂城代青山家に伝来した津田越前守助広と井上真改の合作刀

津田越前守助広と井上真改の合作刀の歴史

特別重要刀剣「刀 銘 津田越前守助広延宝三年二月日 井上真改延宝三年二月日」は、津田越前守助広と井上真改によって作られた打刀です。

完成したのは、1675年(延宝3年)津田越前守助広が39歳、井上真改が45歳のとき。大坂城代・青山宗俊の命により大坂新刀の二大巨匠による合作が実現したと言われています。現存する打刀の合作は、本刀1振のみ。脇差ではもう1振あるだけで、合作刀はとても貴重です。

合作にあたっては、大坂城代青山家のお抱え鍛冶であった津田越前守助広が主導したと思われ、指表に津田越前守助広の銘が切られています。のちに、刀剣研究家・鎌田魚妙が著書・新刀弁疑のなかで、2人が作った刀剣を大絶賛。

これ以降、刀 銘 津田越前守助広延宝三年二月日 井上真改延宝三年二月日は、著名な1振として世に知られることとなったのです。

もともとは大坂城代青山家に伝来していましたが、のちにこの刀剣を大絶賛した刀剣研究家・鎌田魚妙が所有。2002年(平成14年)4月24日には、特別重要刀剣に認定され、現在は刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)が所有しています。

地鉄(じがね)は小板目肌よく詰み地沸よく付き、地景細かによく入って冴えており、刃文は指裏に直ぐ調の焼きだしごころがあり、その上には大互の目乱れに小湾れ(このたれ)交じって濤乱風(とうらんふう)。深く小沸厚く付き、砂流し(すながし)、金筋が入る名品です。

刀 銘 津田越前守助広 井上真改
刀 銘 津田越前守助広 井上真改
津田越前守助広 延宝三年二月日 井上真改
延宝三年二月日
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
72.6
所蔵・伝来
大坂城代青山家 →
鎌田魚妙 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

大坂城代青山家伝来の津田越前守助広と井上真改の合作刀

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