「刀剣」という用語は、いわゆる「日本刀」を意味する「刀」(かたな)と、日本のみならず西洋でも見られる「剣」(つるぎ)の総称です。一見すると似ているようにも思える両者ですが、実は明確な違いがあります。剣の基礎知識では、一般的な刀と剣の差異を明らかにしながら、日本、及び西洋の剣を知るためのポイントを解説します。
剣が直刀であったのは、「斬撃」(ざんげき:切り付ける効果がある攻撃)よりも、「刺突」(しとつ:突き刺す)を目的とした武具であったことがその理由。
これは、「血抜き溝」(ちぬきみぞ:英語表記は[Fuller])を設けられた西洋の剣が、多く存在していることからも窺えます。
この溝を彫ることで刀身を軽量化すると同時に、相手を刺したときに体内の血液を抜いて圧力を下げ、また、空気を入れて剣を抜きやすくするという効果がありました。この剣における血抜き溝は、日本刀で言う「樋」(ひ)に該当します。
西洋の剣と日本刀の大きな違いのひとつが、それぞれの制作工程。
西洋剣の場合、溶かした鉄を鋳型(いがた)に流し込んで形を整えたり、熱した鋼を叩いて伸ばしたりする方法などが基本です。
一方の日本刀では、「折れず」、「曲がらず」を両立させるために、刀身の内部にあるやわらかい「心鉄」(しんがね)を、硬い「皮鉄」(かわがね)で包む複雑な構造が採用されているだけでなく、「折り返し鍛錬」と呼ばれる日本刀独自の製法で作られていることが、いちばんの特徴です。
「日本刀の作り方(制作方法)」をはじめ、日本刀に関する基礎知識をご紹介します。
洋の東西を問わず、史上最初に登場した武器は、石を割ったり削ったりして、鋭い縁(ふち)を立たせただけの石器でした。
そのあと、金属を加工する技術が生まれると、銅や青銅、鉄を使って比較的自由な形状の武器が誕生することになります。その形状が洗練され、用途によって細分化されるうちに、両方に刃を立てた剣が誕生したのです。
日本では古墳時代前期の出土品に、両刃で直刀の剣が見られます。
しかし奈良時代に、直刀で片刃の「高麗剣」(こまつるぎ:現在の朝鮮半島にあたる高麗[こうらい]から伝来した剣)が登場したことから分かるように、日本では、両刃の剣から片刃の刀への転換が、かなり早い時期に行なわれたと推測されているのです。
サーベル
その一方で西洋の剣は、中世頃まで長く武器の主流として使用されました。
西洋剣の特徴のひとつは、刺突と斬撃だけでなく、「打撃」を目的としていることにあります
西洋の剣の変遷が、顕著に現れているのがその形状。中世の西洋の剣は、振ったときの遠心力で動作の機敏性が失われることがないように刀身を細くし、「柄」(つか)付近に重心を置く設計で作られているのです。
つまり柄が重くて刃が軽いと言う構造になっているため、接近戦では、「柄頭」(つかがしら)や「鍔」(つば)で敵に打撃を加える攻撃が可能でした。
しかし、銃器などの発達によって防具が軽装になった近代以降は、打撃よりも、斬撃や刺突を得意とする「サーベル」や「レイピア」などの剣に変わっていったのです。
古代日本の武器は両刃の剣が中心で、のちに片刃の刀へと切り替わっていったことは先にご紹介しました。ところが、その過渡期には、両方の特徴を持つ武器も生まれています。
剣と刀、両者の利点を併せ持っていたのは、どのような刀剣だったのでしょうか。
この小烏丸は、50代天皇「桓武天皇」(かんむてんのう)の時代に、「伊勢神宮」より飛来した巨大な烏の翼に仕舞われていたと伝えられる名刀。「平貞盛」(たいらのさだもり)が「承平・天慶の乱」(じょうへい・てんぎょうのらん)を鎮圧した際に、61代天皇「朱雀天皇」(すざくてんのう)より拝領したとされています。
刀でありながら先端部が剣の形状をしており、刺突と斬撃の効果を持つ刀剣であると考えられていました。
その後、小烏丸は「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)以降に所在が不明となりましたが、18世紀後半に平氏の流れを汲む「伊勢家」(いせけ)に保管されていることが発覚。
日本でも古代には、剣が実用品として使用されていました。その名残は、古墳の副葬品などだけでなく、神話の中にも様々な剣が登場していることなどから窺えます。
どの剣も不思議な力を秘めていたとされ、それがのちに、寺社への奉納用の剣に繋がっていったのです。
草薙剣と須佐之男命
「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)、「草那藝之大刀」(くさなぎのたち)などの異称を持つ「草薙剣」は、三種の神器のひとつ。
日本神話では、「須佐之男命」(すさのおのみこと)が出雲国(いずものくに:現在の島根県東半部)で「八岐大蛇」(やまたのおろち)を退治した際に、その尾の中から見付けた神剣であったと言われています。
そのあと、草薙剣は「天照大神」(あまてらすおおみかみ)に献上され、その孫である「瓊々杵命」(ににぎのみこと)が地上に降りたと言う「天孫降臨」(てんそんこうりん)の際に授けられたのです。
そして、12代天皇「景行天皇」(けいこうてんのう)の時代に、「日本武尊」(やまとたける)が東征の際に携行し、駿河国(するがのくに:現在の静岡県中央部)で敵の放った野火から逃れるために、草を薙ぎ払ったことからその名が付けられました。
草薙剣は現在、「熱田神宮」(あつたじんぐう)のご神体です。
須佐之男命は、このときに十拳剣の刃が欠けたのを見たことで、その尾の中に草薙剣があることに気付いたと伝えられています。
十拳剣は、「石上布都魂神社」(いそのかみふつみたまじんじゃ:岡山県赤磐市)に祀られたあと、10代天皇「崇神天皇」(すじんてんのう)の時代に、「石上神宮」(いそのかみじんぐう:奈良県天理市)に遷されました。
また十拳剣は「十束剣」(束は長さの単位で、拳ひとつ分)とも表記され、長剣の一般的な呼び名として、「記紀」(きき:古事記と日本書紀の総称)の様々な場面に登場します。
別名「伊都之尾羽張剣」(いつのおはばりのつるぎ)と言います。
崇神天皇の時代に石上神宮に移され、ご神体となりました。
友人の「阿遅志貴高日子根神」(あぢすきたかひこねのかみ)が葬儀に参列しましたが、天若日子と顔があまりに似ていたことから、天若日子の父から本人と間違えられてしまったのです。
神度剣は、そのことに腹を立てた阿遅志貴高日子根神が、喪屋(もや:本葬までのあいだ、ご遺体を安置しておく場所)を切り倒すときに用いたとされる剣。古事記での正式名称は「大量」(おおはかり)と呼ばれ、日本書紀では同音で「大葉刈」と表記されています。
日本だけでなく西洋においても、最初に登場したのは両刃の剣です。しかし、日本において剣は、戦乱の歴史の中で改良が繰り返され、やがて日本が世界に誇る日本刀へと変化していきます。
日本刀が登場したあと、剣の用途は密教の法具や寺社への奉納用、さらには短刀の代用品などのわずかな例に留まりますが、剣は「剣道」や「剣術」と言った言葉に残されており、現代にまで脈々と息づいているのです。