歴史上の人物と日本刀

幕末の攘夷派剣客・宮和田光胤の愛刀
刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之

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「刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之」(かたな めい えんりゅうさいたちばなくにひでこれをきたえる)は、幕末の国学者で尊王攘夷派(そんのうじょういは:天皇を尊び、外国を排斥しようとする一派)として活動した「宮和田光胤」(みやわだみつたね)の愛刀とされています。宮和田光胤は、「千葉周作道場」(ちばしゅうさくどうじょう)にて「北辰一刀流」(ほくしんいっとうりゅう)の免許皆伝を受けた剣客という顔も持っていました。
本刀の制作者「立花圓龍子国秀」(たちばなえんりゅうしくにひで)は、江戸末期の刀工で「中山一貫斎義弘」(なかやまいっかんさいよしひろ)の門下に入り、上野国(上野国:現在の群馬県)や相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)で作刀。「坂本龍馬」もまた、国秀の日本刀を佩刀していたことは有名です。坂本龍馬と千葉周作道場の同門だった尊王攘夷派の剣客・宮和田光胤について述べると共に、国秀作の刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之について解説します。

尊王攘夷派の剣客・宮和田光胤と2人の息子

圓龍斎立花国秀鍛之」(かたな めい えんりゅうさいたちばなくにひでこれをきたえる)を所持していた「宮和田光胤」(みやわだみつたね)は、幕末から明治時代の国学者です。その生涯は波乱に富み、また宮和田光胤だけでなく、2人の息子も数奇な運命をたどりました。

千葉周作道場と宮和田光胤

宮和田光胤

宮和田光胤

宮和田光胤は、下総国相馬郡宮和田村(しもうさのくにそうまぐんみやわだむら:現在の茨城県取手市)で1816年(文化13年)に生まれます。

若い頃は「千葉周作」(ちばしゅうさく)の門下に入り、江戸三大道場のひとつとして高名な千葉周作道場「玄武館」(げんぶかん)にて剣術を学びました。

宮和田光胤の腕は確かで、「北辰一刀流」(ほくしんいっとうりゅう)を極めて免許皆伝。刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之も、この頃手にしたと言われています。

北辰一刀流の祖・千葉周作の祖先は、「桓武天皇」(かんむてんのう)の血を汲む関東の名族・千葉氏という説が有力。宮和田氏も千葉氏の一族で、宮和田村の名主の家柄です。北辰一刀流は、古くより千葉氏に伝わる「北辰夢想流」(ほくしんむそうりゅう)と、千葉周作が学んだ一刀流を統合した流派と伝わっています。

宮和田氏を含む千葉氏の歴史は、桓武天皇の曾孫「高望王」(たかもちおう:平高望[たいらのたかもち]とも)の子「平良文」(たいらのよしふみ)が、939年(天慶2年)の「平将門の乱」の頃、下総国相馬郡(現在の千葉県柏市我孫子市、茨城県北相馬郡など)を治めるようになったことから始まりました。その子孫が千葉氏を名乗ったため、平良文は千葉氏の祖とされています。

宮和田光胤が生まれた宮和田村は、まさしく平良文が最初に治め、千葉氏が勢力を誇っていた場所です。

国学者・平田銕胤と宮和田光胤

玄武館は神田お玉が池(現在の東京都千代田区)にありましたが、同じ時代のこの界隈には多くの学者が居を構え、江戸の学問の中心地として学研都市のように栄えました。武士達は神田お玉が池で剣術と学問の両方に励んだのです。宮和田光胤も玄武館で学び、さらに国学者「平田銕胤」(ひらたかねたね)のもとで国学を学びます。

宮和田光胤の師・平田銕胤は、「国学の四大人」のひとりである「平田篤胤」(ひらたあつたね)に師事し、養子となってその跡を継いだ人物です。平田篤胤は「平田神道」(ひらたしんとう)とも言われる神道的要素の強い信仰的な体系を作り上げ、地方の豪農や神官などの層から大きな支持を得ました。

平田篤胤は尊王思想を唱え、幕末の攘夷思想に大きな影響を与えたのです。その後継である平田銕胤の門下に入ったことは、宮和田光胤の人生にも大きく影響することになります。

宮和田光胤の攘夷思想

宮和田光胤自身も尊王攘夷思想を持ち、運動家達とかかわっていました。

1862年(文久2年)12月10日、「浪士組」(新選組の前身)結成にあたり、幕府より浪士組責任者の地位を依頼されるも断ったと伝わります。国学と神道を極めた剣客である宮和田光胤の名が、幕府にまで轟き渡っていたことを窺わせる逸話です。

ただ、宮和田光胤はそのまま国学者として生涯を終えた訳ではありません。明治維新後は刑法官を務めたとされます。刑法官とは、明治政府の設置した中央官庁のひとつで、司法や刑罰を担当する官庁です。現代なら法務省の役人にあたり、大変なエリートコースでした。

しかし、宮和田光胤のキャリアはまだ終わりません。そののち、東京深川にある「富岡八幡宮」(とみおかはちまんぐう:現在の東京都江東区)の神職となり、73歳で亡くなるまで神職を続けました。剣客であった宮和田光胤は、生涯の最後に神職を選びましたが、平田銕胤のもとで神道を極めたことが活かされていると考えるならば、何ら不思議なことではなかったのです。

宮和田光胤の息子達による攘夷運動とその結果

宮和田光胤自身は神職として天寿を全うしますが、2人の息子はいずれも若くして亡くなっています。不幸にして父の尊王攘夷思想の影響を受けたことが、最悪に近い形で事件に繋がったのです。

長男の「宮和田勇太郎」(みやわだゆうたろう)は、1863年(文久3年)の「足利三代木像梟首事件」(あしかがさんだいもくぞうきょうしゅじけん)にかかわって囚われの身となり、宮和田光胤のもとに戻ることなく、30代で亡くなります。

代わりに三河国吉田藩(現在の愛知県豊橋市)より養子に迎え、跡継ぎとした次男の「宮和田進」(みやわだすすむ)は、1869年(明治2年)、日本陸軍の創始者「大村益次郎」(おおむらますじろう)の暗殺に関与。その際に深手を負ったことから、もはやここまでと同志に頼んで首をはねて貰い、26歳の若さで亡くなってしまったのです。

2人の息子を早くに亡くしてしまった宮和田光胤ですが、当時は志や思想のために死ねるなら本望とされた時代。宮和田光胤も息子達の運動を支援していたと言われています。

坂本龍馬も国秀作の日本刀を愛用していた!

坂本龍馬

坂本龍馬

宮和田光胤にとっては千葉道場の同門であり、薩長同盟や大政奉還を実現させた立役者でもある「坂本龍馬」。

坂本龍馬の愛刀と言えば、京都の「近江屋」(おうみや)で暗殺される瞬間も手にしていた「陸奥守吉行」(むつのかみよしゆき)が有名ですが、「立花圓龍子国秀」(たちばなえんりゅうしくにひで)の日本刀も所持していたと伝えられています。

坂本龍馬が、1853年(嘉永6年)に千葉道場にて、北辰一刀流の免許皆伝を受けていることは有名な話。坂本龍馬が通ったのは、千葉周作の弟「千葉定吉」(ちばさだきち)の桶町(現在の東京都中央区)にあった千葉道場であり、千葉定吉の娘「千葉佐那」(ちばさな:[千葉さな子]とも)とのロマンスもよく知られています。

坂本龍馬が千葉道場での修行が終わる頃、国秀に注文したのが「相州鎌倉住国秀 嘉永七歳八月日」です。その前には宮和田光胤の刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之は仕上がっており、坂本龍馬は同門だった宮和田光胤の日本刀を観て注文したのではないかとも考えられます。

坂本龍馬の国秀は、のちに土佐勤王党(とさきんのうとう)の同志である「弘瀬健太」(ひろせけんた)に譲られました。弘瀬家の子孫が「高知県立歴史民俗資料館」(高知県南国市)に寄託し、「坂本龍馬の愛刀」として現存しています。

江戸末期の刀工・立花圓龍子国秀とは

宮和田光胤の愛刀、刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之を作刀した国秀は、江戸時代末期の刀工です。「肌物鍛え」(はだものぎたえ:地鉄の表面に顕著な肌模様が現れる鍛え)の名手として知られる「中山一貫斎義弘」(なかやまいっかんさいよしひろ)に師事し、のちに「圓龍子」(えんりゅうし)と名乗ります。

上野国安中藩(こうずけのくにあんなかはん:現在の群馬県安中市)の板倉家のお抱え鍛冶となったあと、相模国鎌倉に移って幕末の動乱期に多くの作刀を行ないました。

日本刀の長い歴史において、実戦に使用されたのは江戸時代に入る直前の古刀期に作られた作品と、幕末の新々刀期に作られた作品です。その間の平和な世の中では、日本刀は武士の象徴的存在でした。そのため、激動期に作られた新々刀は、名工水心子正秀」(すいしんしまさひで)の復古論の影響もあって、古刀を理想として作られたため、復古刀とも呼ばれます。

国秀の師・中山一貫斎義弘は、新々刀期の大きな特徴である肌物鍛えを極め、また国秀も師と同じく「造り肌」を得意としていました。

現代刀の名工・名匠
現代の日本刀を代表する作品を生み出し、突出した技術を持っている刀匠をご紹介致します。

特別保存刀剣「刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之」について

刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之は、身幅はほどよく、重ねは厚く、地沸(じにえ)厚く付き、互の目のなかに浅く湾れ(のたれ)が交じるなど、多彩な刃文を見せる国秀作のなかでも傑出した出来の1振です。特別保存刀剣に指定されています。

刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之
刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之
圓龍斎
立花国秀鍛之
嘉永六丑歳八月
宮和田平光胤
為子孫設之
鑑定区分
特別保存刀剣
刃長
86.1
所蔵・伝来
宮和田光胤 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

幕末の攘夷派剣客・宮和田光胤の愛刀 刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之

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