「鬼夜叉」の号を持つ「薙刀 銘 和泉守兼定作」は、美濃国(現在の岐阜県南部)の刀工「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)が打った薙刀です。小浜藩藩主「京極高次」(きょうごくたかつぐ)が所持していたと伝えられています。
京極高次は、「蛍大名」という不名誉なあだ名で有名になりましたが、のちに武勲を挙げて汚名を返上しました。その武勲を支えたのが、この鬼夜叉であると言われているのです。京極高次がいかにして汚名をそそいだのか、また、妖しくも美しい鬼夜叉について解説していきます。
京極高次
「京極高次」(きょうごくたかつぐ)が近江国(現在の滋賀県)の京極氏に生まれたのは1563年(永禄6年)。
父は戦国武将の「京極高吉」(きょうごくたかよし)、母は浅井氏の血を引く「京極マリア」です。
京極氏は、室町幕府の軍事や京都の警備、徴税などを司る「四職家」(ししきけ/ししょくけ)のひとつに数えられる名門でしたが、もともとは配下にあった浅井氏の下剋上により、京極高次が誕生した頃には衰退していました。
幼い京極高次は、浅井氏によって「織田信長」のもとへ人質として送られ、美濃国で幼少期を過ごします。そののち、京極氏を支配していた浅井氏が滅亡。京極高次は織田信長に仕えることとなり、近江国奥島(現在の滋賀県近江八幡市)に5,000石の所領を与えられました。
ところが、1582年(天正10年)6月2日に起こった「本能寺の変」により状況は一変。織田信長が「明智光秀」に討たれると、京極高次は、妹「竜子」(たつこ)の夫である若狭国(現在の福井県南部)の「武田元明」(たけだもとあき)と共に明智光秀側に与したのです。
しかし、「山崎の戦い」で明智光秀が「豊臣秀吉」に敗北。武田元明は自害し、竜子は捕らえられてしまいます。追われる身となった京極高次は「柴田勝家」に匿われ、1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)では、柴田勝家に従い参戦しました。
賤ヶ岳の戦いは、豊臣秀吉の勝利で終結。京極高次は、豊臣秀吉の側室となった妹・竜子の取り成しもあって許され、豊臣秀吉に仕えることとなります。1584年(天正12年)には、近江国高島郡2,500石を与えられ、翌々年には5,000石へと加増されました。
お初(常高院)
さらに「九州征伐」や「小田原の役」で武功を挙げ、近江国大津6万石の大名となります。
この頃、「浅井三姉妹」のひとり「お初」のちの「常高院」(じょうこういん)を正室とするなど、京極高次は順風満帆な人生を歩みはじめていました。
その一方で、「妹の竜子を豊臣秀吉に差し出したおかげ」、「妻であるお初の七光りで大名となった」などと悪評を立てられ、「蛍大名」のあだ名で呼ばれるようになります。
蛍のお尻が光ることから「女性のお尻の七光りで出世して大名になった」という意味の不名誉で、いささか品のない評判を立てられてしまったのです。
豊臣秀吉が没したのちの1600年(慶長5年)、「徳川家康」と「石田三成」の対立が激化すると、京極高次も徳川方、石田方の両陣営から声がかかり、「関ヶ原の戦い」では東軍の徳川家康方に付きました。
戦の始まりに先立って、京極高次は居城である「大津城」(現在の滋賀県大津市)に戻ります。城に兵を集め兵糧を運び込み、徳川家康の重臣である「井伊直政」(いいなおまさ)に、「私が大津城で西軍を引き止めます」と告げました。
これらの行動はすぐさま西軍側に察知され、京極高次は西軍の「毛利元康」(もうりもとやす)軍と、さらには「立花宗茂」(たちばなむねしげ)軍の猛攻を受けることとなります。これが「大津城の戦い」です。
徳川家康
毛利・立花軍との戦力差は5倍とも言われており、結果として京極高次は西軍に負けて降伏してしまいます。
しかし、西軍の分断に成功し、西軍の猛将・立花宗茂を足止めしたことは徳川家康から高く評価されました。
徳川家康に認められた京極高次は、蛍大名の汚名を返上し名誉を取り戻したのです。
関ヶ原の戦いののち、京極高次は徳川幕府より若狭国小浜藩8万5,000石を与えられ藩主となります。京極高次は名門家系の出身でしたが、自ら武功を挙げる真面目な実力派武将でもありました。
京極高次が所持した薙刀の鬼夜叉は、「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)の2代目・通称「之定」(のさだ)が制作しました。
之定は、室町時代後期を代表する刀工のひとりで、美濃(現在の岐阜県)を拠点に活躍。歴代の兼定のなかでも2代目である之定が最も著名で、実力・人気共にかね備えた刀工です。之定の日本刀は、古刀最上作・最上大業物とされ、その切れ味や使いやすさから多くの戦国武将に愛されました。
例えば、「武田信玄」の父である「武田信虎」(たけだのぶとら)や、明智光秀、「細川幽斎」(ほそかわゆうさい)、「黒田長政」(くろだながまさ)など、有名な武将が所持したと言われています。
江戸時代に入ると、之定の作品は1,000両の価値が付く人気を呼んだことから、「千両兼定」と呼ばれるようになりました。