歴史上の人物と日本刀

刀 折返銘 国宗とアドルフ・ヒトラー

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「第2次世界大戦」を引き起こし、ホロコースト(ナチスによるユダヤ人の大虐殺)を先導した独裁者のイメージが強い「アドルフ・ヒトラー」。一方、若い頃には芸術家を志していたとされ、美術・芸術に対する理解は深かったと言われています。
そんなアドルフ・ヒトラーに、日本政府から美術品である日本刀が贈られました。それは、鎌倉時代を代表する名刀「備前三郎国宗」(びぜんさぶろうくにむね)です。備前三郎国宗は、なぜアドルフ・ヒトラーへ贈られたのでしょうか。アドルフ・ヒトラーの生涯を追いながら、備前三郎国宗がたどった運命について見ていきます。

アドルフ・ヒトラーの台頭から第2次世界大戦勃発まで

芸術活動を諦めドイツ軍人として出征

アドルフ・ヒトラー

アドルフ・ヒトラー

「アドルフ・ヒトラー」は、1889年(明治22年)にオーストリアで生まれました。

青年期に芸術の都であるウィーンへ移り住み、美術を学びますが、「ウィーン美術アカデミー」の受験に失敗。そののち、芸術家への道を断念しています。

絵葉書や風景画を売りながら放浪生活を送っていたアドルフ・ヒトラーは、1914年(大正3年)8月1日に「第1次世界大戦」が勃発すると、ドイツ軍へ志願兵として入隊して出征。

しかし、この大戦はドイツの降伏で終結しました。ドイツの敗戦は、アドルフ・ヒトラーに大きな衝撃を与えたとされています。

独裁体制を確立し、近隣諸国へ侵攻

1919年(大正8年)9月、アドルフ・ヒトラーは政治家への転身をもくろみ「ドイツ労働者党」へ入党し、政治活動を活発化させていきます。翌年、ドイツ労働者党は党名を「国家社会主義ドイツ労働者党」(ナチス)に改称。

演説に長け、人々を熱狂させる術を心得たアドルフ・ヒトラーは、党内の派閥抗争も制し、1921年(大正10年)党首となりました。

1923年(大正12年)、アドルフ・ヒトラーはナチス政権の樹立を掲げてクーデターを起こします。「ミュンヘン一揆」と呼ばれるこのクーデターは失敗に終わり一時的に投獄されますが、この収監中に口述筆記させたのが、有名な自叙伝「わが闘争」です。

出獄後はナチスの再建に努め、1929年(昭和4年)の世界恐慌によって政府が国民からの反発を招くと、これを好機と捉えて党の躍進につなげます。

1934年(昭和9年)には総統の地位を得て、全体主義的独裁体制を確立。「第三帝国」と呼ばれるナチスの支配体制を敷き、反ユダヤ主義とゲルマン民族優位の思想をもとに、1939年(昭和14年)9月1日、ポーランドを皮切りに近隣諸国への侵攻を開始しました。

アドルフ・ヒトラーは「第2次世界大戦」を引き起こしたのです。

「日独防共協定」締結から終戦まで

日独の同盟を記念して贈られた「備前三郎国宗」

第2次世界大戦開戦に先立つ1936年(昭和11年)11月25日、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツと日本は「日独防共協定」(にちどくぼうきょうきょうてい)を締結します。

これは、ソビエト連邦(現在のロシア連邦)を中心とする各国の社会民主主義政党に共同で対抗するための条約です。翌年にはイタリアが加盟し「日独伊防共協定」(にちどくいぼうきょうきょうてい)となり、のちに「日独伊三国同盟」(にちどくいさんごくどうめい)へと強化されました。

この日独防共協定締結の記念として、日本政府は鎌倉時代に作られた名刀「備前三郎国宗」をアドルフ・ヒトラー総統に贈ります。

備前三郎国宗は、元々は伊予宇和島藩(いようわじまはん:現在の愛媛県宇和島市)10万石「伊達家」に伝来していましたが、それを日本政府が買い上げて贈り物としました。これら一連の経緯については、備前三郎国宗に付属する巻物の由来書に記されています。

敗戦を前に名刀を返還

スターリングラードの攻防戦

スターリングラードの攻防戦

日本・イタリアと同盟を結んだドイツ軍は、開戦当初は優勢に戦いを進めていました。

しかし、ソ連領内にある工業都市「スターリングラード」(現在のロシア連邦ヴォルゴグラード)での攻防戦に敗れると、そのあとは各地で敗北を重ね、ドイツ軍内部でのアドルフ・ヒトラーの求心力も次第に失われていきます。

1943年(昭和18年)9月8日には、イタリアがアメリカ合衆国・イギリスをはじめとする連合軍に降伏。ドイツでは連合国による戦略爆撃が激しくなり、アジアでは日本も苦戦を強いられていました。

そして1945年(昭和20年)4月23日、ソ連の軍隊である赤軍がドイツの首都ベルリンに突入。敗戦を覚悟したアドルフ・ヒトラーは、ベルリンの地下壕で結婚したばかりの「エヴァ・ブラウン」と共に自殺することになります。遺体は建物ごと焼かれ、最終的には赤軍が収容して葬ったということです。

この敗戦を前にアドルフ・ヒトラーは、備前三郎国宗を日本国の駐在武官に託し、日本へと無傷で返還させていました。

アドルフ・ヒトラーの日本に対する感情に関しては、尊敬の念はなく、あくまで政治的利点を重視して同盟を結んだと言われる一方、アドルフ・ヒトラーに直接会った日本人の多くが親日的であるとの感想を持ち、日本びいきと感じたとも伝えられています。

いずれにしても、武士の魂であり日本の貴重な美術品でもある名刀が、戦火で焼失してしまうのをアドルフ・ヒトラーが惜しんだという事実に揺らぎはありません。

日本とドイツを結んだ名刀について

備前三郎国宗の元々の所有者であった伊予宇和島藩の伊達家は、仙台藩(現在の宮城県)の初代藩主「伊達政宗」の長男「伊達秀宗」(だてひでむね)から始まりました。

伊達秀宗は、幼い頃に「豊臣秀吉」のもとへ人質として差し出され、小姓として仕えます。「関ヶ原の戦い」ののちは「徳川家康」の人質となり、「大坂冬の陣」では、父・伊達政宗と共に参陣。そのときの功績が認められ、伊達政宗に与えられた伊予宇和島10万石を別家として継ぐことになりました。伊予宇和島藩は、明治時代の廃藩置県まで9代に亘り続いています。

伊達家に伝来した備前三郎国宗の制作者「国宗」(くにむね)は、備前長船(現在の岡山県瀬戸内市)出身の刀工で、備前から鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)へ移住し、「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)の師となった名工です。国宝重要文化財に指定されている名刀が数多く現存しています。

本刀備前三郎国宗は反りが深く身幅がやや狭い中鋒/中切先(ちゅうきっさき)の品格ある姿が特徴的です。鍛えは、よく詰んだ小板目肌小杢目肌(こもくめはだ)交じり。直刃丁子乱れ(すぐはこちょうじみだれ)の刃文にも気品があり、洗練され、美しく調和した地刃(じは)からは、備前伝の最高峰とも言われる国宗の高い技量が窺えます。

また、本刀の「折返し銘」(おりかえしめい)とは、(なかご)を磨上げたとき、が消えてしまわないように反対側へ折り返して残した状態のこと。折り返してあるため、銘が通常とは上下逆になっています。

刀 折返銘 国宗
刀 折返銘 国宗
国宗
鑑定区分
重要刀剣
刃長
63.9
所蔵・伝来
伊予宇和島藩伊達家 →
ヒトラー →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

刀 折返銘 国宗とアドルフ・ヒトラー

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