歴史上の人物と日本刀

刀 銘 葵紋崩 烈公と徳川斉昭

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天皇や公家、藩主などの貴人が自ら作刀することを「慰み打ち」(なぐさみうち)と言います。水戸藩(現在の茨城県水戸市)9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)も、慰み打ちを行なった藩主のひとりです。徳川斉昭は、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)の実父であり、「烈公」(れっこう)という諡号(しごう:死後に奉じられる名)でも有名。藩政改革に力を尽くす一方で、「尊王攘夷」(そんのうじょうい:天皇を尊び、外国を排斥しようとする思想)を掲げ、江戸幕府の政治にも大きくかかわりました。
烈公の名に違わず、荒々しく厳しい性格であったと言われる徳川斉昭の生涯を紐解くと共に、自ら鍛えた日本刀「刀 銘 葵紋崩[烈公]」(かたな めい あおいもんくずし[れっこう])についてご紹介します。

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幕末の動乱期を生きた名君

三男ながら水戸藩の家督を継承

徳川斉昭

徳川斉昭

「徳川斉昭」(とくがわなりあき)は、1800年(寛政12年)に水戸藩(現在の茨城県水戸市)7代藩主「徳川治紀」(とくがわはるとし)の三男として生まれました。

次男と四男は、それぞれ他家の養子となりましたが、徳川斉昭は家に残されることに。

水戸学(水戸藩で成立した政治思想の学問)を学び、幼い頃より聡明であった徳川斉昭は、1829年(文政12年)、8代藩主の長兄「徳川斉脩」(とくがわなりのぶ)が跡継ぎのないまま病没すると、遺言が見付かったことにより家督を継ぎます。

藩政改革を推し進める

藩主となった徳川斉昭は、藩政改革を推進。藩校「弘道館」(こうどうかん:現在の茨城県水戸市)を設立し、家柄にかかわらず優秀な人材を登用することに努めました。

また、西洋近代兵器の国産化を推し進めた他、蝦夷地(えぞち:現在の北海道)の開拓や、大型船建造なども幕府に対して提言しています。農村では、飢饉に備える対策として「稗倉」(ひえぐら)を設置し、稗などの穀物を蓄えるようにしました。

他方、宗教に関しては、仏教を抑圧し神道を重視しています。寺院の仏像や釣鐘(つりがね)を没収して大砲の材料として使い、さらには僧侶が行なっていた民衆管理の制度を神官の権限へと移行。村ごとに神社を置くように義務付けました。

しかし、これらの仏教弾圧とも言える行ないや、軍事訓練での鉄砲の一斉射撃などを幕府から咎められ、1844年(弘化元年)、家督を嫡男の「徳川慶篤」(とくがわよしあつ)に譲った上で隠居するようにとの謹慎処分を命じられてしまうのです。

そののち、徳川斉昭が登用した藩士達による復権運動もあり、1846年(弘化3年)に謹慎が解かれ、1849年(嘉永2年)には藩政への関与が許されます。

幕政に参与するも井伊直弼と対立

ペリー来航

ペリー来航

1853年(嘉永6年)、アメリカ合衆国から「マシュー・ペリー」が浦賀(現在の神奈川県横須賀市)へ来航すると、徳川斉昭は海防参与として幕政にかかわり、攘夷論を主張。

江戸防備のために、大砲や弾薬、さらには洋式軍艦をも建造して幕府へ献上しました。

1855年(安政2年)には軍政改革参与に任命されますが、開国反対派の徳川斉昭は、開国推進派の「井伊直弼」(いいなおすけ)と対立します。

13代将軍「徳川家定」(とくがわいえさだ)の将軍後継者問題でも、紀州藩(現在の和歌山県三重県南部)13代藩主「徳川家茂」(とくがわいえもち)を擁する南紀派(なんきは)の井伊直弼らに対し、徳川斉昭は実子である「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)のちの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)を推して一橋派を作り、井伊直弼に対抗しました。

しかし、1858年(安政5年)井伊直弼が大老となり、独断で「日米修好通商条約」に調印。また、徳川家茂を14代将軍としてしまい、徳川斉昭は井伊直弼との政争に敗れたのです。

井伊直弼は反対派を処罰。「安政の大獄」(あんせいのたいごく)と呼ばれるこの弾圧によって、1859年(安政6年)に徳川斉昭は水戸での永蟄居(えいちっきょ:終身の自宅謹慎)を命じられます。翌年、蟄居処分が解かれないまま、徳川斉昭は病没しました。

井伊直弼
戦国武将を主に、様々な珍説をまとめました。

徳川斉昭の人となりとは

藩政改革を成し遂げた名君として評価され、礼儀作法に厳しく、倹約にも努めていたとされる徳川斉昭。幕末期の徳川家のなかでは、突出したカリスマ性と行動力を備える人物でした。

一方、艶福家(えんぷくか:女性にもてる男性)としても知られ、好色であったとも伝えられています。かつて大奥の高位女中であった「唐橋」(からはし)に手を付けたことは有名です。唐橋が一生異性関係は持たないと誓っていたこともあり、大奥からは良く思われませんでした。

また、徳川斉昭が大奥の女性に対して好色ぶりを見せたことや、大奥の浪費に眉をひそめていたことに加え、大奥と親交の深い仏教寺院に否定的であったことから、将軍の後継者問題が起きた際、大奥は徳川斉昭の味方に付かなかったと言われています。

そんな徳川斉昭が生涯に儲けた子どもは、男女合わせて37人。そのほとんどが様々な地方の藩主となり、あるいは藩主に輿入れしたとのことです。

徳川斉昭が鍛えた日本刀

独自の鍛刀法「八雲鍛え」を確立

何事にも積極的であった徳川斉昭は、1832~1833年(天保3~4年)頃から、水戸藩のお抱え刀工達を御相手鍛冶として、自ら刀剣の制作「慰み打ち」(なぐさみうち:天皇や公家、藩主などの貴人が自ら作刀すること)を行ないました。

御相手鍛冶として挙げられるのは、水戸藩随一と称された「市毛徳鄰」(いちげのりちか/とくりん)や、大坂で「尾崎助隆」(おざきすけたか)に学んだのち、江戸に移って「水心子正秀」(すいしんしまさひで)に師事した名工「直江助政」(なおえすけまさ)、その子「直江助共」(なおえすけとも)などです。

徳川斉昭は、作刀を通して「八雲鍛え」(やくもきたえ)と呼ばれる独自の鍛刀法を確立しました。「刀剣ワールド財団」(東建コーポレーション)が所蔵する作品も、地鉄は雲が湧き上がるような八雲鍛えで、「綾杉肌」(あやすぎはだ)が交じる出来栄えが見事です。

また、はなく「」(なかご)に紋章のみが刻まれています。これは水戸徳川家の家紋であった「葵紋」(あおいもん)をモチーフにした「葵紋崩」(あおいもんくずし)です。時計の針にも見える3本の線が入っていることから、「時計紋」とも言われます。

徳川斉昭は、自ら作刀した作品であっても銘を切ることはなく、この紋章のみを入れました。

刀 銘 葵紋崩(烈公)
刀 銘 葵紋崩(烈公)
葵紋崩
鑑定区分
特別保存刀剣
刃長
70.9
所蔵・伝来
徳川斉昭 →
青木家 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

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刀 銘 葵紋崩 烈公と徳川斉昭

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