名家に代々伝えられた日本刀

鍋島家と肥前国住陸奥守忠吉

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「特別重要刀剣」に認定されている「刀 銘 肥前国住陸奥守忠吉」は、「佐賀藩」(現在の佐賀県佐賀市)別称「肥前藩」(ひぜんはん)の藩主「鍋島家」に伝来した名刀です。肥前国(ひぜんのくに:現在の佐賀県、長崎県)の戦国大名「龍造寺家」(りゅうぞうじけ)の家臣であった鍋島家は、龍造寺家宗家の断絶後「徳川家康」に認められ、佐賀藩の藩主に就任しました。
特別重要刀剣に認定の刀 銘 肥前国住陸奥守忠吉についてご紹介すると共に、この刀剣を所有していた鍋島家や、江戸時代初期の刀工で「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)に列せられる名工「陸奥守忠吉」(むつのかみただよし)についても解説します。

家臣から大名となった鍋島家に伝わる「化け猫騒動」の怪

大名・鍋島家の誕生と「鍋島騒動」

佐賀城

佐賀城

肥前国(ひぜんのくに:現在の佐賀県長崎県)は戦国時代、「龍造寺家」(りゅうぞうじけ)が支配していましたが、1584年(天正12年)に19代当主「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)が戦死。

同家の重臣であった「鍋島直茂」(なべしまなおしげ)が、「豊臣秀吉」に肥前国の支配を認められ、実権を握ります。

この時点では、「佐賀藩」(現在の佐賀県佐賀市)の藩主は龍造寺家の名のままで、実権のみ鍋島家が握るという二重体制を取っていました。

すなわち佐賀藩の藩主は、その家督が龍造寺家に継続しているのにもかかわらず、支配権は鍋島家にあるという、分離の状態にあったことを意味しています。そしてこれは、両家が度々対立したなかで起こった「鍋島騒動」と呼ばれるお家騒動の要因となったのです。

しかし、鍋島騒動の背景となった佐賀藩主の交代劇は、鍋島家による強引な政権奪取ではありません。天下人の豊臣秀吉、つまり公儀権力があとから介入し、ひとつの藩のなかで定着していた領主の二重体制を公的に認めた、非常に稀なケースであったと言えます。

イワシと鍋島直茂
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鍋島騒動の背景とは

1607年(慶長12年)、鍋島直茂の長男「鍋島勝茂」(なべしまかつしげ)が、龍造寺家宗家の家督を相続したことで、「徳川家康」によって正式に鍋島家が佐賀藩主であると認められ、大名・鍋島家が誕生しました。

ところが、これに納得がいかなかったのは佐賀藩主、そして大名としての地位を奪われた龍造寺家です。龍造寺隆信の孫「龍造寺高房」(りょうぞうじたかふさ)は、家督への執着が捨てきれず、江戸幕府への抗議の意味も込めて自害してしまいます。そして、その父「龍造寺政家」(りゅうぞうじまさいえ)も、あとを追うように亡くなってしまったため、龍造寺家宗家は廃絶することになったのです。

しかし、これで一件落着にはなりませんでした。龍造寺高房の遺児「龍造寺季明」(りゅうぞうじすえあき)通称「伯庵」(はくあん)は江戸幕府に対して、龍造寺家再興の訴訟を繰り返します。しかし江戸幕府だけでなく、佐賀藩の家臣の多くも鍋島家による支配を支持していたため、龍造寺家による訴えは無視され続けていたのです。

鍋島騒動から生まれた「化け猫騒動」の伝説

そうした龍造寺家の深い遺恨を、想像上の妖怪である「化け猫」を用いて表現した物語が「鍋島化け猫騒動」と呼ばれる伝説。これは、歌舞伎狂言や実録本、講談などの題材となり、大人気を博しました。

例えば、歌舞伎狂言「花埜嵯峨猫魔稿」(はなのさがねこまたぞうし)のタイトルにある「嵯峨」(さが)は京都府の地名ですが、「佐賀」にひっかけて名付けられています。その筋書きは、以下の通りです。

「直島大領直繁は、高山検校と囲碁で勝負中に高山検校を殺害。高山検校の飼い猫が化け猫となり、直島大領直繁の室・嵯峨の方に憑りついて夜毎直島大領直繁を苦したが、直島大領直繁の忠臣伊東壮太が、化け猫の正体に気付いて退治した」

タイトル、筋書き共に佐賀藩や鍋島家とはどこにも書かれていませんが、当時は誰が見ても佐賀藩で起こった鍋島騒動のことだと分かったと考えられています。この作品は、1853年(嘉永6年)に初演予定でしたが、佐賀藩の抗議によって上演中止になりました。

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財政難から生まれた開明派・佐賀藩

幕末の倒幕運動における雄藩「薩長土肥」(さっちょうどひ)のひとつに名を連ねていた佐賀藩でしたが、江戸時代を通じて、意外にも財政難に苦しんでおり、佐賀藩が雄藩として名を轟かせることになったのも、この財政難が理由だと言われています。

佐賀藩が困窮した理由

佐賀藩は、35万7,000石の大封(たいほう:広大な領地)ですが、藩の収入源となる実質の知行高は、6万石程度だったと伝えられています。これは、佐賀藩の成り立ちの際に、鍋島家が龍造寺家の家督を奪った形になったため、遺された龍造寺一族の所領に手を出せなかったことがその理由です。

また佐賀藩は、江戸時代に唯一開国していた長崎からほど近かったため、「福岡藩」(現在の福岡県福岡市)と交代で長崎の警護を任ぜられ、その負担が大きくのしかかっていました。そのなかで、1828年(文政11年)のシーボルト台風に襲われた佐賀は、もともと苦しかった財政がついに破綻寸前となってしまいます。

名君・鍋島直正の登場

鍋島直正

鍋島直正

そこで立ちあがったのが、佐賀藩10代藩主「鍋島直正」(なべしまなおまさ)です。

幕末から明治時代にかけて活躍した「佐賀の七賢人」(さがのしちけんじん)のひとりで、稀代の名君と称された鍋島直正は、抜本的な藩政改革に着手。

長崎にしばしば訪れていたため、西洋化こそが藩政立て直しの肝であると確信し、早くから軍備に西洋技術を導入して蘭学を奨励します。様々な人材を登用、陶磁器などの輸出を行ない、藩政を立て直しました。

幕末きっての「開明派」(かいめいは:開けた知識により、文化を発展させる思想)として知られる「島津斉彬」(しまづなりあきら)が、1852年(嘉永5年)、鉄製大砲製造のための反射炉建造に着手する際、技術者を激励したという言葉が遺されています。

「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も同じく人なり。退屈せず、倍々研究すべし」

これは、「西洋人も佐賀人も同じ人である。彼らと同じ人である薩摩人にできないことはない」という意味で、「佐賀人」を「西洋人」と並べて例えています。

佐賀藩はすでに、のちの戦争を見越して反射炉を建設済みでした。佐賀藩は、開明派のなかでも先を行っていたことが窺え、先見の明があった島津斉彬からも一目置かれていた存在だったのです。

このような佐賀藩の名声が全国に伝わり、倒幕派ではなかったのにもかかわらず、佐賀藩は、軍事に明るいという理由で「薩摩藩」(現在の鹿児島県鹿児島市)や「長州藩」(現在の山口県萩市)、「土佐藩」(現在の高知県高知市)と共に、倒幕運動の雄藩として薩長土肥に名を連ねることとなりました。

もしも佐賀藩の財政が困窮していなければ、鍋島直正はここまで急激な藩政改革を行なう必要はなく、西洋化が早くに実現しなかったかもしれません。開明派の佐賀藩は、そういった意味で財政難によって生まれたとも言えるのです。

「刀 銘 肥前国住陸奥守忠吉」の詳細情報

肥前国住陸奥守忠吉」を作刀した「陸奥守忠吉」(むつのかみただよし)は、江戸時代初期に活躍した肥前国の名工です。同じく名工と評される祖父の「初代忠吉」と共に、「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)に名を連ねていました。

陸奥守忠吉の作刀において現存する作品は非常に少なく、刀剣愛好家から垂涎の的(すいぜんのまと)とされています。

それは陸奥守忠吉が、父「近江大掾忠広」(おうみのだいじょうただひろ)の代作代銘を行ない、また、80歳の天寿を全うした父に先立って、50歳の若さで没したことにより、作刀期間自体が短かったことが、その理由のひとつです。このようなことから、本刀のような陸奥守忠吉による在銘の現存作は、極めて貴重な1振だと言えます。

陸奥守忠吉の作風は、父より祖父の初代忠吉に近く、直刃(すぐは)を得意としているだけでなく、華やかな丁子乱(ちょうじみだれ)の刃文にも非凡な才能を見せており、初代忠吉に匹敵する見事な技量の持ち主でもありました。

陸奥守忠吉が作刀していた時代は、江戸では「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)、大坂では「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ)や「井上真改/真改国貞」(いのうえしんかい/しんかいくにさだ)が活躍していた、言わば江戸時代における刀剣の黄金期。陸奥守忠吉は、彼らに並び称される名工だったのです。

本刀は、長寸で身幅が広め、反りも深い豪壮な姿になっています。さらには、(におい)の深い中直刃で匂口(においぐち)が冴える、陸奥守忠吉による作刀のなかでも傑作と評される名刀。詳しい経緯は定かではありませんが、藩政時代の鍋島家に伝来した1振です。

刀 銘 肥前国住陸奥守忠吉
刀 銘 肥前国住陸奥守忠吉
肥前国住
陸奥守忠吉
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
76.35
所蔵・伝来
鍋島家 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

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