歴女のためのお城見学ポイント

櫓・門

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城郭防衛の要となっていた「櫓」(やぐら)や「門」には、先人達の知恵と工夫が詰まっています。櫓と門は切っても切り離せない関係にあり、城の正面玄関となる「大手門」(おおてもん)は、格式と防御力の高さが重要視されていました。江戸時代の城郭には、両脇に石垣を伴い、上層が櫓となった強固な「櫓門」が多く採用されていたことから、その重要性が分かるとのこと。
ここでは、櫓や門が生まれた経緯や、その名称と種類をご紹介します。歴女ならではのこだわりの視点で、個性豊かな櫓・門の隠れた面白さを見付けてみましょう。

櫓とは

城好きな歴女の方なら、「櫓」(やぐら)の発祥にも興味があるのではないでしょうか。

古代より存在した櫓は、主に見張り台として使われ、「曲輪」(くるわ:石垣や堀などで囲まれた城の1区画)の隅や門の周辺などに多く建てられました。

中世までの書物には、射撃をするための建物である「矢倉」、または「矢蔵」と表記されており、「矢を収納しておく倉」や、「矢の座」(やのざ:矢を射るための高い場所)を語源と考える説が有力です。

櫓の種類

平櫓

松江城 天守と付櫓

松江城 天守と付櫓

櫓には「平櫓」(ひらやぐら)、「二重櫓」(にじゅうやぐら)、「三重櫓」(さんじゅうやぐら)があります。家であれば、平屋建、2階建、3階建のイメージです。

一重の平櫓では高さがないため、櫓本来の監視の役割では使えませんが、城壁のない場所において、天守や別の櫓に繋げる壁の代わりとして建てられました。

平櫓の例として、「松江城」(島根県)のように、天守に接続した櫓は「付櫓」(つけやぐら)と言い、「江戸城」(東京都)の「伏見櫓」で見られるように、他の櫓や城門に接続した形式を「続櫓」(つづきやぐら)と言います。

この平櫓が、壁のように長くなったのが「多門櫓」(たもんやぐら:多聞櫓とも書く)です。大和国(現在の奈良県)の戦国大名松永久秀(まつながひさひで)が居城としていた「多聞城」に長屋形式の櫓を建てたことから、その名が付けられたと言われています。

多門櫓は、本丸のまわりや重要な城門に建つ「隅櫓」(すみやぐら)をつなぐ櫓として建てられ、本来土塀である部分を櫓にすることで、戦いのときには兵を配備して防御力を高めるという目的がありました。

多聞櫓にはいくつもの種類があり、続櫓の他にも、天守や隅櫓をつなぐ短い多聞櫓は「渡櫓」(わたりやぐら)、門の上に建てる形式を「櫓門」(やぐらもん)と呼んで区別しています。

二重櫓

名古屋城 東南隅櫓(二重櫓)

名古屋城 東南隅櫓(二重櫓)

近世の城では、土塀越しに敵の様子を窺うにはちょうど良い高さとなるため、二重櫓が主流でした。

普段は武器庫としても使われ、戦いのときには本丸の四隅の櫓にのぼって敵を監視し、矢や鉄砲で攻撃。戦いの多かった時代には、石垣に取り付いて迫る敵に対抗するため、矢や鉄砲を放つための窓や石落としなどを付けた櫓もありました。

これらの櫓にも、天守と同様に、1階または2階の屋根に「入母屋破風」(いりもやはふ)を備えた「望楼型」(ぼうろうがた)と、破風のない「層塔型」(そうとうがた)があり、サイズや形状もバラエティに富み、見た目も様々。

岡山城」(岡山県)西の丸「西手櫓」では、1階と2階が同じ大きさに積みあがっている「重箱櫓」が見られ、「金沢城」(石川県)では菱型をした「菱櫓」が見られます。

他にも、「大阪城」(大阪府)の「乾櫓」(いぬいやぐら)のように、正面からは大きな櫓が建っているように見えますが実はL字型になった櫓や、「名古屋城」(愛知県)の「東南隅櫓」(とうなんすみやぐら)のように、外からは二重に見えても内部は3階建てになっている櫓まで存在するのです。城好きの歴女の皆さんなら、きっとこの奥深い櫓の世界に魅了されることでしょう。

三重櫓

高松城 月見櫓(三重櫓)

高松城 月見櫓(三重櫓)

櫓のなかでも最大で最高格式とされているのは、「御三階」(ごさんがい)とも呼ばれる三重櫓です。三重櫓は、焼失などによって天守のなくなった城において、天守の代用のために建てられました。

なぜ天守の代わりに、天守のような櫓を設けることにしたのでしょうか。それは、1615年(元和元年)に「武家諸法度」によって、天守の新築や建物の修繕などが細かく制約されるようになったからです。各地の大名は、その厳しい規制をかいくぐるために、天守風の大きな櫓を作りました。

この様式は、「弘前城」(青森県)をはじめ、「江戸城富士見櫓」、徳川時代の「大坂城」、「姫路城」(兵庫県)、「福山城」(広島県)、「高松城」(香川県)、「熊本城」(熊本県)、岡山城などで見られます。

櫓の種類

櫓の種類

櫓の名前

明石城 巽櫓

明石城 巽櫓

全国に現存している櫓は約100棟。大きな城であればひとつの城につき60~80棟もの櫓があったとのことですから、そのバラエティの豊富さに納得できます。それでは、これだけ多くの櫓をどのように呼び、区別していたのでしょうか。

曲輪の角を利用して建てられた櫓を「隅櫓」と言いますが、隅櫓には「十干十二支」(じっかんじゅうにし)で表す「二十四方位」にちなんだ名前が付けられました。

例えば、現存する櫓では、弘前城の二の丸「辰巳櫓」(たつみやぐら)、「未申櫓」(ひつじさるやぐら)、「丑寅櫓」(うしとらやぐら)、「明石城」(兵庫県)の「巽櫓」(たつみやぐら)、「坤櫓」(ひつじさるやぐら)など。東西南北の方位(十六方位)で表した、「二条城」(京都府)の東南隅櫓、「西南隅櫓」、名古屋城の西南隅櫓、東南隅櫓、「西北隅櫓」などもあります。

または、「いノ櫓」、「ろノ櫓」や、「一番櫓」、「二番櫓」といった呼び方など、分かりやすく番号をふる場合もありました。

他にも「虎櫓」、「狸櫓」といった動物の名前、「日比谷櫓」、「備中櫓」など地名を付けた櫓もあり、「伏見城」(京都府)から移築されたと言われる江戸城の伏見櫓のように起源を名前にする場合もあります。櫓は倉庫としても使われていましたが、「鉄砲櫓」、「煙硝櫓」(えんしょうやぐら)、「具足櫓」(ぐそくやぐら)、「塩櫓」(しおやぐら)、「干飯櫓」(ほしいやぐら)など、貯蔵した物の名前が付くこともあったのです。

特別な呼び方をする櫓としては、太鼓や鐘を撞き時刻を知らせた「太鼓櫓」(鐘櫓)、参陣する兵を大将が見る「着到櫓」(ちゃくとうやぐら)、海を監視するための「潮見櫓」、籠城するときに兵のための台所となる「台所櫓」、風流人の城主が季節を愛でるために設けた「月見櫓」、「涼櫓」(すずみやぐら)など、挙げれば切りがありません。

さらには、織田信長が「千貫の褒美を与えてでも攻め落としたい」と望んだことから名付けられたと言われる大阪城の「千貫櫓」(せんがんやぐら)など、櫓の名前ひとつを取っても、自由に付けていたことが分かります。

歴女のみなさんなら、特徴的な櫓にどんな名前を付けてみたいと思われるでしょうか。

櫓の起源

吉野ヶ里遺跡 物見櫓

吉野ヶ里遺跡 物見櫓

城があるから櫓が存在するのではありません。櫓の起源は、古代にまでさかのぼります。

縄文時代では、「三内丸山遺跡」(さんないまるやまいせき:青森県)に木の柱を組んで作った巨大な櫓があり、弥生時代にも「吉野ヶ里遺跡」(よしのがりいせき:佐賀県)では、「環濠」(かんごう:周囲に堀をめぐらせること)に突き出た部分に高床式の物見櫓が作られました。

さらに奈良・平安時代の「城柵」(じょうさく:東北地方に設けられた砦)である「多賀城」(宮城県)にも「掘立柱」(ほりたてばしら)の櫓跡が発掘されています。周囲を警戒するための建物だと考えられていますが、木の柱を組み上げただけの単純な構造ながら、古い時代から存在すると言うことは、それだけ櫓が人々の暮らしにとって重要であったと考えられるのです。

門とは

城の「門」は、単なる出入口ではありません。攻め寄せる敵を阻む要所であったため、敵が簡単に進めないよう複雑な構造にしたり、攻撃から守るための工夫を凝らしたりしていました。

城門は、「虎口」(こぐち)とも呼ばれます。これはもともと「小さな口」を意味し、「小口」という漢字が当てられていましたが、城の防御のための重要な場所であることから強いイメージのある「虎」の文字が使われるようになりました。

そもそも門は、どういう経緯で作られるようになったのでしょうか。
城は、土塁や石垣の一部分を切り欠いて外との通路を作っていましたが、防御面を強化するため、そこに門を置きました。これが「平入り出入口」(ひらいりでいりぐち)です。これは単純な構造のため、櫓門にした他、近くに櫓を建てるなどして、防御力を強化しました。

政治をつかさどる官庁として利用された二条城は、平入り出入口を採用していますが、これは政治に主眼を置いた建物だからです。シンプルな門にすることで、家臣が出入りしやすく、御殿のスペースを確保することができるというメリットがありました。

敵にすぐさま突入されないよう、平入り出入口の門の前後に、土塁などの障害物を置いた形式が「一文字出入口」です。城の外にいる敵からは城内の様子を見ることができない上、突撃のスピードを緩めることもできます。障害物があれば、大砲や鉄砲を撃ち込まれないよう身を隠しながら攻撃することが可能です。

また、敵との戦いで対面を避けるために生まれたのが「喰い違い出入口」。土塁や石垣を少しずらし、そこに門を置いた形状となっています。敵を横から攻撃することができるため、敵は前にも横にも気を付けて進まなければなりませんでした。

枡形門(外枡形)

枡形門(外枡形)

防御の要である門が、数々の戦いによってさらに進化すると「内枡形」(うちますがた)、「外枡形」(そとますがた)、という形状が誕生。

城内に入る前に「枡形」と呼ばれるエントランススペースを設け、出入口を2つ設置しています。本丸などの曲輪内に作られているのが内枡形、曲輪から飛び出た形状が外枡形です。

戦いの激化によって、門は著しく進化し、敵に対しては最強の防御を目指しながらも、自陣のためには素早く飛び出せる出入口を作るといったように、門を巧みに使った防御システムを確立していきました。

門の構造

門の構造

門の構造

門は、「鏡柱」(かがみはしら)、「冠木」(かぶき)、「控柱」(ひかえはしら)、「扉」(とびら)からできています。

鏡柱を2本立て、その間に冠木を渡せば門になり、これが基本形の「冠木門」(かぶきもん)です。冠木門が城と共に進化していき、鏡柱を安定させるための控柱を設けたり、控柱の上に屋根や櫓をのせたりして、軍事面でも意匠面でも優れた門が築かれてきました。

門の名称も様々です。例えば、姫路城では84門あったと言いますが、15門は「いろは順」に名付けられていました。天守に近付くと「水」の文字が付けられ、どの位置か分かるようになっていたのです。

また、92門あったと言われている江戸城は、「桜田門」、「日比谷門」など城門のある地名を名前にした他、服部半蔵(はっとりはんぞう)の名前の付いた「半蔵門」などもあります。

では、どんな種類の門があるのか見ていきましょう。

門の種類

大手門・搦手門
大手門(大阪城)

大手門(大阪城)

城郭の正面口である門を「大手門/追手門」(おおてもん)と言います。お城の顔となる城門として櫓門が用いられ、防御力と格式をかね備える重要な門でした。

その裏口にあたる搦手口(からめてぐち)の門は、「搦手門」(からめてもん)と言います。この門は、有事の際に城主らがここから城外や外郭へ逃げられるようになっていました。

小型で狭く目立たない出入口でしたが、厳重な警備体制が敷かれており、大手門などに比べ、少人数で警備できるようになっていたのです。

冠木門
冠木門は、門の上に屋根がなく、鏡柱・冠木に開閉する扉を付けたシンプルな形で、古代にはよく見られたタイプ。

戦いの多かった戦国時代や、華美な様式が求められた江戸時代にはこのタイプは見られず、明治時代以降に役所や警察署など公的施設の門として用いられました。

高麗門
高麗門

高麗門

「高麗門」(こうらいもん)は、近世城郭で最も使用されている門。豊臣秀吉の朝鮮出兵の頃から一般化したと言われています。

この門の特徴は、「切妻屋根」(きりづまやね)を持ち、さらに鏡柱と控柱、冠木をそれぞれ小さな屋根で覆っていることです。

全体的に屋根が小さめに設計されており、見通しが利くため防御性に優れています。

薬医門
薬医門(旧水戸城)

薬医門(旧水戸城)

公家や武家屋敷の正門としてよく見られる「薬医門」(やくいもん)は、2本の鏡柱と、2本または4本の控柱を持つ立派な門です。

鏡柱から控柱までを覆うような切妻屋根の端を突き出させているのが特徴。

扉をなくして医家の門としても使われたことから、この名前が付きました。

櫓門
中央に両開きの大きな扉を設けた櫓門(やぐらもん)は、門の上に長屋状の建物(多聞櫓・渡櫓)を設けた形式です。重要な場所に設置されていました。
唐門
唐門(二条城)

唐門(二条城)

「唐門」(からもん)は、弓を横にしたような形の屋根「唐破風」(からはふ)を持つ門。

唐門は誰でも使える門ではなく、江戸時代は「御目見え」(おめみえ:江戸時代の武士の格式、幕府では将軍に謁見できる武士)以上の幕臣や大名だけが使うことができたとのことです。

長屋門
「長屋門」(ながやもん)は、上級武家や農村の庄屋屋敷に見られた門の形式。門の両側が長屋となっており、そこに家臣や下男を住まわせていました。

その後、長屋門は苗字帯刀を許された豪農や庄屋でも建てられています。

埋門
「埋門」(うずみもん)は、石垣の下部をくり抜くようにして造られた門で、城の非常口や裏口として用いられました。これは防御性より実用性を優先した形式です。

また、鬼門(きもん)に蓋をするために築かれた「不開門」(あかずのもん)もありました。

これらの目立たない門もまた、歴女のマニア心をくすぐるのではないでしょうか。

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