名家に代々伝えられた日本刀

柳河藩主・立花家と無銘の名刀 国宗

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「立花宗茂」(たちばなむねしげ)は、筑後国柳河藩(ちくごのくにやながわはん:現在の福岡県柳川市)の藩主を務めた戦国武将。文武に秀で「武士の中の武士」として当時から高い評価を得ていました。しかし、「関ヶ原の戦い」で西軍に与したことで改易処分を受け、一時は放浪の身となってしまいます。そののち、徳川家家臣「本多忠勝」などの協力を得て、再び大名へと返り咲きました。柳河藩主・立花家と無銘の名刀 国宗では、立花宗茂の経歴と共に立花家に伝来した無銘の名刀「国宗」(くにむね)をご紹介します。

柳河藩主・立花家とは

柳河藩初代藩主「立花宗茂」

立花宗茂

立花宗茂

立花宗茂」(たちばなむねしげ)は、1567年(永禄10年)に豊後国(ぶんごのくに:現在の大分県)のキリシタン大名として知られる「大友宗麟」(おおともそうりん)の家臣「高橋紹運」(たかはしじょううん)の長男として誕生。

幼少時から聡明で腕が立ったと言われており、1581年(天正9年)7月に臨んだ初陣では、敵将の首級を挙げる戦功を立てています。

そして、その噂を聞いて立花宗茂を養子にしたいと考えた人物がいました。それが「戸次鑑連」(べっきあきつら)のちの「立花道雪」(たちばなどうせつ)です。

当時、立花道雪は男児に恵まれなかったため、娘の「立花誾千代」(たちばなぎんちよ)に家督を相続していました。そのため、立花宗茂を婿として迎えることで立花家の家督を継がせようと考えたのです。高橋紹運は、何度断っても引き下がらない立花道雪の押しに負けて、立花宗茂を婿養子として立花家へ出しました。

そののち、立花宗茂は数々の武功を挙げ、「豊臣秀吉」の家臣として「九州平定」に参戦。「竹迫城」(たかばじょう:現在の熊本県合志市上庄)や「宇土城」(うとじょう:現在の熊本県宇土市)、「出水城」(いずみじょう:現在の鹿児島県出水市)を攻め落とす活躍を見せ、豊臣秀吉から筑後国柳河藩(ちくごのくにやながわはん:現在の福岡県柳川市)13万2,000石を与えられて、大友氏の家臣から独立した直臣大名へと登り詰めます。

立花宗茂はそのあとも、豊臣秀吉の家臣として多くの戦で活躍をして名を挙げますが、豊臣秀吉が没すると事態は急変。

1600年(慶長5年)立花宗茂は、「関ヶ原の戦い」の直前に「徳川家康」から「豊臣家を離れるならば、莫大な恩賞を与える」と東軍へ寝返るように誘われます。しかし、立花宗茂はこれを拒否し、豊臣家への忠義を誓って西軍に就きました。

関ヶ原の戦いの前哨戦と言われる「大津城の戦い」では、東軍の「京極高次」(きょうごくたかつぐ)が守る「大津城」(おおつじょう:現在の滋賀県大津市)へ攻め入るなどの活躍を見せ、最後まで豊臣家家臣として抗戦を続けます。

しかし、そのあとに行なわれた本戦で西軍の敗北を知ると、西軍総大将「毛利輝元」が籠城する「大坂城」(現在の大阪城)へ後退。立花宗茂は、毛利輝元に徹底抗戦を進言しますが、この時点で毛利輝元は戦意を喪失していたため、自領の柳川へと引き揚げます。

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再び大名へ返り咲く

本多忠勝

本多忠勝

関ヶ原の戦いのあと、立花宗茂は改易(かいえき:所領や屋敷を没収され、士分をはく奪されること)の処分を受けました。

その器量を惜しんだ武将は多く、徳川四天王として名を馳せた「本多忠勝」もそのひとりです。

本多忠勝は、放浪の身となっていた立花宗茂を江戸へ迎え入れ、徳川家康に家臣として召し抱えるよう進言します。

徳川家康は、立花宗茂の優秀さを知っていたため、「御書院番頭」(ごしょいんばんがしら:将軍の親衛隊長)に任じました。

そののち、徳川家康の嫡男で2代将軍「徳川秀忠」の「御伽衆」(おとぎしゅう:主君の側に仕える家臣)に列せられて陸奥国棚倉(むつのくにたなぐら:現在の福島県東白川郡棚倉町)を与えられ、大名として復帰を果たします。

1615年(慶長20年)立花宗茂は、「大坂夏の陣」で軍師として活躍したことが認められて、旧領の柳河藩主に着任。関ヶ原の戦いで西軍に与して改易された武将で、旧領を回復したのは立花宗茂のみと言われており、以後、柳河藩は立花家が代々治めることになります。

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柳河藩主・立花家のその後

立花宗茂は、実子に恵まれなかったため2代藩主には養子の「立花忠茂」(たちばなただしげ)が任じられました。そして、柳河藩の歴代藩主は立花忠茂をはじめ、藩政改革や文教の充実などに尽力。柳川の発展に大きく寄与しました。

松濤園

松濤園

幕末時代には新政府軍に与して活躍し、その功績が認められたことで明治政府から賞典禄(しょうてんろく:明治維新の功労者へ与えられる禄)として5,000石を下賜されます。

そののち「版籍奉還」で華族に列され、「伯爵」の爵位を与えられました。

柳川には、現在でも柳河藩5代藩主「立花貞俶」(たちばなさだよし)が建てた立花家別邸が現存しており、別邸の中心に位置する7,000坪の広大な庭園「松濤園」(しょうとうえん)を含めて、敷地全体が国指定の名勝に指定されています。

刀 無銘 伝国宗

「刀 無銘 伝国宗」は、鎌倉時代中期に備前国(現在の岡山県東部)で活躍した「備前三郎」(びぜんさぶろう)の通称で知られる刀工国宗」(くにむね)が制作した刀剣

本刀は、立花家に伝来した大磨上げ(おおすりあげ)の打刀です。大磨上げとは、太刀の「」(なかご:刀身のなかでも[つか]に納める部分)を、刃の部位まで短く切り詰めて茎に作り替えられた刀剣のこと。なお、大磨上げの刀剣は、制作者や制作年代を示す「」が失われてしまうため、本刀も無銘となっています。

制作者である国宗は、「後鳥羽上皇」または鎌倉幕府5代執権「北条時頼」(ほうじょうときより)に召されて上京し、鎌倉で相州鍛冶の基礎を築いた刀工です。国宗の作の特徴は「備前三郎の白染み」と呼ばれる染みが刃中に現れる点。また、国宗はその切れ味の良さから「大業物」に列せられました。

刀 無銘 伝国宗
刀 無銘 伝国宗
無銘
鑑定区分
重要美術品
刃長
71.2
所蔵・伝来
柳河藩立花家 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

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  • 皇室・公家に関連する刀剣の歴史「後鳥羽上皇の生涯」をご紹介します。

柳河藩主・立花家と無銘の名刀 国宗

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