刀剣女子に人気の刀剣

吉光の刀剣

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刀剣に造詣が深く、それ以上に愛情も深い刀剣女子のみなさんなら、「吉光」(よしみつ)の作品を見逃すことはないでしょう。鎌倉時代中期に、京都の粟田口(あわたぐち)を拠点とした吉光は、通称を「藤四郎」(とうしろう)と称し、特に短刀作りにおいて存分に才能を発揮しました。その名は広く天下に知れ渡り、安土桃山時代には、稀代の刀剣コレクターである「豊臣秀吉」から、相州(現在の神奈川県)の「正宗」、越中(現在の富山県)の「郷義弘」(ごうのよしひろ:「江義弘」とも)と並び、「天下の三名工」と称賛されたほどです。
吉光の刀剣では、現存する吉光の名刀5振をピックアップしてご紹介。刀剣女子を惹き付けてやまない魅力に迫ります。

「小牧・長久手の戦い」を引き起こした脇差「鯰尾藤四郎」

「鯰尾藤四郎」(なまずおとうしろう)というユニークな号のいわれはよく知られており、これは鋒/切先(きっさき)から刃に向かって曲線を描いている部分の「ふくら」が、ふっくらと丸く、ナマズの尾に似ていることから名付けられました。

なお、ふくらの曲線が丸みを帯びていれば「ふくら付く」と言い、直線的ならば「ふくら枯れる」と言います。この鯰尾藤四郎は、もともと「小薙刀」(こなぎなた)と呼ばれる長柄武器を短く作り直した「薙刀直し」の脇差です。

薙刀などの長柄武器は、離れた位置から敵を攻撃できたり、一度に何人もの敵を薙ぎ払ったりできるため、戦場では最強武器の名を欲しいままにしていました。

ところが、戦国時代に戦の規模が大きくなり、集団での戦いが多くなると、最強であるがゆえに味方をも傷付ける恐れのある長柄武器は廃れ、代わりに長柄武器の(なかご)を磨上げるなどして作り直した脇差短刀が戦で用いられるようになったのです。

豊臣秀吉

豊臣秀吉

そんな戦国時代に、鯰尾藤四郎が「小牧・長久手の戦い」のきっかけを作ったとの伝承があります。「織田信長」亡きあとの1584年(天正12年)、織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)は、「徳川家康」と同盟を結ぶ一方、豊臣秀吉と通じた3人の家老を裏切り者であるとして断罪。

このとき、処刑するよう命じられた家臣の「土方勝久」(ひじかたかつひさ)が使ったのが鯰尾藤四郎であるとされているのです。3人を手討ちにしたことに対して、豊臣秀吉は激怒し、出兵を決意。

豊臣秀吉陣営と織田信勝・徳川家康陣営が全国規模で激突した小牧・長久手の戦いへと繋がっていきました。

その後、土方勝久は豊臣家へ仕官。鯰尾藤四郎も豊臣秀吉のもとへ渡り、のちに「豊臣秀頼」(とよとみひでより)の所有となります。しかし、このことが災いし、鯰尾藤四郎は1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」にて、「大坂城」(現在の大阪城)が焼け落ちた際に、一緒に焼かれてしまったのです。

吉光

吉光

吉光の名刀が失われるのを良しとしなかった徳川家康は、大坂城の焼け跡から発見された焼身(やけみ)の鯰尾藤四郎を、初代「越前康継」に命じて焼き直しさせました。

徳川家康の死後、鯰尾藤四郎は形見分けによって尾張藩初代藩主「徳川義直」(とくがわよしなお)が受け継ぎ、明治維新以降も尾張徳川家に伝来。現在は愛知県名古屋市の「徳川美術館」に所蔵されています。

脇差 銘 吉光(号 鯰尾藤四郎)

脇差 銘 吉光(号 鯰尾藤四郎)

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
吉光 鎌倉時代中期 織田信雄→
豊臣秀頼→
徳川家康→
尾張徳川家→
徳川美術館
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「厚藤四郎」の特色は強固な厚さにあり

「厚藤四郎」(あつとうしろう)は、「鎧通し」(よろいどおし)として作られた短刀です。

「鎧通し」とは、短刀の一種で、戦場で取っ組み合いになったとき、敵の甲冑の隙間から突き刺すことを目的としています。厚藤四郎はその名に違わず、刃長が21.8cmと小振りなのに対して、元重ね(もとかさね:刀身の柄に近い部分の厚さ)が1.1cmと厚く、刀身が真っすぐです。

一般的な刀剣の重ねが0.6cmほどであることを考えると、驚くほど厚く強固であると言えます。

厚藤四郎は名短刀としても名高く、そうそうたる名将の間に伝わりました。

足利将軍家の所有であった厚藤四郎は、「六角征伐」とも称される「長享・延徳の乱」(ちょうきょう・えんとくのらん)で室町幕府9代将軍「足利義尚」(あしかがよしひさ)が佩刀したと言われています。

そのあと、鎌倉幕府が滅亡すると足利将軍家から流出。堺(現在の大阪府堺市)の商人が所持していたところを、刀剣鑑定家の「本阿弥光徳」(ほんあみこうとく)が100貫(現代の貨幣価値でおよそ1,500万円。※諸説あり)で買い取り、豊臣秀吉の家臣「一柳直末」(ひとつやなぎなおすえ)に譲りました。

黒田官兵衛

黒田官兵衛

一柳直末は、豊臣秀吉から厚い信頼を寄せられた武将でしたが、「小田原征伐」に参戦すると敵の銃弾を受けて戦死してしまいます。

一柳直末の死後、残された妻子は義兄弟である「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)に引き取られ、その際に厚藤四郎も遺品のひとつとして黒田官兵衛の手に渡りました。黒田官兵衛は厚藤四郎を、豊臣秀吉の甥で関白である「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)へ献上。

しかし豊臣秀次は、豊臣秀吉に謀反を疑われて自害へと追い込まれたため、厚藤四郎は豊臣秀吉に没収されたと考えられています。

豊臣秀吉が没したとき、厚藤四郎は「毛利秀元」(もうりひでもと)が形見として拝領。毛利家に伝来しますが、江戸幕府4代将軍「徳川家綱」に所望されたため献上されます。徳川家綱は喜び、返礼として黄金1,000枚を下賜したと言うことです。

どんな大金にも代えがたいと武将達に認められた厚藤四郎は、1956年(昭和31年)6月28日に国宝に指定され、現在は「東京国立博物館」(東京都台東区)が所有しています。

短刀 銘 吉光(号 厚藤四郎)

短刀 銘 吉光(号 厚藤四郎)

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
吉光 鎌倉時代中期 国宝 足利義尚→
一柳直末→
黒田官兵衛→
豊臣秀次
毛利秀元→
徳川家綱→
東京国立博物館
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失敗作? だからこそ貴重な「後藤藤四郎」

「後藤藤四郎」(ごとうとうしろう)という号は、金座(きんざ)の頭役であった後藤家の初代「後藤庄三郎光次」(ごとうしょうざぶろうみつつぐ)が所持していたことから名付けられました。

「金座」とは、江戸時代に大判小判の鋳造を担った施設、または組織を指し、金工の後藤庄三郎光次が徳川家康に貨幣の鋳造を命じられたことが始まりです。

徳川美術館

徳川美術館

後藤藤四郎は、後藤庄三郎光次から、江戸時代初期に老中として権勢を誇った「土井利勝」(どいとしかつ)に贈られ、さらに土井利勝から徳川幕府3代将軍「徳川家光」に献上されます。

そして、徳川家光の長女「千代姫」(ちよひめ)が、のちの尾張徳川家2代藩主「徳川光義」(とくがわみつよし)のもとへ輿入れする際に引き出物として贈られました。以降、尾張徳川家に伝来し、1953年(昭和28年)3月20日には国宝に指定。

現在は「公益財団法人徳川黎明会」が所有し、徳川美術館が保管しています。

本短刀後藤藤四郎の最も特徴的な点は、吉光の作品としては珍しい乱刃(みだれば:真っすぐではない刃文)であること、そして刃先が焼き崩れ(刃文の一部が崩れてはっきりしていない状態)気味であることです。

焼き崩れに関しては、刀剣鑑定家の本阿弥家10代当主「本阿弥光室」(ほんあみこうしつ)が低く評価したと、江戸時代の名刀リスト「享保名物帳」にも記されました。しかしこのとき、先代の本阿弥光徳は逆に後藤藤四郎を絶賛。大判300枚分の折紙を付けたとも書かれています。

吉光自身も刃先の焼き入れが失敗だったことは分かっていたものの、新しい作刀への挑戦の証しとして残したかったのではないかと推察され、その証拠に完成品として銘を切ったと考えられるのです。こうした吉光の想いを一見して読み取ったからこそ、本阿弥光徳は高い評価を与えたのだと言われています。

短刀 銘 吉光(号 後藤藤四郎)

短刀 銘 吉光(号 後藤藤四郎)

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
吉光 鎌倉時代中期 国宝 後藤庄三郎光次→
土井利勝→
徳川家光→
尾張徳川家→
徳川美術館(保管)

徳川家光を含む、江戸幕府を治めた徳川家15人の将軍についてご紹介します。

「博多藤四郎」に象徴された武士の誇り

小笠原忠真

小笠原忠真

「博多藤四郎」(はかたとうしろう)は、「関ヶ原の戦い」での軍功により筑前(現在の福岡県西部)福岡藩主となった黒田家が所有していました。

のちに、福岡藩2代藩主「黒田忠之」(くろだただゆき)が、小倉の海上(九州北東部沖)にて豊前(現在の福岡県北九州市小倉藩主の「小笠原忠真」(おがさわらただざね)に本短刀を贈ったとされることから、博多藤四郎の号が生まれたと伝えられています。

博多藤四郎が贈られた理由は明確にはされていませんが、黒田忠之の嫡男「黒田光之」(くろだみつゆき)と、小笠原忠真の長女「市松姫」(いちまつひめ)との婚姻に際し、両家の間で本短刀をはじめとする名品のやり取りがあったのではないかとのことです。

小笠原忠真と言えば、剣豪「宮本武蔵」(みやもとむさし)や、その養子の「宮本伊織」(みやもといおり)が仕えた大名として知られています。

そんな小笠原忠真は、贈られた博多藤四郎を惜しげもなく陣刀(じんとう:戦場で用いる刀剣)として佩用しました。同じく貴重な郷義弘作の名刀も陣刀としていたのです。

これを聞き付けた刀剣鑑定家の本阿弥光室は、「郷義弘は7,000貫、藤四郎は5,000貫の価値がある名刀。陣刀になさるとはもったいない」と告げます。計算方法には諸説ありますが、現代の貨幣価値にすると、7,000貫は約10億5,000万円、5,000貫は約7億5,000万円です。

これに対して小笠原忠真は、「父も兄も大坂夏の陣で討死している。武士は最後が肝心。どんな名刀であっても陣刀にして、末期に備える」ときっぱり答えました。
江戸幕府の成立により、乱世が終焉を迎えてもなお変わることのなかった武士の誇りが垣間見える逸話です。

その後も博多藤四郎は小笠原家の重宝として伝来。1931年(昭和6年)12月14日、旧国宝に指定。現在は重要文化財に指定され、文化庁の所有となっています。

短刀 銘 吉光(号 博多藤四郎)

短刀 銘 吉光(号 博多藤四郎)

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
吉光 鎌倉時代中期 重要文化財 黒田家→
小笠原忠真→
小笠原家→
東京国立博物館(保管)
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短刀の名手・吉光が残した最高峰の太刀「一期一振」

筋金入りの刀剣コレクターである豊臣秀吉が、最も愛した刀剣が「一期一振」(いちごひとふり)であると言われています。

一期一振と言う号は、短刀作りを得意とした吉光が、唯一作った太刀(たち)とされているため、戦国大名であり歌人でもある「細川幽斎」(ほそかわゆうさい)が名付けました。

豊臣秀吉が手にする前の来歴については、越前(現在の福井県北東部)の朝倉家伝来説、堺で購入したという説、毛利家から献上されたとする説の3つがあり、はっきりと分かってはいません。また一期一振は、もともと2尺8寸3分(約85.7cm)だった刃長が、2尺2寸7分(約68.8cm)へと磨上げされています。

これについても諸説あり、豊臣秀吉が自分の身長に合うように磨上げを命じたと伝えられる他、大坂夏の陣で大坂城が落城した際、焼身となった一期一振を徳川家康が焼き直しさせたときに磨上げも行なわれたとする説も有力です。

茎に切られた吉光の銘は、消えてしまわないよう短冊状に切り取って、磨上げされた茎にはめ込まれました。

焼けてしまった一期一振をよみがえらせたのは、鯰尾藤四郎の焼き直しも手掛けた名工の越前康継です。よみがえった一期一振は尾張徳川家預かりとなり、幕末に「孝明天皇」(こうめいてんのう)へ献上されました。以降、御物(ぎょぶつ)として歴代の天皇に受け継がれています。

一期一振

太刀 銘 吉光(号 一期一振)

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
吉光 鎌倉時代中期 御物 豊臣秀吉→
尾張徳川家→
孝明天皇→
皇室
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