江戸幕府の将軍家「徳川家」は、「徳川家康」を初代将軍として征夷大将軍を世襲した家系です。徳川家は、8代将軍「徳川吉宗」が刀剣鑑定家「本阿弥家」に命じて編纂させた全国の名刀リスト「享保名物帳」に記載される、「名物」と呼ばれる数々の名刀を所持していたことでも知られており、その中にはオンラインゲーム「刀剣乱舞」によって広く知られるようになった名刀も多数存在。
ここでは、刀剣女子必見の徳川家に伝来した名刀をご紹介します。
徳川家康
1603年(慶長8年)征夷大将軍に就任し、武蔵国江戸(現在の東京都)に江戸幕府を開いたのが初代将軍「徳川家康」です。
徳川将軍家はその後、15代将軍「徳川慶喜」の代まで続き、明治維新後は公爵の爵位を得て「徳川公爵家」になりました。
徳川家は、家臣や諸大名からの献上品を数多く所蔵し、その物品は現在も愛知県名古屋市東区の「徳川美術館」をはじめ、全国の施設や個人が所有しています。
なかでも特に注目を集める美術品といえば、「刀剣乱舞」に登場する多くの名刀。徳川家が所有した名刀には、様々な逸話や伝説が残されており、刀剣に興味を持った刀剣女子が徳川家ゆかりの刀剣をひと目観ようと全国の施設や展覧会へ訪れます。
徳川家の来歴をはじめ、ゆかりの武具などを紹介します。
「脇差 無銘(号 物吉貞宗)」は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した刀工「貞宗」によって制作されたと言われる刀剣です。
「物吉貞宗」と言う名称の由来に関しては諸説ありますが、最も有力なのは「徳川家康に数々の勝ち戦をもたらした」と言う説。
また、物吉貞宗には「差料にするとすべてが思い通りになった」、「物吉し(ものよし)と言われるほどの切れ味の良さを誇った」などの逸話があります。
なお、本刀ほどの名刀は本来なら徳川将軍家に伝来するのが自然ですが、物吉貞宗は代々徳川御三家のひとつである「尾張徳川家」に伝来してきました。尾張徳川家へ渡った理由としては、徳川家康の側室「相応院」(そうおういん)通称「お亀の方」が関係しています。
お亀の方は、尾張藩初代藩主「徳川義直」(とくがわよしなお)の母であり、子の徳川義直と共に名古屋城で暮らしていました。
そして、物吉貞宗が徳川家康に勝ち戦をもたらすのを間近で見ていたため、徳川家康が没した後の遺品分与で本刀を譲ってもらえるように奔走したと言われています。尾張徳川家へ伝来して以降は、同家の家宝として代々藩主に受け継がれました。
「太刀 銘 妙純傳持ソハヤノツルキ ウツスナリ」は、鎌倉時代に筑後国(現在の福岡県南西部)で活躍した刀工「三池典太光世」が制作したと言われる刀剣です。
本刀は、1584年(天正12年)頃に「織田信長」の2男である「織田信雄」(おだのぶかつ)から徳川家康へ贈られた刀剣であり、徳川家康が最も大事にした1振として知られています。
合戦で使用するだけではなく、常に所有したり、夜は枕刀(まくらがたな:魔除けや護身のために刀剣を枕元に置くこと)として用いたりなど、その溺愛ぶりは刀剣女子の間でも有名です。
そして、本刀が持つ逸話で特に刀剣女子に知られるのは、徳川家康の遺言「西国の大名が謀反することのないように、本刀の鋒/切先(きっさき)を西へ向けて久能山東照宮へ安置するように」。本刀の力かは定かではありませんが、江戸時代が265年続いたことや、徳川家が明治維新後も家系が絶えることなく現代まで続いていることなどは周知の事実です。
本刀の制作者と推測される三池典太光世の刀剣には、魔を払う力が宿っていたと言われており、なかでも「天下五剣」のひとつである「大典太光世」は、刀剣女子の間でも高い人気を集めています。
「太刀 銘 光世作」(名物 大典太)は、号を「大典太光世」と言い、鎌倉時代に筑後国で活躍した刀工三池典太光世が制作した刀剣です。
本刀は、病人の枕元に置くことで病気を治癒する力が宿っていると言われる太刀で、この逸話には主に2つの伝承が存在します。
ひとつは、「前田利家」の4女「豪姫」(「宇喜多秀家」の正室で、「豊臣秀吉」の養女)の病気を治したと言う逸話。もうひとつは、前田利家の4男「前田利常」が、自身の正室「珠姫」の病気を治すために「徳川秀忠」から本刀を借りて枕元へ置いた逸話。本刀を珠姫の枕元に置いたところ、見る間に平癒したため徳川秀忠へ太刀を返却しますが、太刀が離れた途端に珠姫の病気が再発します。
再び太刀を借りて枕元へ置いたところ、症状が治ったので改めて徳川秀忠に返却するのですが、また症状が悪化。再び太刀を借りに来た前田利常は、徳川秀忠から「もう返さなくて良い」と言われ、そのまま本刀を拝領したと言う逸話は有名です。
制作者の三池典太光世は、切れ味が鋭い刀剣を多く制作したことで知られており、複数の文献にもその旨が記載されています。
「太刀 銘 包永(金象嵌)本多平八郎忠為所持之」は、鎌倉時代中期に大和国で活躍した刀工「包永」が制作した刀剣です。
本刀は、「本多忠勝」の孫「本多忠刻」(ほんだただとき)の愛刀で、のちに本多忠刻の正室「千姫」(せんひめ:徳川家康の孫で3代将軍「徳川家光」の姉)が形見として将軍家へ持ち帰ったことで蔵刀となりました。
そのあと、5代将軍「徳川綱吉」の側用人を務めていた「松平忠周」(まつだいらただちか)が拝領し、以後、信濃国(現在の長野県)上田藩主「藤井松平家」の家宝として大切にされたと言います。制作者の包永は、「手搔派」(てがいは)の祖として知られる刀工です。
手搔派は、大和国で発展した数ある刀工一派の中で最も栄え、室町時代にはその刀工数が最多だったと言われています。