歴史ファンからの絶大な人気を誇る戦国武将のひとり「上杉謙信」。越後国(現在の新潟県)を治める大名であり、戦上手であることから、「軍神」とも呼ばれました。
甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名「武田信玄」とのライバル関係はあまりにも有名。武田信玄が「甲斐の虎」の異名を取る一方、上杉謙信は「越後の龍」と称えられています。
戦上手な上杉謙信は愛刀家としても知られており、その日本刀を愛する気持ちは、後継者である養子の「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)にも受け継がれ、上杉家には名だたる名刀が集められたのです。
そんな名刀の中から、とりわけ刀剣女子に人気の高い作品を厳選して取り上げました。さらに、「刀剣ワールド財団」が所蔵する上杉家伝来の刀剣もご紹介します。
上杉謙信
室町幕府3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)の時代のこと。
足利義満から明(みん:中国歴代王朝のひとつ)へ遣わされた使節団のひとりが、荒野を歩いているとき、突然虎に襲われました。
短刀を抜いて無我夢中で振るったところ、刀身の鋭い光を嫌ったのか、虎は退散していったのです。帰国後にさっそくこの出来事を報告。ところが、「5頭の虎に襲われたが無事でした」と少々話を盛ってしまいます。
報告を聞いた足利義満は、5頭の虎を追い払ったという短刀に「五虎退」(ごこたい)と名付けました。そのあと、足利義満は五虎退を朝廷へ献上。
1559年(永禄2年)4月には、上洛した上杉謙信が「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)よりこの短刀を賜ります。上杉家の所蔵となった五虎退は、のちに上杉景勝が選んだ名刀のリスト「上杉家御手選三十五腰」(うえすぎけおてえらびさんじゅうごよう)所載の1振となりました。
五虎退は現代まで上杉家に受け継がれ、山形県米沢市にある「米沢市上杉博物館」に寄託されています。
五虎退の制作者は、鎌倉時代中期に京都で活動した刀工「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)。「粟田口派」を代表する存在であり、相州(現在の神奈川県)鎌倉の「正宗」と並び称される名工で、特に短刀作りを得意としました。
五虎退は、刃長が25.1cm、平造りで反りはなく、刀身の表裏峰/棟(みね/むね)寄りに「護摩箸」(ごまばし)が彫られています。護摩箸とは、「不動明王」(ふどうみょうおう)の化身であり、守護の意味がある意匠です。乱世を駆け抜けた上杉謙信にふさわしい意匠と言えるでしょう。
「謙信景光」(けんしんがけみつ)は、鎌倉時代末期に備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市)を拠点とした刀工の流派「長船派」(おさふねは)の名工「景光」作の短刀です。
刀身に「秩父大菩薩」(ちちぶだいぼさつ)の文字が施されていることから、もともとは武蔵国(現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部)の「秩父神社」(埼玉県秩父市)に奉納された1振と考えられています。
そのあと、戦国時代の混乱により秩父神社から失われ、詳しい経緯は不明であるものの、上杉謙信の所有となりました。
「謙信景光」という号は、上杉謙信が「一文字」極めの刀剣(重要美術品)と共に、常に携えていたことから名付けられています。景光一門が生み出した刃文「片落ち互の目」(かたおちぐのめ)が美しく表された傑作刀であり、上杉景勝が選んだ「上杉家御手選三十五腰」にも記されました。1956年(昭和31年)6月28日には国宝に指定。現在は「埼玉県立歴史と民族の博物館」(埼玉県さいたま市)に所蔵されています。
制作者の景光は、備前国長船派の開祖と言われる「長船光忠」(おさふねみつただ)の孫にあたり、父の「長光」(ながみつ)が創作した刃文の片落ち互の目を、より洗練された姿へと完成させた才人として有名です。
片落ち互の目とは、半円状が連なる刃文「互の目」の一種で、半円の片側が急斜面になった形状。本短刀は、片落ち互の目を主体として小乱れが交じり、独特の冴えた雰囲気を醸し出しています。
名刀からは連想しにくい号を持つ太刀「小豆長光」(あずきながみつ)ですが、それには名刀にふさわしい由来があるのです。
もともとの持ち主であった越後の百姓が本太刀を腰に吊るし、小豆を袋に入れて担いでいたところ、袋の破れ目から小豆がこぼれ、鞘(さや)の割れ目から覗いていた刃先に当たりました。
その瞬間、小豆は真っ二つになったと言われています。その一部始終を見ていた上杉謙信の家臣は、この太刀は名刀に違いないと思い、さっそく買い上げることにしました。家臣から上杉謙信に献上された本太刀は、茎(なかご)に「長光」の銘があることから、小豆長光と名付けられたのです。ただし、号の由来については諸説あり、定説はないとされています。
上杉謙信は、「川中島の戦い」の際にも小豆長光を携えていました。なかでも有名な、騎馬で武田信玄陣営に乗り込んだ上杉謙信が、馬上から斬り付け、それを武田信玄が軍配団扇(ぐんばいうちわ)で受け止めたとされる一騎打ちの逸話において、上杉謙信が振るったのが、この小豆長光だったと伝えられています。
小豆長光を作った刀工は、鎌倉時代後期に活躍した備前国長船派の「長光」です。長船派を興した長船光忠の子とされ、国宝に指定されている「大般若長光」(だいはんにゃながみつ)をはじめ、古刀期を代表する刀工として在銘の作品を数多く残しています。
残念ながら、現在小豆長光の所在は不明。実物に会うことは叶いませんが、小豆長光の歴史に触れ、この愛刀を手に戦場を駆け抜ける上杉謙信の勇姿に、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
上杉景勝
「山鳥毛」(さんちょうもう/やまとりげ)は、鎌倉時代中期に作られたとされる太刀で、1556年(弘治2年)に上杉謙信が上州白井(現在の群馬県渋川市)に出陣したとき、「白井城」の城主「長尾憲景」(ながおのりかげ)より贈られたと言われています。
あるいは、1561年(永禄4年)に「上杉憲政」(うえすぎのりまさ)から上杉家の家督と関東管領職(かんとうかんれいしょく)を受け継いだ際に譲られたとの説もあり、上杉謙信が手にした来歴については定まっていません。
その後は上杉景勝へ受け継がれ、上杉家秘蔵の刀剣を記した「上杉景勝自筆腰物目録」(うえすぎかげかつじひつこしものもくろく)にも所載されました。
山鳥毛は無銘であるため、制作者については特定されていませんが、「福岡一文字派」(ふくおかいちもんじは)の作品と考えられています。福岡一文字派は、備前国の刀工一派のひとつで、福岡(現在の岡山県瀬戸内市の一部)を拠点とし、多くの名工を輩出しました。
山鳥毛という号の由来になったのは、山鳥の羽毛を並べたような独特の刃文です。また、山が夕日を浴びて燃えているように見える光景に似ていることから、「山焼毛」(さんしょうもう)と呼ばれたとの伝承もあります。
その美しさ、そして備前刀の最高峰とも称される価値はいつの時代も変わることがなく、1952年(昭和27年)3月29日に国宝に指定されました。2020年(令和2年)3月には、岡山県瀬戸内市がクラウドファンディングを活用するなどして、所蔵していた個人から買い取っています。
山鳥毛一文字
銘 | 時代 | 鑑定区分 | 所蔵・伝来 |
---|---|---|---|
- | 鎌倉時代中期 | 国宝 | 上杉謙信→ 上杉景勝→ 上杉家→ 個人所蔵→ 岡山県立博物館 (委託)→ 備前長船刀剣博物館 |
本太刀、銘「国宗」(くにむね)は、上杉景勝が自ら選んだ上杉家の重宝「上杉家御手選三十五腰」のうちの1振です。この名刀リストは、目利きであった上杉景勝が、特に気に入った刀剣を選抜したと言われており、本太刀「国宗」が上杉家でいかに大切にされていたのかが分かります。
本太刀を制作した刀工「国宗」は、鎌倉時代中期の備前国長船出身。初代「国真」(くにざね)の3男であることから、「備前三郎国宗」(びぜんさぶろうくにむね)と呼ばれています。後年、鎌倉幕府に召されて鎌倉へ移り住み、鎌倉時代を代表する名工「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)の師となりました。
一説には、94歳まで生きたとされ、82歳のときには、鎌倉幕府の執権「北条時頼」(ほうじょうときより)の命を受けて鍛刀しています。
国宗の作風として、前中期には華やかな丁子乱れ(ちょうじみだれ)の刃文を焼き、後期には直刃(すぐは)調子の作品が多くなりました。
本太刀は丁子乱れを焼き、備前鍛冶の特色である丁子映りも現れています。豪快さはないものの、反りが深く、品格の漂う太刀姿には目を奪われずにはいられません。上杉謙信と、上杉景勝に愛されたという歴史が感じられる1振です。