名家に代々伝えられた日本刀

久留米藩・有馬家の名刀 繁慶

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雄大な筑後平野が広がり、九州最大の河川である筑後川が流れる福岡県久留米市。「久留米」という地名の由来には諸説ありますが、久留米藩士が編纂した筑後国(ちくごのくに:現在の福岡県南部)の史書「筑後志」(ちくごし)では、古代日本で「神武天皇」(じんむてんのう)に仕えた「大久米命」(おおくめのみこと)という人物が、大きな「くるくる目」をしていたことから「くるめ」に繋がったのではないかという説が語られています。
ここでは、筑後国久留米藩で約250年間藩主を務めた有馬家と共に、有馬家に伝来した名刀「繁慶」(はんけい)についてご紹介します。

栄進を重ね久留米藩主となった有馬氏

有馬氏のルーツと初代藩主・有馬豊氏

有馬氏の始まりは、播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南西部)の名門・赤松家の4代目当主「赤松則村」(あかまつのりむら)の孫「赤松義祐」(あかまつよしひろ)が摂津国(せっつのくに:現在の大阪府北中部、兵庫県南東部)の有馬郡に渡ったことが契機だったと言われています。

有馬則頼

有馬則頼

しかし、摂津有馬氏7代目「有馬則頼」(ありまのりより)の頃には、所領を失って流浪の臣となり、その日暮らしでどうにか生きていくというところまで落ちぶれていました。

そんな有馬則頼の救世主となった人物が「羽柴秀吉」のちの「豊臣秀吉」で、羽柴秀吉が大将を務めた「中国攻め」の際、中国路に詳しい有馬則頼が支援して武功を挙げます。

この活躍を称えて羽柴秀吉から播磨国淡河(はりまのくにおうご:現在の兵庫県神戸市北区)3,200石を与えられ、そのあとも功績を挙げた有馬則頼は1万5,000石まで加増されました。

1569年(永禄12年)、播磨国三木(はりまのくにみき:現在の兵庫県三木市)で有馬則頼の次男「有馬豊氏」(ありまとようじ)が誕生します。有馬豊氏は父と共に羽柴秀吉に仕え、1592年(天正20年)の「文禄の役」では200人の兵を率いて肥前国名護屋(ひぜんのくになごや:現在の佐賀県唐津市)に参陣しました。

そののち、豊臣秀吉が亡くなると、父と共に「徳川家康」に仕え、1599年(慶長4年)には徳川家康の甥「松平定綱」(まつだいらさだつな)が城主を務める「淀城」(よどじょう:現在の京都府京都市)の警備を命じられるほど、徳川家康からの信頼を得ていました。

そのあとも有馬豊氏は、父と共に徳川家の「御伽衆」(おとぎしゅう:主君の話相手となる者)に加えられ、さらには徳川家康の養女「蓮姫」(れんひめ)を正室に迎えます。そして、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」での戦功により、有馬豊氏は3万石加増された上で、丹波国(たんばのくに:現在の京都府)福知山城主となったのです。

有馬豊氏が福知山に転封となった直後、父・有馬則頼が逝去。戦死していた長兄「有馬則氏」(ありまのりうじ)に代わって家督を継いだ有馬豊氏は、父の所領2万石を拝領し8万石の大名となりました。

しかし、有馬豊氏の栄転物語はまだ終わりません。1620年(元和6年)12月、筑後国久留米藩の藩主を務めていた「田中忠政」(たなかただまさ)が病死すると、嫡子のいなかった田中家は改易に。これを受けて田中忠政の所領は3藩に分割されることとなり、そのうちの21万石に当たる久留米藩を、有馬豊氏が拝領することとなったのです。

こうして有馬豊氏は短期間のうちに出世を重ね、ついに一国を担う大大名へと躍進しました。

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久留米で待ち受けていた困難

久留米城

久留米城

1621年(元和7年)3月18日、久留米に入った有馬豊氏は「久留米城」(くるめじょう:現在の福岡県久留米市)の悲惨な現状を目にします。

1615年(慶長20年)に幕府が制定した「一国一城令」により、居城以外の城は破却され、前藩主時代に支城だった久留米城もや本丸などが破却されており、雨露を凌ぐ場所さえない「名ばかりの城」となっていたのです。

有馬豊氏は新天地・久留米に赴任したものの、居城の修復から着手しなければなりませんでした。この修復事業で、川向こうの筑前国福岡藩(現在の福岡県福岡市)の黒田氏や、肥後国熊本藩(現在の熊本県)の加藤氏の援助を受けたことから、久留米城には「筑前堀」や「肥後堀」などの名称が付されます。

他国から援助を受けながらも築城までの道のりはまだまだ長く、さらに修築作業に追われる久留米藩に対して、幕府は非情にも大坂城(現在の大阪城)の普請や江戸城二の丸の普請を命じていたため、久留米藩の藩財政は早くも崩壊の道を辿っていたのです。

また、この間には「島原の乱」が勃発し、幕府の命を受けて久留米藩からは約7,300人が出兵。戦死者173人、負傷者1,412人を出す結果となります。この戦費の負担も重なって、久留米藩の財政は困窮を極めていました。こうして新藩主・有馬豊氏の治世には、領民達だけでなく、家臣達も不安を抱えるようになっていったのです。

1642年(寛永19年)9月、久留米藩が貧窮で混乱するさなか、有馬豊氏は久留米城の完成を見ぬまま74歳で亡くなりました。

久留米藩を騒がせた事件

2代藩主・有馬忠頼の死にまつわる秘密

初代藩主・有馬豊氏が逝去すると、次男「有馬忠頼」(ありまただより)が39歳で家督を継ぎ、久留米藩2代藩主になります。しかし、短気で粗暴な性格で周囲を困らせていました。わずか13年の短期間に、有馬忠頼は家臣70人を追放しましたが、その大半が致死。この事実から、有馬忠頼のおぞましさが際立ちます。

有馬忠頼の最期は凄惨でした。1655年(承応4年)、参勤途中の船中で小姓の兄弟によって首を斬り落とされ、首のないまま葬られたのです。きっかけは、小姓の弟への残虐な仕打ちでした。ごく軽微な粗相に対し、激怒した有馬忠頼は日本刀で傷を負わせ、深い恨みを買ったのです。

前代未聞の大事件にも、家臣達の動きは迅速でした。厳重な箝口令を敷いた上で、実行犯となった兄弟に関する記録を焼き捨てるなど徹底的に証拠を隠滅。これにより、有馬家は改易を免れることができたと言われています。

3代藩主の「すり替え」騒動

2代藩主・有馬忠頼の死は、久留米藩存続を揺るがす火種を残すこととなりました。

実は、有馬忠頼が横死した際、そばにいた有馬忠頼の幼い長男「松千代」も殺害されていたのではないかという俗説が存在しているのです。それによると久留米藩は、この長男が家督を継ぐことを幕府に願い出ていたため、亡くなった松千代の身代わりになる男児を見付け出すという「後嗣すり替え」任務が極秘で動いていました。

そんななか、御原郡用丸(みはらぐんようまる:現在の福岡県小郡市)の大庄屋である高松家で、松千代に似た男児を発見します。すぐさま家臣団は高松家を丸め込み、高松家の長男が亡くなったことにするため、松千代の遺体を高松家の庭に葬りました。高松家の男児は松千代の身代わりに仕立て上げられ、久留米藩は後嗣のすり替え工作を遂行したというのです。

3代藩主「有馬頼利」(ありまよりとし)は、若くして家臣や領民から慕われる名君に成長しつつありました。しかし、将来を嘱望されていた有馬頼利は17歳で急死。この死は、表向きは病死と言われていますが、暗殺説も囁かれており、有馬頼利の「すり替え」の秘密を知る家臣が、由緒ある有馬家の血筋に農民の血が混じることに反発して毒を盛ったのではないかと言われているのです。

このように、久留米藩では2代藩主から3代藩主について、秘密を抱えることとなり、藩内では初代から続く財政難や久留米城の修築も終わらぬまま、しばらく混沌とした時代を送っていきました。

久留米藩・有馬家に伝わる名刀「繁慶」

そののち、有馬頼利のあとを有馬忠頼の次男「有馬頼元」(ありまよりもと)が4代藩主として継ぐこととなり、ようやく城郭城下町が完成したと言われています。そのあとも、藩主の早世や治世に関心のない藩主など、久留米藩は何かと主君に恵まれない時代にありましたが、有馬家は11代に亘って明治維新まで久留米藩を存続させました。

そんな久留米藩有馬家に伝わるのが「繁慶」(はんけい)というが刻まれた刀剣です。三河国(現在の愛知県東部)に生まれた刀工「野田善四郎清堯」(のだぜんしろうきよたか)が鍛えた作で、野田清堯は元々、徳川家お抱えの「鉄砲鍛冶」を務めていた人物でした。1616年(元和2年)に江戸に出た野田清堯は、徳川家康の隠居に伴い駿府(現在の静岡県静岡市)へ渡り、刀鍛冶に転身して鍛刀を始めたと言われています。

野田清堯は、相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)の刀匠「正宗」(まさむね)が鎌倉時代後期に確立させた「相州伝」を理想とする作風で、「正宗十哲」のひとりと言われている名工則重」(のりしげ)の作品を手本にしていたのではないかと考えられています。

本刀は、則重の影響を感じさせつつ、上品さと古作風を併せ持つ作品。繁慶の作品のなかでも傑作と評価されている1振です。

刀 銘 繁慶
刀 銘 繁慶
繁慶
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
69.3
所蔵・伝来
有馬家→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

久留米藩・有馬家の名刀 繁慶

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