歴代天皇家と刀剣の歴史

皇族軍人と刀剣

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明治時代から太平洋戦争終結時まで、日本人男性には兵役の義務が課せられていました。この義務は皇族にも適用され、成年男子はすべて軍役に就く必要があったのです。いわゆる「皇族軍人」と呼ばれる人々。日本軍の軍人の腰には、諸外国の軍人が使用していた刀剣とは異なる日本独自の武器「軍刀」が下げられていました。皇族軍人と軍刀の関係についてご紹介します。

皇族軍人の第1号は有栖川宮熾仁親王

「皇族」とは天皇家に連なる血筋の家であり、通常は「宮家」(みやけ)と呼ばれます。歴代天皇の皇子ないしは皇孫(こうそん)のことで、親王宣下(しんのうせんげ:皇族の子に親王の地位を与えること)を受けた者を直接の祖先とする皇孫であり、天皇家の男系の血統を絶やさないためにありました。

皇族軍人とはこの宮家に属する男性で戦前、陸軍・海軍のいずれかに軍籍を置いていた人を指します。日本陸海軍創設前に、皇族軍人としての役割を果していたのが「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)です。

有栖川宮熾仁親王とは

有栖川宮熾仁親王

有栖川宮熾仁親王

有栖川宮家は、江戸時代の1625年(寛永2年)に創設されました。

初代当主は「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)の第7皇子「好仁親王」(よしひとしんのう)。親王宣下を代々受けて親王の身分を保証される「世襲親王家」のひとつです。

こうした特別な親王家は有栖川家以外では、「伏見宮家」(ふしみのみやけ)、「桂宮家」(かつらのみやけ)、「閑院宮家」(かんいんのみやけ)がありました。

有栖川宮家の9代当主・有栖川宮熾仁親王が在世したのは、幕末維新期から明治初期の激動期。血気盛んな有栖川宮熾仁親王は、尊王攘夷派の志士達に推されて国事に奔走します。

1868年(慶応4年)1月の「鳥羽・伏見の戦い」をきっかけに「戊辰戦争」が勃発すると、2月15日に「東征大総督」(とうせいだいそうとく)を拝命。錦の御旗(にしきのみはた)を立て、明治新政府軍を率いて東海道を北上します。

江戸での戦いが終結したあとの5月3日には太政官制度が発足。有栖川宮熾仁親王は東征大総督の職を解かれました。

親王が帯びたのは妖刀村正

東征にあたって、有栖川宮熾仁親王が腰に帯びていた日本刀は「村正」でした。伝統的な有職故実(ゆうそくこじつ)からすれば、親王位にあるべき人が差料とする日本刀ではありません。有栖川宮熾仁親王が村正を帯びた理由は、「徳川家に仇なす妖刀」として喧伝されていたことによりました。

徳川家(=幕府)に仇なす妖刀なら、徳川家を敵視する人々にとっては心強い名刀です。このため好んで村正を集める外様大名がおり、幕末期には勤皇攘夷の志士達が、こぞって村正を腰に帯びました。

有栖川宮熾仁親王が佩用していた村正は、刃長62.1cm。反りの浅い打刀で、村正の2字が刻まれていたと言われています。

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皇族軍人の働き

皇族軍人は、危険な任務に就くことはほとんどなく、特別扱いされることが多かったと言われています。例外ももちろんありました。

「閑院宮載仁親王」(かんいんのみやことひとしんのう)は戦場に赴き、第一線で命を賭して戦い、帰還後は陸軍の要職を歴任しています。陸軍幼年学校で軍人としてのスタートを切った閑院宮載仁親王は、フランスに軍事留学し、士官学校・騎兵学校・陸軍大学校で軍務を習得。

帰国後の1894年(明治27年)に「日清戦争」が勃発すると伝令将校として従軍し、銃弾が雨あられと降るなか馬を駆って任務を遂行しました。

また、1904年(明治37年)から翌年にかけて行なわれた「日露戦争」にも従軍。「本渓湖の戦い」(ほんけいこのたたかい)において戦術の妙手を発揮し、日本軍の勝利に貢献しています。

このような功績もあり、1931年(昭和6年)には陸軍の最高位となる参謀総長に就任しました。

皇族軍人が佩用した軍刀

軍刀を装備していた日本軍

日本陸海軍は、軍刀を近接戦闘用兵器としている点において、世界の軍隊とは一線を画していました。軍刀は古来、軍人の主要携帯兵器として使用されてきましたが、近代に入ると兵器のほとんどが火器にシフトしたこともあり、姿を消しました。存在しても儀仗用(ぎじょうよう:儀式などで使用する装飾武器)であり、戦闘用の武器ではなくなったのです。

日本刀形式の軍刀

日本刀形式の軍刀

世界のこうした趨勢下にあっても、日本軍だけは違っていました。

日本陸海軍が創設された当時、軍制の洋式化を押し進めていることもあり、サーベルが軍刀として制定されました。

しかし、1931年(昭和6年)に「満州事変」が起こったあたりからナショナリズムが高揚し、陸軍は1934年(昭和9年)に、海軍も1937年(昭和12年)に軍刀を日本刀形式に改めています。

刀剣に関する基礎知識をご紹介します。

佐官・尉官用が一目瞭然

「北白川宮能久親王」(きたしらかわのみやよしひさしんのう)が愛用していた軍刀は、スペイン・トレド製の直刀です。は上質な鼈甲(べっこう)製であり、護拳(ごけん:柄を握る手を守る武具)と柄金具には金メッキと彫刻が施されています。刀剣の刃を留めている先端の金具は銀製。軍刀の柄に関して陸軍内部では、佐官は角、将官は鼈甲と規定されていました。

北白川宮成久親王の軍刀は、全体的に桜葉があり、一目で佐官用の剣であることが分かります。柄には黒い水牛の角。将校全般に用いられる黒い刀緒(とうちょ:明治時代以降の軍刀に用いられる軍装品)が印象的です。

剣の刃を留める先端の螺子金具(ねじかなぐ)は、肉厚で色は金色。そこに北白川宮家の家紋が刻まれています。にはきれいな湾曲があり、刀身に反りのある湾刀。典型的な「四五式」(よんごしき:明治45年に制定された形式)の軍刀です。

昭和天皇から下賜された軍刀

朝香宮孚彦王

朝香宮孚彦王

朝香宮孚彦王」(あさかのみやたかひこおう)は、「朝香宮鳩彦王」(あさかのみややすひこおう)と「允子妃」(のぶこひ)の間に第1王子として生まれています。

陸軍士官学校を経て陸軍大学校に学び、陸軍の航空部門で航空戦力の強化に貢献しました。航空師団参謀を務め、陸軍中佐で終戦を迎えています。

海軍航空隊に入隊し、日本初の海軍機夜間計器飛行を行なった「山階宮武彦王」(やましなのみやたけひこおう)と共に、操縦桿を握った皇族として有名です。

朝香宮孚彦王の軍刀は、陸軍大学校卒業時に「昭和天皇」から下賜されました。恩賜刀の制作者は「池田靖光」(いけだやすみつ)。「水心子正秀」(すいしんしまさひで)の弟子で、切れ味抜群の日本刀を多数鍛造した「池田一秀」の孫に当たる刀工です。

「靖光」の名前は、戦時中に「靖国神社」(正式表記:靖國神社|やすくにじんじゃ)の境内に鍛錬所が創設された「日本刀鍛錬会」の刀工であることを示しています。池田靖光ら、日本刀鍛錬会の刀工が制作した軍刀は、「靖国刀」と呼ばれ、美術品としても高く評価されているのです。

目貫は天皇家の御下賜紋となる「五三の桐」(ごさんのきり)が使われており、鞘は金色燦然と輝く金梨子地(きんなしじ)で覆われています。「」(はばき)部分には「恩賜」に2文字。通常の軍刀とは異なり、桜の紋様はありません。

刀 銘 靖光
刀 銘 靖光
靖光
昭和十五年
八月吉日
鑑定区分
未鑑定
刃長
66.4
所蔵・伝来
朝香宮孚彦王 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

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