歴代天皇家と刀剣の歴史

大正天皇が下賜した刀剣

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歴代の天皇は、権力の委任や功績、さらには返礼の意味を込めたりするなどの様々な目的により、臣下に刀剣を下賜していました。123代天皇である「大正天皇」も例外ではなく、大正天皇から下賜されたと伝わる刀剣が2振、現在に至るまで存在しています。ここでは、その2振がどのような刀剣であったのかについて、下賜された人物と共にその全貌をご説明します。

天皇の下賜刀のひとつ「節刀」とは

始まりは「斧」と「鉞」!?

天皇から下賜された刀剣のなかでも、合戦に出征する将軍や遣唐使の長官に対して、その全権を委任する証しとした刀剣は「節刀」(せっとう)と称されていました。

節刀の歴史は、26代天皇「継体天皇」(けいたいてんのう)の御代(みよ:天皇の治世)までさかのぼります。それは、527年(継体天皇21年)九州の豪族「筑紫君磐井」(ちくしのきみいわい)が、ヤマト王権との間で反乱を起こしたときのこと。

「磐井の乱」(いわいのらん)と呼ばれるこの反乱に対して継体天皇は、ヤマト王権から派遣された遠征軍の総大将「物部麁鹿火」(もののべのあらかび/あらかい)に、「長門国[ながとのくに:現在の山口県]以東は私が統御しよう。筑紫以西はお前が統御し、自身の一存で賞罰を実施せよ。頻繁に報告する必要はない。」と告げて、刑罰で用いられる「斧」(おの)と「鉞」(まさかり)を渡し、「生殺与奪」(せいさつよだつ:相手を生かしたり、殺したり自分の思うまま、どのようにしても良いこと)の権利を与えたのです。

これは、古代中国の様式にならった方法。斧と鉞は、厳密に言えば刀剣ではありませんが、これが日本における節刀の始まりとされています。

律令の規定に則って、刀剣が節刀として天皇より授けられたのは、709年(和銅2年)、公卿(くぎょう)である「巨勢朝呂」(こせのまろ)が「陸奥鎮東将軍」(むつちんとうしょうぐん)、そして貴族の「佐伯石湯」(さえきのいわゆ)が「征越後蝦夷将軍」(せいえちごえみししょうぐん)として、それぞれの地に派遣したときです。

さらには、720年(養老4年)に「大伴旅人」(おおとものたびと)を「征隼人持節将軍」(せいはやとじせつしょうぐん)として九州に派遣した際や、940年(天慶3年)「藤原忠文」(ふじわらのただぶみ)が「征東大将軍」(せいとうたいしょうぐん)に任じられたときにも、節刀が天皇より授けられています。

節刀に用いられたのは、朝廷内にあって「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)に次ぐ宝剣とされた「大刀契」(だいとけい/たいとけい)です。日本へ亡命してきた「百済王氏」(くだらのこにきしし)が、38代天皇「天智天皇」(てんじてんのう/てんちてんのう)に献上した複数の「大刀」(たち:長大な刀剣の総称)であり、そのなかでも「将軍剣」や「破敵剣」(はてきのつるぎ/はてきのけん)、「破敵将軍剣」などの名で呼ばれた「三公闘戦剣」(さんこうとうせんのけん)が、戦地へと向かう将軍に授けられました。

これらの刀身は、長さ2尺5寸4分(約70㎝)、鋒/切先(きっさき)は2寸(約6.1㎝)ほどあり、両刃になっていることが特徴。また、その刀身には青龍や北極五星、北斗七星、白虎など、古代中国で信仰されている伝説上の人物や霊獣、星座などが描かれていました。

坂上田村麻呂

坂上田村麻呂

平安時代の公卿であり、武官であった「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)もまた、天皇より節刀を授けられた人物のひとりです。

坂上田村麻呂は、801年(延暦20年)2月14日、50代天皇「桓武天皇」(かんむてんのう)から節刀を拝受し、京都を進発。

そののち、蝦夷(えみし:東北の住人に対する呼称)征討を完了した坂上田村麻呂は、10月28日に京都へ凱旋し朝廷に節刀を返還しました。

現在の京都府京都市左京区にある「鞍馬寺」(くらまでら)には、このときに坂上田村麻呂が佩用(はいよう:身に付けて用いること)したと伝わる大刀が秘蔵されています。この大刀は、切刃造り(きりばづくり)の直刀で、刃文直刃(すぐは)調。刀身は2尺5寸(約76㎝)あり、(つか)の部分も含めると、3尺1寸4分(約95.2㎝)の長さになります。付属の(こしらえ)は黒漆で塗りが施されており、平安時代中期以前にあたる古刀期の刀剣の特徴をよく伝える1振です。

さらには、中国の唐帝国に遣唐使が派遣されていた時代には、やはり全権を与えた証しとして節刀が授けられました。節刀の授受は長らく朝廷の儀式でしたが、宮廷での度重なる火災によって南北朝時代頃に大刀契が焼失すると、自然と行なわれなくなりました。

ところが、幕末期に入ると大刀契が突然復活。蘇らせたのは、121代天皇「孝明天皇」(こうめいてんのう)でした。

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政治上の駆け引きに用いられた節刀

幕末は、日本にとって多事多難な時期でした。市民革命と産業革命を成し遂げ、東アジアに進出してきた欧米勢力が、日本に力尽くで開国と通商条約の締結を迫ったのです。

江戸幕府は欧米諸国によるこれらの要求を、頑なに拒むことは戦争に繋がると判断し、勅許(ちょっきょ:天皇による許可)を得ることなく、アメリカやロシア、イギリス、フランス、オランダと通商条約を締結します。これにより貿易の不均衡などが生じ、日本人の生活は悪化するのです。

こうした状況下にあって、外国人を撃ち払うことで国内に入れないようにする思想である「攘夷」(じょうい)の先頭に立ったのが孝明天皇でした。

この攘夷思想に基づき日本では、外国人に対する殺傷事件が相次ぎます。この動向に危機感を募らせた江戸幕府14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)は、1863年(文久3年)攘夷運動を抑えるため京都に入りました。しかし、これが却って火に油を注ぐ結果となり、京都に集結している尊皇(天皇を尊んで、天皇中心に考える思想)攘夷の志士達が「今こそ幕府が攘夷を決行すべし」と騒ぎ立てるのです。

尊皇攘夷派の志士達は、同じ思想を持つ公家衆と図って「石清水八幡宮」(いわしみずはちまんぐう:京都府八幡市)の神前で、徳川家茂に対して孝明天皇より、攘夷の節刀を授ける策を練ります。武家の神と仰がれる八幡神の御前で節刀を受け取らせることで、江戸幕府を攘夷に追い込み、最終的には攘夷を掲げて幕府を武力で討つ腹積りであったのです。

徳川慶喜

徳川慶喜

この尊皇攘夷派の意図を見破ったのが、将軍後見職にある「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)のちの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)でした。

志士達による武力討幕は、幕府の力で抑えられたとしても、攘夷の名目のもとに節刀を授けられてしまった場合、幕府は攘夷に踏み切らなければなりません。

しかし、そうなれば欧米勢力との戦争は必至。日本は負ける可能性が高く、隣の清国(現在の中華人民共和国)のように、蹂躙(じゅうりん:暴力などにより、他を侵害すること)されるのは目に見えています。

徳川家茂に節刀を絶対に受け取らせてはならないと考えた一橋慶喜は、孝明天皇が徳川家茂を伴って石清水八幡宮を参拝するとしていた1863年(文久3年)4月10日、徳川家茂は風邪をお召しになられたと仮病を使い、参拝を辞退させます。

これにより徳川家茂は、5月10日を攘夷決行日とする約束を孝明天皇に強要されますが、節刀の受け取りは何とか回避したのです。このとき、徳川家茂が節刀を受け取っていたら、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

孝明天皇が崩御されたあと、1868年(慶応4年/明治元年)「明治天皇」が即位されてすぐに起こった「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに、明治新政府と旧幕府勢力ので「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)が始まります。

この戦いの際に明治政府は、明治天皇の名において「仁和寺宮彰仁親王」(にんなじのみやあきひとしんのう)と「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)に節刀を授けました。そしてこれが、公的な節刀授受の最後になったのです。

大正天皇からの下賜刀①:東郷平八郎編

東郷平八郎の功績と東郷神社に祀られた背景

東郷平八郎

東郷平八郎

下賜刀のひとつである節刀の授受は、前述した通り、天皇による公的な儀式としては明治天皇の代で終わっています。

しかし、その次代天皇である「大正天皇」が皇太子であられた時代に、ある人物が節刀を賜っていたのです。

それは、明治から大正、そして昭和時代を生きた海軍の軍人「東郷平八郎」(とうごうへいはちろう)。

この節刀は、東郷平八郎の苗字をその名称に冠し、彼自身を御祭神として「東郷神社」(現在の東京都渋谷区)に秘蔵されている1振です。同神社が創建された背景には、東郷平八郎がその生涯を通じて残した、多大なる功績が関係しています。

1847年(弘化4年)、薩摩藩(現在の鹿児島県)の藩士「東郷吉左衛門」(とうごうきちざえもん)の四男として生まれた東郷平八郎は、幕末期に19歳で海軍に入り、明治維新前後の海戦に従軍。1871年(明治4年)には、軍事航海と商船航海の両方を学ぶためにイギリスへ留学。帰国後は、日本海軍士官や巡洋艦「浪速」(なには/なにわ)の艦長を務めるなど、海軍軍人としての経歴を順調に積み重ねていきます。

ロシアと日本の関係が緊迫化すると、1903年(明治36年)10月には、当時の海軍大臣「山本権兵衛」(やまもとごんべえ/ごんのひょうえ)が、東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命。そして、その翌年に勃発した「日露戦争」において、東郷平八郎は、旗艦「三笠」(みかさ)に乗り込み、中国の「旅順港」(りょじゅんこう)や「黄海海戦」(こうかいかいせん)などで指揮を執ります。

これらに加えて、当時世界最強とされたロシアの「バルチック艦隊」とも、日本海において対峙。敵艦隊の目前で大回頭(だいかいとう:船首の向きを変えること)を行なう「丁字戦法」(ていじせんぽう)により、同艦隊を撃破。この日本海海戦での東郷平八郎率いる日本海軍の活躍が、日露戦争における日本の勝利のきっかけになったのです。

日露戦争終結後の東郷平八郎は、日本海軍ばかりでなく日本国全体の重鎮としても抜群の存在感を発揮しました。そして、東郷平八郎が1934年(昭和9年)に亡くなると「東郷元帥をお祀りし、その遺徳を後世に伝えて欲しい」という要望と寄付金が、全国各地から海軍省に殺到したため、東郷神社に祀られるようになったのです。

東郷神社が秘蔵する1振「吉房」

東郷神社

東郷神社

東郷神社秘蔵の東郷平八郎の節刀は、皇太子時代の大正天皇から日露戦争に際して下賜された、備前福岡一文字」(ふくおかいちもんじ)派の刀工「吉房」(よしふさ)による太刀です。

しかし、節刀とは言っても自分の所有物になる訳ではなく、一時的に貸与された刀剣であったため、任務完了後はすみやかに天皇に返還しなければなりません。返還時期が遅いと「謀反の意思あり」と疑われてもおかしくないのです。

また、節刀を受け取った時点で将軍や司令官は天皇の代理となり、任務を遂行するまでは、帰宅することも許されていません。非常な重責が伴いますが、節刀を賜ったことで得た権限は絶大。天皇の判断を仰ぐことなく、自身の一存で敵や部下を処分したとしても、事後報告で済ますことができたのです。

このように、節刀を賜ることは大きな責任を伴う反面、非常に名誉なことでした。

「吉房」が東郷平八郎に下賜された理由

東郷平八郎の節刀である太刀を鍛えた刀工・吉房は、鎌倉時代中期に活躍した刀工。備前福岡一文字派のなかでも、最も華やかな「丁子」(ちょうじ)の刃文を得意としていました。艶やかな花弁が重なり合うような刃文は、優美の一語に尽きます。

作風と銘振りが1振ごとに相違するため「同時期に数人の刀工がいた」、「代々、この名を称する刀工がいた」などの説が唱えられることもあります。

鎌倉時代の太刀は反りが深く、刀身の長さが70㎝を超える長大な作品が多いのが特徴であり、本太刀についても同様でした。しかし、このままの刃長では腰から垂直に吊るすと、鋒/切先が引きずられてしまうことが難点。これでは、狭い艦内にあって動きに差し支えが生じてしまい、何より危険です。

このため東郷平八郎は、63.3㎝にまで刃長を切り詰め、反りを1.5㎝にまで抑え、新しい(なかご)に切り取ったもともとのをはめ込んで、海軍用の指揮刀に仕立てました。このような銘は「額銘」(がくめい)と呼ばれ、これが施された太刀が、現在に至るまで東郷神社に秘蔵されているのです。

刀 額銘 吉房

刀 額銘 吉房

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
吉房
(額銘)
鎌倉時代 重要文化財 大正天皇→
東郷平八郎→
東郷神社

大正天皇の父帝である明治天皇は、熱心な刀剣収集家として著名であったため、天皇家には名刀が数多くあったことが推測されます。それではなぜ皇太子時代の大正天皇は、数ある名品の中から東郷平八郎への下賜刀として、吉房を選ばれたのでしょうか。その理由は憶測の域を出ませんが、一説には吉房が鎌倉時代の刀工であることが関係していると言われています。

日本は鎌倉時代、1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)の2度に亘って、外国からの侵略軍を撃退しています。これは、一般的に「元寇」(げんこう)と呼ばれる「元」(げん:旧モンゴル帝国)による侵攻です。中国大陸を支配する元帝国の「フビライ・ハーン」が、日本を支配下に置くことを目的に行ない、1度目の戦いは「文永の役」(ぶんえいのえき)、2度目の戦いは「弘安の役」(こうあんのえき)と呼ばれています。

1度目は、日本側が苦戦を強いられるなか、侵略軍側で元軍と高麗(こうらい:現在の朝鮮半島)軍の不仲が高じて撤退。2度目については、日本側が防塁(ぼうるい:外敵の侵入を防ぐ砦)と飛距離の長い日本の弓矢の特性を活かして上陸を許さず、小舟で海に乗り出して敵船に乗り込み、刀剣で敵をなで斬りにしました。最後は暴風雨によって侵略艦隊は壊滅して日本側の勝利に終わり、未曾有の国難から逃れることができたのです。

皇太子時代の大正天皇が、数ある名刀の内から吉房を選んで東郷平八郎に授けた理由は、大国ロシアを相手に戦う東郷平八郎に「かつて蒙古の大軍を退けた鎌倉武士達も使った刀剣がある以上、勝利は確実である」と力付ける意味合いがあったことが考えられるのです。

大正天皇からの下賜刀②:鳥取藩池田氏編

この他にも、皇太子時代の大正天皇からの下賜刀には、鳥取藩の藩主であった池田家に伝わる「日置兼次」(へきかねつぐ)の刀剣があります。

大正天皇は皇太子時代、明治天皇の名代(みょうだい:ある人の代わりを務めること)として日本各地を行啓(ぎょうけい:皇太子や皇太子妃などが外出すること)することが時々あり、1906年(明治39年)に山陰地方に赴いています。その際に、華族(侯爵:こうしゃく)であり陸軍軍人、貴族院議員でもあった池田氏14代当主「池田仲博」(いけだなかひろ)が建てた「仁風閣」(じんぷうかく)に宿泊。そのときのお礼として、鳥取藩に仕えた刀工である日置兼次が鍛えた刀剣を、池田氏に下賜したのです。

このときの随行員のひとりであった東郷平八郎は、この日置兼次の刀剣に直筆で「鞘書」(さやがき)を施しました。そしてその裏には、東郷平八郎の長男「東郷彪」(とうごうひょう)が「鞘書の文字は父の直筆に相違なし」と記しており、大変貴重な1振だと言えます。

以上の2振が、現時点で分かっている大正天皇による下賜刀です。大正天皇も父帝である明治天皇と同様に、刀剣を非常に愛した天皇でした。そのため、大正天皇による下賜刀が、今後さらに見付かる可能性は捨てきれないと言えます。

大正天皇が下賜した刀剣

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