戦国時代の姫・女武将一覧

千代(見性院)

文字サイズ

「土佐藩」(現在の高知県高知市)初代藩主「山内一豊」(やまうちかつとよ/やまうちかずとよ)の妻「千代」(ちよ)のちの「見性院」(けんしょういん)は、「夫を出世させた妻の鑑[かがみ]」として、戦前に国語の教科書に載っていたほどの女性です。激動の戦国時代を精一杯生き抜き、武将の妻でありながら日本の歴史に名を残した千代とは、いったいどのような人物だったのでしょうか。ここでは、千代がどのようにして山内一豊を支え、どのような生涯を送ったのかについて解説します。

山内一豊と千代の出会いから娘を授かるまで

千代(見性院)のイラスト

千代(見性院)

「千代」(ちよ)は、名のある武家に生まれながら、合戦で父を失い母との逃亡生活を送るという厳しい幼少期を過ごしました。

そして、千代の夫となる「山内一豊」(やまうちかつとよ/やまうちかずとよ)も、千代と同じく父と兄を戦乱で亡くし、わずか15歳で流浪の身となったのです。

やがて山内一豊は「織田信長」の配下にあった「木下藤吉郎」のちの「豊臣秀吉」に仕えるようになります。

山内一豊が初陣を飾ったのは、1570年(永禄13年/元亀元年)に「織田・徳川連合軍」と「浅井・朝倉連合軍」の間で勃発した「姉川の戦い」です。

そのあと、1573年(元亀4年/天正元年)に山内一豊は、織田信長による朝倉攻めである「一乗谷城の戦い」(いちじょうだにじょうのたたかい)において、木下藤吉郎の部隊として参戦し「三段崎為之」(みたざきためゆき)を討ち取ることに成功します。

これ以降、山内一豊は様々な合戦において活躍したため、木下藤吉郎は山内一豊のこれまでの功績を称え「唐国」(からくに:現在の滋賀県長浜市唐国町)400石を下賜しました。

この頃、千代と山内一豊は結婚したと伝えられており、1580年(天正8年)に待望の娘「与祢」(よね)を授かります。それは山内一豊が36歳、千代が24歳のときでした。

2万石の大名になった山内一豊を襲った悲劇

1582年(天正10年)の「本能寺の変」により織田信長が自害すると、豊臣秀吉は天下取りに邁進し、山内一豊もこれに付き従って各地の合戦で奮闘。それらの武功により、豊臣秀吉から「長浜城」(現在の滋賀県長浜市)を与えられます。

ついに山内一豊は2万石の大名になりましたが、1586年(天正14年)長浜の地を「天正の大地震」(てんしょうのおおじしん)が襲ったのです。

このとき、山内一豊は京都にいたため残されていた千代は、潰れた屋敷から屋根に這い上がって自力で脱出。しかし、娘の与祢は屋根の下敷きになり、息絶えてしまいました。

地震によって娘を失い、深い悲しみの底にいた千代を救ったのは、近江の禅僧「南化玄興」(なんかげんこう)です。その導きにより千代は禅宗に深く帰依し、救いを見出したのでした。

与祢の墓参り途中に捨て子を拾う

妙心寺

妙心寺

1587年(天正15年)、千代は与祢の墓参りに向かう途中、男の子が捨てられているのに気付き、これを哀れに思った千代は、その子を拾って連れ帰ります。

拾った子なので「拾」(ひろい)と名付け、我が子のように育てることにしたのです。

このときの山内一豊と千代には、跡継ぎとなる男子がおらず、拾が非常に利発な少年に育っていたため、山内一豊は拾に家督を相続させることを望んでいました。しかし千代は、拾の出自が不明であることを鑑みてこれに反対し、山内一豊の弟の嫡男「山内忠義」(やまうちただよし)を養子に迎え、跡継ぎにしました。

一方で拾は10歳になると、南化玄興和尚のいる京都の「妙心寺」(みょうしんじ)に預けられることとなったのです。

豊臣秀吉の天下から関ヶ原へ

夫の出世競争を意外な才能で支える

関白となった豊臣秀吉が、京都の邸宅として「聚楽第」(じゅらくてい/じゅらくだい)を建設する際、山内一豊は家臣と共に普請役に打ち込んでいましたが、「石田三成」らが重用される事務方の仕事は、もっとも苦手としていたため出世競争に遅れるようになっていきます。

その一方で、千代は裁縫の腕前を発揮。西陣織や中国から渡ってきた唐織(からおり)などの布を縫い合わせて1枚の小袖に仕立て、関白夫人の「ねね」のちの「高台院」(こうだいいん)に届けたのです。

その美しさに感嘆したねねは、大喜びで豊臣秀吉に見せました。すると豊臣秀吉は感服し、107代天皇「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)に献上したという逸話も残っています。

東西の対立と笠の緒文

1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると、その正室・ねねと側室であった「淀殿」(よどどの)の関係が悪化の一途を辿ることに。豊臣秀吉とのねねの間には、世継ぎとなる男子が生まれませんでしたが、淀殿は「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を授かっていました。そのため、淀殿は側室でありながら、豊臣家の家中における地位が急上昇していたのです。

そこでねねは、徐々に頭角を現していた「徳川家康」を頼りにするようになります。さらに、ねねは山内一豊を含め自分を慕う「加藤清正」らの尾張衆を、徳川家康側に付くように仕向けていたのです。このとき、ねねを敬愛していた千代は、ねねに付いていくことを決めていました。

1600年(慶長5年)、徳川家康が会津(現在の福島県会津若松市)の「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)討伐のために「大坂城」(現在の大阪城)を発つと、山内一豊も大坂屋敷に千代を残し、その討伐軍に加わります。

細川ガラシャ

細川ガラシャ

豊臣秀吉の家臣であった石田三成は、会津征伐に向かった大名達が徳川家康側に付くことを恐れ、大坂に残された妻や母親を人質に取り、大坂城に収容することを企てていました。

その最初の標的となったのは「細川忠興」(ほそかわただおき)の正室「細川ガラシャ」。

しかし、細川ガラシャは人質になることを拒否し、家臣に自分を斬るように命じ、そのあと家臣は屋敷に火を放っています。

このとき千代もまた、夫が自由に戦えるように死ぬ覚悟ができていましたが、この細川ガラシャの自害により大坂城に人質を収容する件は、中止になったのです。

そんななかで、千代は宇都宮にいる夫にこの騒ぎについて知らせようと考え、手紙を送ることを決めます。まず、石田三成の挙兵に賛同を募る勧誘状と夫宛にしたためた手紙を、一緒に文箱に入れて紐を掛けました。次に、それとは別に、近況を詳しく記した文を書き、それを「こより」にして、文箱を運ぶ使者の編み笠の緒に忍ばせます。

そして千代はこの使者に、夫に真っ先に笠の緒の文を見せ、文箱の紐は絶対に解かないまま徳川家康に渡すことを伝えるように言い渡し、山内一豊のもとに送ったのです。

山内一豊は編み笠に忍ばせた密書を読み、文箱を開けないまま徳川家康に渡します。大坂の情報が欲しい徳川家康は、千代からの書簡を喜ぶと共に、私信の封を切るよりも先に自分に見せた山内一豊の忠誠心を深く感じ入りました。

そして徳川家康は、宇都宮にいる諸将を集め「小山評定」(おやまひょうじょう)と称される軍議を開きます。石田三成が挙兵し、大坂にいる諸将の妻子達が人質になっていること、石田三成側に付きたい場合は自由に立ち去っても良い旨を告げたのです。

これを聞いた山内一豊は、自分の居城である「掛川城」(かけがわじょう:現在の静岡県掛川市)を、兵糧もろともそっくりと差し出そうと申し出ました。軍議が終わると徳川家康は、帰ろうとする山内一豊の袖を掴み嬉しさのあまり涙を落としたという逸話も残っています。

関ヶ原の戦い」の本戦では大きな活躍がなかった山内一豊でしたが、千代の機転と小山評定での自身の発言によって、同合戦のあとに徳川家康より土佐一国を20万石で与えられたのです。ぎりぎりの状況のなかで下した千代のとっさの判断が、夫を大出世へと導いたと言えます。

合戦の街 関ヶ原
「関ヶ原の戦い」の経緯や結末、関ヶ原の現在についてご紹介します。

細川ガラシャ YouTube動画

細川ガラシャ

夫の没後、京都へ

高知城

高知城

そののち、山内一豊は「高知城」(現在の高知県高知市)を築城し、養子であった山内忠義を次期城主として育てることに。

そして1603年(慶長8年)、山内忠義が徳川家康の養女「阿姫」(くまひめ)と結婚したことで、徳川家と姻戚関係を結んだ山内家はその行く末がより確かになったのです。

しかし、その年の秋に山内一豊は倒れ、61年の人生の幕を閉じました。

山内一豊が世を去ってから半年後、千代は土佐を去って京都の妙心寺に向かいます。そこでは与祢の亡きあと、同寺に預けて離れ離れになっていた千代が心から慈しんでいた息子・拾が「湘南宗化」(しょうなんそうけ)と号して臨済宗(りんざいしゅう)の僧となり、仏道に励んでいたのです。

拾と同様に出家した千代は「見性院」(けんしょういん)の法号を受け、同寺近くに屋敷を構え、そこでは「徒然草」や「古今和歌集」などの書を愛しつつ、悠々自適の日々を送ったと伝えられているのです。

そして千代は、奇しくも夫・山内一豊と同じ61歳のとき、湘南宗化に看取られながら亡くなりました。

日本の城 高知城 YouTube動画

「高知城」現存12天守

千代(見性院)

千代(見性院)をSNSでシェアする

「戦国時代の姫・女武将一覧」の記事を読む


朝日姫

朝日姫
天下人「豊臣秀吉」の妹であった「朝日姫/旭姫」(あさひひめ)。すでに尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)の農民に嫁いでいた朝日姫でしたが、天下を取りたい兄の夢のために、長年連れ添った夫と無理矢理離縁させられ「徳川家康」の正室となりました。ここでは、朝日姫が徳川家康に嫁ぐことになった背景を、天下統一を果たすまでの兄・豊臣秀吉が歩んだ道のりと共に紐解いていきます。

朝日姫

阿茶局(雲光院)

阿茶局(雲光院)
「徳川家康」の21人にも及んだ正室・側室のなかで、ひときわ異彩を放つ女性がいます。甲冑に身を包み、徳川家康と共に戦場を駆け抜け、大坂冬の陣では豊臣方との交渉にあたった「阿茶局」(あちゃのつぼね)です。今回は、徳川家康から厚い信頼を受け、表舞台でも裏方としても活躍した阿茶局について、人柄やその生涯を見ていきます。

阿茶局(雲光院)

綾御前(仙桃[洞]院)

綾御前(仙桃[洞]院)
「上杉謙信」の異母姉であった「綾御前」(あやごぜん)は、上杉家の将来を大きく変えていくこととなった重要人物です。政略結婚や上杉謙信亡きあとの後継者争いなど、上杉家の発展や存続のために、その力を注いでいたと伝えられています。上杉家のために生きたとも言える綾御前は、果たしてどのような人物だったのでしょうか。そこで今回は、綾御前に焦点を当てて、彼女の歴史や生涯について解説します。

綾御前(仙桃[洞]院)

明智熙子

明智熙子
かつて「明智の妻こそ天下一の美女」という噂がありました。明智とは、戦国武将「明智光秀」のこと。妻は「明智熙子」(あけちひろこ)です。少ない史料をたどっていくと、明智熙子の美貌は東美濃随一で、たいへん心が美しい女性であったことが分かります。明智熙子とはどんな出自で、どのような女性であったのかを詳しくご紹介します。 明智熙子 YouTube動画

明智熙子

荒木だし

荒木だし
「有岡城」(ありおかじょう:現在の兵庫県伊丹市)の城主「荒木村重」(あらきむらしげ)の妻であった「荒木だし」(あらきだし)は、「今楊貴妃」(いまようきひ)と称されるほど、絶世の美女でした。ここでは、荒木だしが壮絶な最期を遂げるまでに、夫・荒木村重をどのように支えていたのか、その生涯を通して見ていきます。

荒木だし

生駒吉乃

生駒吉乃
「織田信長」の側室にして、その最愛の女性であったと伝わる「生駒吉乃」(いこまきつの/いこまよしの)。織田信長との間に授かった3人の子ども達は、織田家にとって重要な役割を果たし、生駒吉乃は織田信長から正室と同格の扱いを受けていたとも言われています。生駒吉乃に関する記載がある資料は「武功夜話」(ぶこうやわ)しかなく、大変謎が多い女性です。ここでは、そんな生駒吉乃が織田信長に嫁ぐ前から死去する前の行動など、その生涯についてご紹介します。

生駒吉乃

犬姫

犬姫
「織田信長」の妹と言えば「お市の方」が有名ですが、もうひとりの妹「犬姫」(いぬひめ)をご存知でしょうか?お市の方は「絶世の美女」だったとよく言われますが、その妹の犬姫も美しい女性だったのです。織田信長の戦略によって、2度も政略結婚をさせられるなど、波乱万丈な人生を歩んだ犬姫の生涯をご紹介します。

犬姫

栄姫

栄姫
「栄姫」(えいひめ)は、福岡藩初代藩主「黒田長政」(くろだながまさ)の継室(けいしつ:後妻のこと)となった女性です。1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」が始まる直前に黒田長政と結婚し、大坂で戦乱に巻き込まれます。はたして栄姫とは、どのような人物だったのでしょうか。ここでは栄姫の生涯と、栄姫にかかわりの深い人物達についてご紹介します。

栄姫

お市の方

お市の方
戦国時代の覇者「織田信長」の妹であった「お市の方」(おいちのかた)。戦国一と言われるほどの美貌の持ち主であったと伝えられています。お市の方は、最初の夫であった「浅井長政」(あざいながまさ)と兄の織田信長が戦うことになり、夫が兄によって自刃に追い込まれるなど、波乱万丈の生涯を送った女性です。ここでは、戦国の世に翻弄されたお市の方が歩んだ道のりと、その3人の娘達についてもご紹介します。

お市の方

注目ワード
注目ワード