書画・美術品の基礎知識

天皇の書状 宸翰(しんかん)

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「宸翰」(しんかん)とは、天皇が直筆で書かれた「書」や「手紙」のこと。最も古い宸翰は、第52代の「嵯峨天皇」(さがてんのう)の「光定戒牒」(こうじょうかいちょう)と言われ、現存する宸翰の多くは「国宝」や「重要文化財」などに指定されています。宸翰を鑑賞するときに知っておくと良いのが、「世尊寺流」(せそんじりゅう)や「青蓮院流」(しょうれんいんりゅう)などの、様々な日本の書流(書道のスタイル)。しかし、すべてを網羅することは不可能なため、ここでは日本の書道文化に影響を与えた重要な流派を取り上げてご紹介します。

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宸翰とは

宸翰と宸筆

もともと宸翰の「宸」とは、もとは中国語で天子が住む場所を表わし、転じて天子に関する言葉に冠して用いられるようになりました。現代も「宸襟」(しんきん:天皇のお気持ち)や「宸居」(しんきょ:天皇のお住まい)などとして使います。

一方の「翰」とは筆、または筆で書いた書のことです。宸翰と言う言葉が日本で用いられたのは江戸時代以降で、それより前は「宸筆」(しんぴつ)と言いました。桃山時代に編まれた「日葡辞書」(にっぽじしょ:日本語をポルトガル語で解説した辞典)にも、王が自ら書いた手紙の意味で「Xinpit」と言う言葉が採録されています。

和様を完成させた藤原行成

「和様」と「唐様」

日本独自の書流、つまり日本古来のスタイルが「和様」(わよう)です。これは、平安時代に「藤原行成」(ふじわらのゆきなり)が興した「世尊寺流」(せそんじりゅう)と言う、和様書道の流派のひとつに端を発すると言われます。

しかし、中世になって中国(宋)から禅宗(ぜんしゅう)の影響を受けた「唐様」(からよう)が導入され、書流は大きく変貌。そのあと、和様と唐様は互いに影響を与えながら国内で大きく発展し、現代まで受け継がれているのです。

書流のルーツは「三筆」と「菅公」

語学書である「和漢名数」(わかんめいすう)によれば、平安時代初期における最大の「能書」(のうしょ・のうじょ=字を巧みに書く人)として、「空海」(くうかい)、「嵯峨天皇」、「橘逸勢」(たちばなのはやなり)の3名が「三筆」(さんぴつ:日本書道史上の能書のうちで最も優れた3人の並称)として紹介されています。日本における書の歴史は、この3名から始まりました。

次に現われた能書が、「菅公」(かんこう)の異名を取る「菅原道真」(すがわらのみちざね)です。菅原道真の筆と伝えられる書は、全国に点在しますが、真筆だと言う確証がある書は今日の日本には存在していません。

和様を代表する能書家「三跡」

ただし、南北朝時代の僧「尊円親王」(そんえんしんのう)が著した「入木抄」(じゅぼくしょう)には、菅原道真の少しあとに現われた「小野道風」(おののみちかぜ)の筆跡は菅原道真にそっくりだと書かれています。これは、菅原道真の書流を受け継いでいるのです。

また、同書には「佐理・行成は、道風が体をうつしきたる」と記されており、「佐理」である「藤原佐理」(ふじわらのすけまさ)と、「行成」である藤原行成は、小野道風の筆体を模倣していると言っています。「道風」・「佐理」・「行成」を、平安時代を代表する能書家として「三跡」(または三蹟)と称し、国風文化(こくふうぶんか)の台頭と共に生まれた和様と呼ばれる日本風の書が完成したのです。

「世尊寺流」を打ち立てた藤原行成

藤原行成

藤原行成

三跡のなかで、後世に最も影響を与えたのは藤原行成です。彼は「夢の中で道風に会い、書法を授けられた」と感動して書き記すほど、小野道風に心酔していました。

そして、独自に研鑽(けんさん:学問などを深く究めること)を重ね、より優雅さを増した独自のスタイルを打ち立てたのです。この書流を「世尊寺流」と呼び、ここで日本風の書体である和様がひとまず完成します。

藤原行成の書は、彼が「権大納言」(ごんだいなごん)であったことから「権跡」(ごんせき)と呼ばれました。

今日、彼の真筆は東京国立博物館の「白氏詩巻」(はくししかん)、本能寺の「本能寺切」(ほんのうじぎれ)、正木美術館の「後嵯峨院本白氏詩巻」(ごさがいんぼんはくししかん)などに残されおり、いずれも国宝となっています。

藤原行成を超えた伏見天皇

藤原行成に倣った伏見天皇

書道史において、歴朝屈指の能書が第92代の「伏見天皇」(ふしみてんのう)と言うことは常識でした。南北朝時代に成立した「増鏡」(ますかがみ)の第12巻に、伏見天皇に関して「御手もいとめでたく、昔の行成の大納言にもまさり給へる」(とても達筆で、昔の藤原行成よりお上手だ)という証言があるほどです。

実は、そんな伏見天皇が手本にしたのが、藤原行成の書でした。古来、皇族が初めて学習を行なうことを「読書始」(どくしょはじめ)と言います。1276年(建治2年)、当時はまだ皇太子だった伏見天皇が読書始の式を挙げましたが、一説では、このときに手本として選ばれたのが「行成卿記」(こうぜいきょうき)だと伝えられているのです。

藤原行成を超えた「宸翰流」

しかし、伏見天皇は藤原行成の書流をそっくりと受け継いだわけではありません。伏見天皇の父である第89代「後深草天皇」(ごふかくさてんのう)の御代から、日本の書流に大きな変革が起こっていました。

平安時代から鎌倉時代にかけて、日本で武家が台頭したのと時を同じくして、中国(宋)から禅宗が伝えられます。「禅」の教えは、武家の精神と適合し、一気に大人気に。やがて禅宗は、武家だけでなく天皇家の心をも捉え、宸翰にも影響が現われ始めました。これがいわゆる「宸翰流」です。

宸翰流の特徴は、優雅な「和様」と、特徴的な「宋風」の書法の融合。品格の高さと同時に、逞しさと力強さがみなぎるスタイルは、鎌倉時代の日本を席捲しました。

流派が多様化し始めた時代

「尊円流」の祖、尊円親王

その伏見天皇の子供が、前述の尊円親王です。ときは南北朝の真っただなかで、2人の兄は、93代「後伏見天皇」(ごふしみてんのう)、95代「花園天皇」(はなぞのてんのう)として践祚(せんそ:天皇の位につくこと)しましたが、尊円親王は天皇の位には就いていません。

代わりに、藤原行成が興した世尊寺家で書道を学び、父から受け継いだ宸翰流に藤原行成の要素を加え、独自の書流を生み出しました。やわらかな筆致と逞しい力を内包した新しい作風は、「尊円親王」の名を取って「尊円流」(青蓮院流)と呼ばれたのです。

爆発的な分派が始まる

江戸初期に編まれた「古筆流儀別」(こひつりゅうぎわけ)によると、尊円流から多彩な分派が誕生しています。

尊円流の分派

尊円流の分派

なかでも最も後世に最も影響を与えたのが、北朝第5代「後円融天皇」(ごえんゆうてんのう)を始祖とする「勅筆流」(ちょくひつりゅう)でした。後円融天皇の書としては、「永平寺」に残る宸翰の手紙の他、「鹿苑院」(ろくおんいん)の住職に宛てた手紙などが知られます。

その第1皇子、南北朝合体後初の天皇として知られる第100代「後小松天皇」(ごこまつてんのう)も、勅筆流の能書のひとり。金銀泥の秋草下絵の料紙に、王朝風の典雅な書風を残した「秘調伝授書」が、高野山の「西南院」(せいなんいん)に伝えられています。

そのあとも、勅筆流は第102代「後花園天皇」(ごはなぞのてんのう)、第103代「後土御門天皇」(ごつちみかどてんのう)へと受け継がれていきました。

大胆なスタイルの「後柏原院流」

大量の宸翰を遺した後柏原天皇

後柏原天皇

後柏原天皇

後土御門帝の第1皇子、第104代「後柏原天皇」(ごかしわばらてんのう)は、和歌や連歌を好み、和漢の書の講義を聴いたり古典の書写・保存に努めたりしながら、和学の興隆に寄与した人物。

宸翰は、勅筆流に似た流麗さを持ちつつ、文字の太さと細さ、強弱の差が大きく、大胆で豊潤な印象を与えます。この書流を「後柏原院流」と呼び、今日、和歌や詩の懐紙・短冊など、膨大な宸翰が残されているのです。

清廉潔白な能書、後奈良天皇

第105代「後奈良天皇」(ごならてんのう)も、後柏原院流の能書でした。しかし、当時は朝廷の財政が困窮していたため、宸翰を売って収入の足しにしたと言う逸話が残っています。

また、清廉潔白な人柄でも有名で、大名が朝廷に献金して官位を買おうとしたことを知って激怒し、献金を突き返しました。さらに、相次ぐ飢饉と悪疫の流行に心を悩ませ、自ら紺紙に金泥の筆を染め、諸国の寺に「般若心経」を奉安したことでも知られます。

「後柏原院流」の最高峰、正親町天皇

正親町天皇

正親町天皇

続く第106代「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)が即位したのは、まさに群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の戦国末期でした。

即位の翌年に、「木下藤吉郎」(きのしたとうきちろう)が「織田信長」に仕官。さらにその翌年には、織田信長が上洛して「足利義輝」(あしかがよしてる)に謁見した、そんな時代です。

正親町帝の宸翰は、前3代と比べると多くありません。しかし、現存する宸翰は、どれも大輪の牡丹花を思わせるような華麗な筆致が紙面に踊り、後柏原院流の最高峰と言っても過言ではありません。

まとめ

日本の書流は、大きく3つの頂点が存在しています。ひとつ目は藤原行成が完成させた、やわらかく優雅な筆致を持つ「世尊寺流」。

そこに、伏見天皇が宋書の力強さと言う要素を加えた「宸翰流」。そして、後柏原天皇が大胆に文字の大小や細い太いを与えた「後柏原院流」。

これから宸翰を観るときは、まず文字の形や全体の雰囲気に注目すると、書を観る楽しさが大きく広がります。

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