書画・美術品の基礎知識

経典とは

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時の為政者(いせいしゃ:政治を行なう者)や宗教者が、何らかの願いを込めて「写経」(しゃきょう)した「経文」(きょうもん)のことを「願経」(がんきょう)と言います。写経とは、「経典(きょうてん)に書かれた文字を一字一句書き写すこと」で、基本的には書き写した経典と内容は同じ。しかし、写経を行なった人の背景を深く掘り下げると、その願経に込められた様々な想いが見えてくるのです。室町幕府初代将軍「足利尊氏」が発願書写させた「一切経」(いっさいきょう:漢文に訳された仏教聖典の総称)を例に取り、その背景にどんな想いが込められていたかを探ります。

経典(きょうてん)について

仏教の経典は会議で作られた

原始仏教の発祥は、紀元前5世紀のインド北部。ガンジス川流域で活動した「釈迦」の教えがもとになっています。ところが彼の教義は、すべて口伝であったため、釈迦入滅後、その教えを後世に残すには文字にする必要がありました。

そこで、約500名の修行僧がマガタ国のラージャグリハ郊外に集合し、各人が釈迦から聞いた話を持ちより、全員で仏教聖典の編纂(へんさん)を行なったと言います。仏教の経典の多くが「如是我聞」(にょぜがもん)で始まっているのは、そういう理由なのです。

最初に生まれた経典は5,000余

こうして作られた経典を「三蔵」(さんぞう)と言います。当然、これらはインドのパーリ語で書かれていました。2世紀になると中国で漢語に訳す作業が始まり、6世紀には、すべての経典を網羅した「出三蔵記集」(しゅつさんぞうきしゅう)と言う経典集が完成。これが「一切経」(いっさいきょう)です。収められた仏典は、1,076部・5,048巻を数えました。

同じ頃、日本にも百済(くだら/ひゃくさい/ペクチェ:現在の韓国南西部)から仏教が伝来。しかし、一切経が日本に入ってきたのはもっとあとのこと。735年(天平7年)に、遣隋使(けんずいし)の僧「玄昉」(げんぼう)が中国から持ち帰った一切経が初めてと言われます。以降は、これが底本となり、写経が行なわれるようになりました。

写経の目的は布教と研究

日本で最も写経が盛んになったのは、奈良時代です。「聖武天皇」(しょうむてんのう)が仏教の弘通(ぐづう:広めること)を図ったことで、空前の写経ブームが訪れました。都には、官立の写経所まで設立され、国を挙げて写経に取り組んだのです。

しかし、今日のように個人の癒しや精神の安寧を求めて経を書いたのではありません。

印刷がないこの時代、仏教の布教や研究をするには、写経によって教科書を増やすより他に方法がなかったのです。

現世利益のために経を写す

ところで、日本には「言霊」(ことだま)と言う独自の思想が存在します。良い言葉に触れると良いことが起き、悪い言葉に触れると災いに遭う。この「言葉の力が現実世界に影響する」と言う考え方が人々に浸透した結果、写経は聖なる釈迦と一体化する手段であり、「大願成就」や「成仏」に繋がると言う個人の信仰的行為へと変化したのです。

平安時代になると、末法思想の影響から写経した経典を寺院に奉納したり、「経塚」(きょうづか:経典を土中に埋納した塚)に収めたりすることで、自分自身の現世利益や亡くなった人の供養を行なうようになりました。これは、平安末期に武士が政権を担ったあとも続くのです。

足利尊氏が奉納した一切経

足利尊氏が企てた国家的行事

足利尊氏

権力者達が、現世利益を求めて写経した経典の多くは、今日でも国宝重要文化財として残っています。

そのひとつが、足利尊氏が発願し、1354年(文和3年/正平9年)の正月から12月までの1年をかけて書写した一切経の「足利尊氏願経」。実際に写書したのは、足利尊氏本人ではなく、京都・鎌倉の主だった寺院の僧侶達。ただし、各巻の最後に記された署名は、足利尊氏の自筆だと言われています。

書写をした一切経は、自身が建立した京都の「等持寺」(とうじじ:応仁の乱で焼失。足利尊氏の墓所がある[等持院]は当寺の別院)で大規模な供養を実施。当日、滋賀の「園城寺」(三井寺)から100名もの僧が訪れて寄進を依頼され、翌日には園城寺に奉納されました。

残念ながら、現在も園城寺に残っているのは600巻弱に過ぎず、他は「東京大学史料編纂所」をはじめ、全国に点在しています。

一切経を奉納した理由

足利尊氏が1年をかけて5,000巻もの一切経を書写し、園城寺に奉納した理由について、歴史研究家が調べ上げ、その背景にある足利尊氏の想いが分かってきました。

願経に添えられた発願文(ほつがんもん)には、一切経を奉納した目的は、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)や「元弘の乱」(げんこうのらん:または「元弘の変」)以降の戦乱で命を落とした人々の供養と天下泰平の祈念であると記してあります。

確かに、足利尊氏から見れば、建武の中興以前の後醍醐天皇は自分の主人。しかし、その主人に刃向かった自分は朝敵です。そのため、天皇の菩提を弔おうとした気持ちは理解できます。実際、足利尊氏は後醍醐天皇の供養のために京都に「天龍寺」を建立しているのです。

鎌倉幕府の偉功を復活させる

発願文には、もうひとつの理由である足利尊氏の母親のことが記されています。それは、彼女の13回忌供養のため。これだけなら問題ないのですが、そこには別の意味がありました。

大切な人の13回忌で一切経を園城寺に奉納したのは、足利尊氏の他にもう1人います。鎌倉第2代執権「北条泰時」(ほうじょうやすとき)も、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の正室であった「北条政子」(ほうじょうまさこ)の13回忌として、一切経を園城寺に奉納しているのです。

  • 北条泰時

    北条泰時

  • 北条政子

    北条政子

さらに、このときに奉納した経典は「建武の乱」で焼失。そのあと、この経典を補充しようとする人々がいたのですが、後醍醐天皇がそれを許さなかったと伝えられています。

つまり、足利尊氏の「一切経奉納」とは、自分が滅亡に追い込んだ鎌倉幕府の偉功を、後醍醐天皇が許さなかったにもかかわらず、あえて復活させたということなのです。

一切経奉納に潜む真の想い

足利尊氏が尊敬した真の武士

源頼朝

今日の研究では、足利尊氏は自分自身を源頼朝に準(なぞら)えるほど、源頼朝を信奉していたと考えられています。

事実、足利尊氏と源頼朝は、どちらも「八幡太郎」(はちまんたろう)の異名を取る「源義家」(みなもとのよりいえ)を先祖に持つ武者同士。そのような理由もあったためか、足利尊氏は常に源頼朝の事跡を踏襲しようとしていました。

この足利尊氏願経の写経にかかわった人物は、京都・鎌倉などの主だった寺院の僧侶と紹介されました。具体的には、園城寺を筆頭に「大覚寺」、「興福寺」、「東大寺戒壇院」など50以上の寺院が名を連ねていますが、そのなかに「法観寺」(ほうかんじ)という禅寺が含まれています。

これは、592年に夢のお告げを受けた聖徳太子が建立したと言う由緒の古刹(こさつ:古い由緒のある寺)で、京都人は「八坂の塔」と呼んでいます。この寺は、1179年(治承3年)に火災で焼失するも、源頼朝が再建しました。

室町時代に入り、足利尊氏は「夢窓疎石」(むそうそせき)の勧めで全国に「安国寺」と「利生搭」を建立。そのとき、山城国(現在の京都府)における「利生搭」(りしょうとう)を法観寺の「五重塔」に決めたのです。彼にとって、源頼朝が建てた寺は、それほど重要な存在でした。

足利尊氏が園城寺を重視した理由

後鳥羽上皇

後鳥羽上皇

この法観寺の仏舎利塔の再建が叶ったとき、源頼朝が自らの髪を搭に安置したという記録があります。足利尊氏が一切経を納めた園城寺にも「右大将家鬢髪」(うだいしょうけびんぱつ)が納められていると伝えられているのです。右大将とは、源頼朝のことに他なりません。

実際、園城寺と鎌倉幕府の関係は深く、「承久の乱」(じょうきゅうのらん)で、他寺が挙がって後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)に味方したのに対し、単独で鎌倉幕府を支持したのが園城寺でした。

また、中世から近世の古文書を集めた「古簡雑纂」(こかんざっさん)には、園城寺が「望以平相国之衰微、祈以源将軍之繁昌」(平清盛の衰微を望み、源頼朝の繁昌を願う)寺だと紹介されています。そして何より、この寺は北条政子のみならず、源頼朝以下3代の菩提を弔う寺院。それを足利尊氏が知らないはずがありません。

一切経書写に潜む足利尊氏の想い

こうして見ると、足利尊氏が室町幕府を開いたのは、鎌倉幕府を根底から否定しようとしたのではなく、後醍醐天皇によって軌道修正させられた武家政権を、再び「あるべき姿」に戻そうとしていたのだと推察されます。それが、北条泰時の先例をなぞったような足利尊氏願経の発願へと繋がったのです。

まとめ

経典

経典

時の権力者が、信奉する為政者を供養するために願経を奉納するというケースは他にもありました。有名なところでは、江戸時代前期に天台宗の「天海僧正」(てんかいそうじょう:慈眼大師[ぎがんたいし])が徳川家康の33回忌供養のために発願した「天海版一切経」です。これらの経典のひとつひとつに、実は様々なメッセージが込められています。

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