鮮やかな金地に描かれる雅で風流な屏風画。日本を代表する絵師達は、幕府お抱えの「御用絵師」(ごようえし)として、その才能を発揮しました。御用絵師最大の仕事は、幕府の命で行なう城郭建設に伴っての障壁画制作です。障壁画制作のなかには、もちろん屏風も含まれ、数々の名作が生まれました。室町時代から江戸時代にかけて名を馳せたのが「狩野派」(かのうは)と「琳派」(りんぱ)と呼ばれる御用絵師達です。御用絵師のなかでも格式の高い職位は「奥絵師」(おくえし)と称され、世襲されるのが通例でした。先代の持つ画法を忠実に再現しつつも、長い年月をかけて独自の技法を編み出していく様子が、屏風の巨匠達の作品を通して見えてきます。
「狩野永徳」(かのうえいとく)は、安土桃山時代の絵師です。室町幕府の御用絵師であった狩野派の絵師「狩野松栄」(かのうしょうえい)の息子であり「狩野元信」(かのうもとのぶ)の孫にあたります。幼い頃から才能を発揮した狩野永徳は、狩野元信に連れられ、わずか10歳にして13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)に謁見(えっけん)。そこから画壇の頂点への道を駆け上がったのです。
御用絵師として活躍する狩野永徳は、足利義輝以外にも時の権力者である「織田信長」や「豊臣秀吉」の要請に応え、「安土城」(現在の滋賀県近江八幡市)、「大坂城」(現在の大阪城)、「聚楽第」(現在の京都府京都市上京区)に障壁画を制作。数々の作品を生み出したものの、多くは相次ぐ戦火により失われてしまいました。
狩野永徳の晩年は、押し寄せる仕事の依頼で多忙を極めており、死因も過労死と言われています。遺作は、豊臣秀吉より制作を要請されていたとされる「檜図屏風」(ひのきずびょうぶ)です。
檜図屏風は国宝に指定され、現在「東京国立博物館」(東京都台東区)に所蔵されています。
狩野永徳の作品は、壮大な構図と力強い筆致、緻密で華麗な描写が特徴です。もともと狩野永徳は、細画が得意であったとされていましたが、次第に戦国大名などの需要に合わせた勇壮な作風へと変化していきました。屏風に描かれた主題の獅子や花木は、まるで屏風から飛び出さんばかりの勢いを持ち、観る者を圧倒します。
狩野永徳の作風を語る上で対照的に見られているのが、「長谷川等伯」(はせがわとうはく)です。狩野永徳の豪華で力強い画風に比べて、長谷川等伯は風や大気を感じさせるような静けさをまとった絵を水墨画で描きます。2人は同じ時代に奥絵師として活躍し、幕府からの仕事を受ける才人同士でしのぎを削りました。
「洛中洛外図」(らくちゅうらくがいず)とは、京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の風景や風俗を描いた屏風絵のことを言い、様々な絵師によって描かれた定番の画題です。狩野永徳によって描かれた「洛中洛外図屏風」は、初期の作品にあたり、洛中洛外図屏風における最高傑作とされています。
「洛中洛外図屏風」の最大の魅力は、京都の洛中と洛外に描かれた2,500人もの人物です。庶民から貴族まで当時の暮らしぶりを、生き生きとした個性豊かな表情で描いています。
この作品は、足利義輝の要請によって制作されたとされており、1574年(天正2年)3月に織田信長から「上杉謙信」に贈られました。現在は、山形県米沢市の「上杉博物館」で所蔵されています。
「狩野探幽」(かのうたんゆう)は、狩野永徳の次男「狩野孝信」(かのうたかのぶ)の息子として山城国(現在の京都府)で生を受け、若い頃から絵の才能を発揮。10歳で「徳川家康」に謁見し、「徳川秀忠」(とくがわひでただ)からは「祖父永徳の再来」と称賛を受けました。16歳で江戸幕府の御用絵師に抜擢され拠点を江戸へ移すと、翌年父の狩野孝信が他界します。
狩野探幽
狩野探幽が江戸に出ていたため次弟の「狩野尚信」(かのうなおのぶ)が家督を継承。そのあと、狩野尚信を含む狩野宗家が御用絵師として江戸へ召されることになり、江戸へ移った狩野探幽一門を「江戸狩野派」、狩野永徳の養子で京都に残った「狩野山楽」(かのうさんらく)一門を「京狩野派」と呼ぶようになりました。
狩野探幽は、徳川家にまつわる霊廟の装飾や、「江戸城」(東京都千代田区)や大坂城、「二条城」(京都府京都市中京区)、「名古屋城」(愛知県名古屋市)、「京都御所」(京都府京都市上京区)などの障壁画制作で活躍しています。
絵画の世界で、桃山期の豪壮な重みを一挙に払拭してみせたのが狩野探幽でした。極端な墨の濃淡で画面にメリハリを付け、安定した構図と、たっぷりした余白によって爽快な画面を作り出しています。「瀟洒淡白」(しょうしゃたんぱく)と言われるこの探幽様式は、江戸狩野派を形作ったばかりでなく、江戸絵画を象徴する時代様式となりました。
一方で狩野探幽は、大和絵の濃彩画の世界すらも、自らの瀟洒淡白な様式で描き、美しくも軽妙な新しい大和絵を創出。大和絵を描くために行なわれた膨大な写生や古画学習、そしてその過程で作成された古画鑑定書「探幽縮図」(たんゆうしゅくず)は、美術史資料としても貴重な物です。
さらに狩野探幽は、新しい画題の開拓にも積極的に取り組み、絵巻の世界を巨大な掛軸に仕立てた他、写生と水墨の融合を試みるなどし、さらに手掛ける範囲は仏画にまで及びました。
俵屋宗達
「俵屋宗達」(たわらやそうたつ)は、江戸時代初期の画家であり、絵屋「俵屋」を主宰する京都の町衆として、文化人の「本阿弥光悦」(ほんあみこうえつ)らと親交を持っていたとされています。
俵屋宗達の初期の作品には、扇絵や料紙(りょうし:書や絵に使われる用紙)の下絵と思われる作品が多く残っており、装飾的な絵画を制作して販売する絵屋を営んでいたとのことです。
現代では、琳派の偉大なる創始者として評価されている俵屋宗達ですが、実は明治時代まではあまり評価されていませんでした。加えて俵屋宗達の作品には、落款(らっかん:作者直筆の署名や印)があっても多くの場合は制作年が記されておらず、作品を見付けるのが難しかったのです。歴史に名を残した絵師のなかでも、これだけ資料が乏しい人物もあまりいません。
俵屋宗達作品における装飾美の原点とも言えるのが「平安時代の美術」です。「平清盛」(たいらのきよもり)が「厳島神社」(広島県廿日市市)に奉納した「平家納経」(へいけのうきょう)の補修事業に加わり、平安時代の原画を通して王朝美の粋に触れたことは、のちの俵屋宗達作品の方向を決定付けたと言えます。その溢れんばかりの美麗な装飾表現は、俵屋宗達の芸術に水が行き渡るかのように豊かに反映されました。
生涯を通じて、大和絵の伝統を近世化した琳派様式を生み出す一方で、墨の面的表現を追求した独自の画風を示しています。もちろんその背景にある、絵屋を営む中での膨大な作業量を伴った画力の醸成を忘れることはできません。
尾形光琳
「尾形光琳」(おがたこうりん)は、京都有数の呉服商「雁金屋」(かりがねや)の次男として生まれ、裕福な幼少期を送っていました。ところが父の死後、商売もうまくいかず、自活の道を探すことになります。
そこで尾形光琳は、本格的に絵師の道を目指すことを決めたのですが、そのとき尾形光琳は、すでに30代後半に差し掛かろうとしていました。当初は、世間で人気を集める狩野派の絵画を学んでいましたが、尾形光琳が深く心酔したのは江戸時代初期の俵屋宗達だったのです。
俵屋宗達の芸術を学び、継承しつつ発展させながら、斬新な意匠を表わした独特の作品を生み出していきます。尾形光琳は鑑賞用の絵画だけでなく、扇面(せんめん:扇の表面)や団扇(うちわ)などの装飾、陶器の絵付け、蒔絵(まきえ)の意匠など、様々な実用品も手がけました。
「狩野派」と並ぶ琳派として、名前の1字が用いられている尾形光琳。俵屋宗達を尊敬していた尾形光琳は、その技法や表現を大いに学びます。
伝統的な大和絵を基盤にしつつ、恵まれた文化的環境で育った資質を活かして新しい意匠を起案。特に、一定の文様を繰り返し用いる手法は、尾形光琳ならではと言えます。その洗練され、計算しつくされた構図は海外からの人気も別格です。
また尾形光琳には、「尊敬する俵屋宗達をいかに乗り越えるか」という苦闘が見て取れます。それが顕著に出ているのが「風神雷神図屏風」(東京国立博物館所蔵)です。構図は、俵屋宗達の作品を忠実に再現しながらも、細かい部分で尾形光琳独自の解釈が反映されています。
雪舟
「雪舟」(せっしゅう)は、室町時代の画僧(僧籍にある画家)です。生まれは備中国(現在の岡山県西部)で、若くして京都の「西国寺」に入り、禅と画業に励みました。そのあと、遣唐使節団に加わって明(みん:中国の王朝のひとつ)に渡り、当時画壇で主流を占めていた「浙派」(せっぱ)画風を体得します。
帰国してからは九州をはじめ、諸国を巡り「四季山水画」(しきさんすいが)を制作しました。中国の模倣を脱して独自の水墨画を確立した点において功績が大きく、「画聖」(がせい)とも呼ばれています。
雪舟の作品に表われる特徴は、力強い筆致や、大胆ながらも安定感のある構図です。これらは、中国で水墨画を学んだ影響が大きく、そこから雪舟独自の作風への昇華に成功しています。
有名な「達磨」(だるま)の輪郭線の力強さや、手前から奥にかけての空間構成が、雪舟の描く水墨山水画の大きな魅力です。
六曲一双の屏風に、靄に包まれて見え隠れする松林の様子はまさに「幽玄」。墨の濃淡で描かれた松からは、その場を包んでいる大気の感覚までが伝わってくるほどです。
一見優しく描かれているように見えますが、近付いてよく観ると、粗く速い筆致で大胆に描かれていることが分かります。絢爛豪華を特徴とする他の画家の作品とは大きく一線を画す、詩情感と奥深さのある桃山時代を代表する1作です。現在、「東京国立博物館」が所蔵。