武具の基礎知識

砲術とは/鉄砲術

文字サイズ

安土桃山時代には、鉄砲が普及して、どの戦場でも使用されるようになると、射撃の「命中率」が、戦の勝敗を決めると考えられていきます。この命中率を高めるものこそが「砲術」(ほうじゅつ)。大名達は、家臣に砲術を鍛錬させて優秀な人材を選び、鉄砲隊を編成します。江戸時代になると、砲術についての研究が進み、最盛期には400もの流派が誕生しました。武術としての砲術の歴史や流派について、詳しくご紹介します。

火縄銃・短銃・大筒・和製西洋式銃写真/画像火縄銃・短銃・大筒・和製西洋式銃写真/画像
生産地や流派によって様々な個性を持つ火縄銃・大筒をご覧頂けます。

砲術武芸の歴史

「砲術」とは?

砲術

砲術

「砲術」とは、「鉄砲」(火縄銃)による武芸のこと。1543年(天文12年)に種子島(現在の鹿児島県)に、新兵器「鉄砲」が伝来したことにより誕生し、1869年(明治2年)に明治政府が「古流武芸の停止令」を発令するまで、3世紀にも亘って流行しました。

種子島領主「種子島時尭」(たねがしまときたか)が、ポルトガルの商人から鉄砲を2挺購入したのが砲術のはじまり。

種子島時尭は、刀工「八板金兵衛清定」(やいたきんべえきよさだ)に鉄砲の構造を、家臣「篠川小四郎」(しのかわこしろう)に火薬の作り方と銃の操法を学ばせ、鉄砲の模造に成功しました。鉄砲の威力はすさまじく、離れた場所から瞬時に敵を倒せると注目の的に。特に、篠川小四郞の操法の腕前は、百発百中と言われていました。

これを聞いたのが、種子島からいちばん近い薩摩国(現在の鹿児島県)の守護大名「島津義久」(しまづよしひさ)や、紀伊国(現在の和歌山県)の武将「津田監物算長」(つだけんもつかずなが)などです。津田監物算長達は、早速種子島に渡り、鉄砲を学びます。これが武道と結び付いて発展したのが、武芸としての術なのです。

砲術の発達史

砲術の発達と砲術流派

砲術は3世紀に亘って流行し、その発達と歴史は、大きく5期に分けることができます。

第1期 1543年(天文12年)~1615年(慶長20年/元和元年)
第2期 1616年(元和2年)~1672年(寛文12年)
第3期 1673年(寛文13年/延宝元年)~1777年(安永6年)
第4期 1778年(安永7年)~1807年(文化4年)
第5期 1808年(文化5年)~1869年(明治2年)

第1期の第一人者となったのは、種子島時尭とその家臣・篠川小四郎です。種子島時尭は、篠川小四郎に銃の操法や火薬の作り方を学ばせました。そこで、鉄砲は操作方法が簡単ではなく、教授を必要とするものだと分かるのです。そして、種子島時尭の命により、篠川小四郎を祖として誕生したのが、「種子島流」と言われています。

この種子島流を学んだ者が、故郷に鉄砲を持ち帰って複製し、鉄砲の使い方を教授する独自の砲術の流派を創始します。さらに外国製の「南蛮筒」(なんばんづつ:海外製の鉄砲)をそのまま模した「種子島筒」は、実際に使用しやすいように改良されていくのです。砲術の教授を生業とする人は「砲術武芸者」と呼ばれるようにもなりました。

この時代には、代表的な砲術流派が生まれており、その代表例をいくつかをご紹介します。

津田流砲術:第1期

楠木正成

楠木正成

「津田流砲術」を創始したのは、「津田監物算長」です。津田監物算長は、紀伊国吐崎城(はんざきじょう)城主。南北朝時代に活躍した武将「楠木正成」(くすのきまさしげ)の末裔と自称した人物です。

種子島に渡って、種子島時尭と「皿伊旦崙」(ベイタロ)から鉄砲を学び、故郷の根来(ねごろ:現在の和歌山県岩出市)に帰り津田流砲術を創始します。永禄年間(1558~1570年)には、射撃法の秘伝書が作成され始めました。

真義真言宗の本山、「根来寺」の子院「杉之坊」の院主となり、鉄砲武装集団「根来衆」(ねごろしゅう)を統率しました。戦国大名に雇われて戦に赴くことが多くなり、やがて最強の軍事勢力となったのです。しかし、津田監物算長は、1567年(永禄10年)に天寿を全うしました。

そのあと、津田流砲術は、長男「津田算正」(つだかずまさ)、次男「津田明算」(つだめいさん:津田自由斎[のちに自由斎流を開祖])に継承されます。1570年(元亀元年)から始まった「石山合戦」では、津田流砲術(根来衆)は、石山本願寺(現在の大阪府)に味方して「織田信長」と対立。しかし、のちに織田信長とも手を結びます。

ところが「本能寺の変」で織田信長が亡くなると、「織田信雄」(おだのぶかつ)と手を結んだ「徳川家康」に味方して「小牧・長久手の戦い」に出兵し「豊臣秀吉」と対立することになったのです。その結果、1585年(天正13年)豊臣秀吉の「根来攻め」に遭い、津田流砲術(根来衆)は滅亡しました。

稲富流砲術:第1~2期

「稲富流砲術」(いなとみりゅうほうじゅつ)は、「稲富一夢」(いなとみいちむ)を開祖とする一門で、別名は一夢流と言います。稲富一夢の祖父「稲富直時」が、近江国(現在の滋賀県)の「佐々木少輔次郎義国」(ささきしょうふじろうよしくに)から相伝された種子島直伝の鉄砲術をもとに、自己の創意を加えて、1554年(天文23年)に創始しました。

はじめ丹後国(現在の京都府)守護「一色満信」(いっしきみつのぶ)に仕え、主君亡きあとは、豊臣秀吉の勧めで小倉藩(現在の福岡県)初代藩主「細川忠興」(ほそかわただおき)に仕えて老職に。1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」では、大坂の細川邸の留守を任されますが、石田三成軍に攻められて逃亡したため、厳しく非難されました。

しかし、尾張清州(現在の愛知県清須市)の「松平忠吉」(まつだいらただよし:徳川家康の四男)に救われ、のちに初代尾張藩主「徳川義直」(とくがわよしなお:徳川家康の九男)に仕え、江戸幕府の鉄砲政策に携わりました。稲富一夢が作った伝書は25巻にのぼると言われます。射手の姿勢を裸形で描き、照尺で遠距離射撃を順次図解にしたのが特徴です。

合戦の街 関ヶ原
「関ヶ原の戦い」の経緯や結末、関ヶ原の現在についてご紹介します。
岐阜関ケ原古戦場記念館
「岐阜関ケ原古戦場記念館」の体験コーナーや展示内容など、施設の魅力をご紹介します。

田付流砲術:第1~5期

「田付流砲術」(たつけりゅうほうじゅつ)は、近江国田付村(現在の滋賀県彦根市田附町)出身の「田付景澄」(たつけかげすみ)を祖とする流派。田付景澄は、1568年に織田信長によって、父「田付景定」が自害させられ、苦労して育ちました。摂津国三田(現在の兵庫県三田市)で砲術を学び、徳川家康の家臣となります。

この田付景澄は、稲富一夢、安見元勝と共に、「鉄砲3名人」と呼ばれた人物です。

主に外国製の火縄銃や大筒を担当し、江戸幕府の鉄砲方として、幕末まで仕えたと言われています。田付家は江戸時代初期こそ500石の旗本でしたが、のちに田付流3代目「田付景利」(たつけかげとし)からは「火付盗賊改方」(ひつけとうぞくあらためかた:江戸時代に主に重罪である火付け[放火]、盗賊[押し込み強盗団]、賭博を取り締まった役職のこと)も兼任。田付流の火縄銃は、銃床が直線に切られているという特徴があります。

関流砲術:第2~5期

「関流砲術」(せきりゅうほうじゅつ)は、上杉家家臣の「関之信」(せきゆきのぶ、別称:関八左衛門)を祖とする流派です。1617年(元和3年)に創設。「種子島流」から分派し、「南蛮流」とも言われます。

関之信は、幼少より鍛錬に励んで皆伝したのち、さらに江戸幕府の砲術師である「稲富流」、「田付流」、「井上流」に師事しました。関流の銃は、独自の仕様をしており、技術の高い鉄砲鍛冶に特注した秀作と言われています。

肉薄の銃身に猿渡りという長い用心金が特徴で、大筒など口径が大きい物を撃つことを得意とする流派でした。当初は上総国(現在の千葉県市原市)の「久留里藩」に仕えましたが、藩が改易されたことから「土浦藩」に移り、その流儀は明治維新まで伝えられました。

高島流砲術:第5期

高島秋帆

高島秋帆

「高島流砲術」(たかしまりゅうほうじゅつ)は、「高島秋帆」(たかしましゅうはん)を祖とした流派です。

高島秋帆は、日本の砲術が西洋砲術に及ばないと痛感。オランダ商館付武官「スチュレル」に師事して西洋砲術を習得し、1840年(天保11年)に幕府に西洋砲術の採用を上申し、そのあと、高島流砲術を確立しました。

そして、1856年(安政3年)には、講武所砲術師範役に抜擢。高島流は西洋式でオランダの砲術を参考にしていることから、号令はすべてオランダ語で行なわれることが特徴です。

鉄砲の生産地

鉄砲の生産地と有力武将

種子島時尭が、鉄砲の模造に成功すると、まず種子島からいちばん近い薩摩国守護大名の島津義久に鉄砲1挺を献上。それを島津義久が、室町幕府12代将軍「足利義晴」(あしかがよしはる)に献上し、足利義晴が近江国(現在の滋賀県)の国友村の鍛冶に鉄砲を作らせたことで普及したと伝えられています。

なお、足利義晴の息子・室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)も、かなり鉄砲を好み、南蛮筒をはじめ多くの鉄砲を所有したことで有名です。また、津田監物算長は、1544年(天文13年)に、種子島から故郷の根来(現在の和歌山県)に鉄砲1挺を持ち帰り、この地で刀鍛冶をしていた「芝辻清右衛門」(しばつじせいえもん:別名は妙西)に、研究させ、1545年(天文14年)に製造したのが、紀州第1号の鉄砲と言われています。さらに、芝辻清右衛門は堺(現在の大阪府堺市)に移住したことで、鉄砲は大量生産されるようになったと言われています。

そこで、鉄砲の生産地と有力武将の関係をいくつかご紹介します。

国友筒と足利義晴・織田信長・徳川家康

長篠の戦い

長篠の戦い

「国友筒」(くにともづつ)とは、国友村(現在の滋賀県長浜市国友町)の鉄砲鍛冶によって制作された鉄砲のこと。

1544年(天文13年)室町幕府12代将軍足利義晴の命を受けて、幕府官領(かんれい)の「細川晴元」(ほそかわはるもと)が村を訪ねたのがはじまりと言われています。

国友筒の特徴は、良質な鉄と木材にこだわっていること。国友筒は織田信長が重用し、1570年(元亀元年)「姉川の戦い」、1575年(天正3年)「長篠の戦い」で使用したと伝わっています。なお徳川家康も、1614年(慶長19年)「大坂冬の陣・夏の陣」で国友筒を大量に使用しました。

堺筒と織田信長

「堺筒」(さかいづつ)とは、堺の鉄砲鍛冶によって制作された鉄砲。堺の商人「橘屋又三郎」(たちばなやまたさぶろう)が種子島に赴き、八板金兵衛清定から鉄砲製造技術を習得。堺に帰り、鉄砲を分業で大量生産することに大成功したため、「鉄砲又」(てっぽうまた)と呼ばれていました。

なお、根来で鉄砲鍛冶をしていた芝辻清右衛門も、のちに堺に移住しています。堺筒は、主に西国の武将が買い求め、1575年の長篠の戦いでは、前述した国友筒のほかに、堺筒も使用されたと伝えられています。機能よりも装飾を重んじたという、とても華麗な鉄砲。堺筒の鉄砲鍛冶としては、「井上関右衛門」(いのうえせきえもん)が有名です。

豊後筒と大友宗麟

大友宗麟

大友宗麟

豊後筒とは、豊後(現在の大分県)の鉄砲鍛冶によって制作された鉄砲。

鍛冶「伊東祐益」(いとうすけます)が1546年(天文15年)に種子島に渡り、10年間鉄砲の技術を習得し、「大友宗麟」(おおともそうりん)に仕えたと言われています。

大友宗麟は、九州6ヵ国(豊後、筑前、筑後、肥後、肥前、豊前)を制圧した戦国武将。1578年(天正6年)に薩摩の「島津義久」(しまづよしひさ)と戦って大敗。織田信長に協力を求めましたが、織田信長が亡くなり、豊臣秀吉の傘下に入りました。このほかにも、薩摩藩が使用した「薩摩筒」、仙台藩が使用した「仙台筒」、土佐藩が使用した「土佐筒」など、各藩によって、いくつもの火縄銃が開発されました。

各藩は戦で勝つために各砲術流派を抱えていましたが、その砲術は軍事上の秘密とされたため、砲術の詳細については今でも多くの謎に包まれています。

砲術とは/鉄砲術

砲術とは/鉄砲術をSNSでシェアする

「武具の基礎知識」の記事を読む


鐙とは

鐙とは
「鐙」(あぶみ)とは、「鞍」(くら)の両側に下げ、騎乗時に足を乗せる馬具の一種。馬具がない時代、馬に乗るのは騎馬民族のように小さな頃から鍛錬をした者の特殊技能でした。そこで、「手綱」(たづな)や「轡」(くつわ)など多くの馬具が考案され、騎乗するための器具が揃っていきます。鐙は、騎乗の際にどんな変化をもたらしたのでしょうか。鐙についてご紹介していきます。

鐙とは

鞍(くら)と鐙(あぶみ)の基本

鞍(くら)と鐙(あぶみ)の基本
「鞍」(くら)も「鐙」(あぶみ)も馬具の一種で、馬に乗る際に必要な道具です。それらの歴史は長く、鞍と鐙が地名や寺院名の由来となることも多くありました。また現代でも、競馬や馬術競技には欠かせない道具でもあります。鞍と鐙は、日本人とどのようにかかわってきたのでしょうか。その基本と歴史、逸話について解説していきます。

鞍(くら)と鐙(あぶみ)の基本

馬具の世界的ブランド

馬具の世界的ブランド
馬具ブランドには、長い歴史のなかで培ってきた技術力と深みがあり、それらを活かした商品は現在に至るまで高い人気を誇っています。例えば、世界的な高級ブランド「グッチ」や「エルメス」などは、もともと馬具メーカーから始まったのです。馬に乗ることは高等な嗜みでした。馬具は、上流階級の人々のニーズも適していたため、馬具メーカーはそのブランド力を基礎としてファッションの世界へも進出していきます。それら馬具ブランドの歴史について見ていきましょう。

馬具の世界的ブランド

馬具の種類と歴史

馬具の種類と歴史
馬を制御する道具「馬具」には多くの種類があり、歴史の中で様々に変化し、その時々における創意工夫は非常に優れています。馬具の誕生は紀元前にさかのぼり、乗馬の文化と共に日本に伝来しました。伝来した馬具は、日本国内の戦や長距離移動のなかで発展し、現在も競馬用や馬術競技用として、形も用途も変えながら進化を続けているのです。ここでは、馬具の名称と馬具ごとの歴史について迫っていきます。

馬具の種類と歴史

騎馬隊と流鏑馬

騎馬隊と流鏑馬
「騎馬隊」と言えば、「武田信玄」の「武田騎馬軍団」が有名で、戦国時代に活躍したと言われています。一方の「流鏑馬」は、「やぶさめ」と読み、疾走する馬上から矢が放たれるときの迫力は圧倒的です。 ここでは、流鏑馬をより楽しむことができるよう、騎馬隊と流鏑馬の歴史を詳しく解説していきます。

騎馬隊と流鏑馬

弓術とは

弓術とは
日本では、縄文時代から弓矢が使われていました。のちの戦国時代を経て、火縄銃が登場するまで武器の主流として戦術の要を担ってきたのです。その歴史の中で、様々な「弓術」(きゅうじゅつ)も誕生。流派や理念も多彩に広がっていきました。現代に伝えられる技術も少なくありません。 ここでは、日本の弓術における歴史を紐解き、理念や流派などを併せて解説します。

弓術とは

弓矢の歴史

弓矢の歴史
弓矢は、狩猟の道具として作られた武器です。間接的に遠方の標的を仕留められることから、霊力が宿る神聖な道具と見なされるようになり、祈祷や魔除けなどの道具として使われるようになりました。また、対人用の武器として合戦に導入されてからは、合戦の形態に合わせて弓矢も徐々に形状や構造が変わっていき、鉄砲が登場するまでは主要武器として長く使用されます。狩猟用武器として作り出されてから現代に至るまで、弓矢がどのような変化を遂げたのか。日本における弓矢の歴史をご紹介します。

弓矢の歴史

弓・弓矢の基本知識

弓・弓矢の基本知識
「弓矢」は、狩猟用に生み出された武具です。遠方の獲物に気付かれず、素早く仕留められる優れた狩猟道具であることから、世界各地で開発・改良されました。日本における弓矢は、西洋の弓矢と構造や形状が異なっているため、「和弓」とも呼ばれています。和弓は、現代でも競技の一種「弓道」で扱われ、その形状の美しさだけではなく、弓矢を構える姿の格好良さから海外でも人気です。「和弓」の特徴と共に「弓の名手」と呼ばれた武将たちの逸話をご紹介します。

弓・弓矢の基本知識

矢の基礎知識

矢の基礎知識
古くから「矢」は、遠方の敵や対象を素早く射止める狩猟道具として世界各国で用いられてきました。一般的に矢の構造は、矢の端に鳥の羽を、もう片側の端に突き刺す道具である刺突具(しとつぐ)を取り付けた物です。日本では、原始時代から使われており、その構造は、先端に石や動物の骨を尖らせて作った「鏃」(やじり)を付けた簡易な物でした。しかし、時代や使途目的によって、繰り返し改良や開発が行なわれ、今、私達が目にする形となったのです 今私達が目にする形となったのです。 狩猟の他にも弓道や神事など多くの場面で使用されている矢。矢の基礎知識では、基本的な構造と共に、特徴や種類についてご紹介します。

矢の基礎知識

注目ワード
注目ワード