戦国時代の姫・女武将一覧

妙林尼

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戦国時代において、もっとも勇敢な女武将だったと言われる「妙林尼」(みょうりんに)。豊後国(ぶんごのくに:現在の大分県)を中心とした大友氏の家臣「吉岡鑑興」(よしおかあきおき)の正室で、夫の死後、智謀に長けた戦果を挙げたことで有名です。妙林尼の居城であった「鶴崎城」(つるさきじょう)で起こった戦では、妙林尼自らが指揮を執り、幾度となく攻撃を受けながらも敵軍を退け、奪還したことが伝わっています。

妙林尼の生い立ち

妙林尼のイラスト

妙林尼

妙林尼」(みょうりんに)は戦国時代、最も勇敢な女武将だったと言われていますが、その本名や生年月日、没年数などは不明。

父親は「大江神社」(おおえじんじゃ)の神主「林左京亮」(はやしさきょうのすけ)、もしくは原鉱石採掘を生業とする国士「丹生小次郎正敏」(にゅうこじろうまさとし)と言われていますが、どちらも確実ではありません。

母親が誰なのかも明記されておらず、謎に包まれています。

また、妙林尼という名は出家後に付けられた法号であり、本来の名前も不明。

しかし、一般的には法号に出家前の本名を1字付けることが多いため、「林」、「林子」、「妙」等が名前の候補と考えられています。

当時の家系図には、男子の名を載せるのみで女子の名は「娘」とだけ書き入れるのが一般的でした。そのため、その他の史料の記述に登場しなければ、名前も分からない女性がほとんどだったと言います。

妙林尼のはじめの半生は、ほとんどの女性と同じく一般的な生活を送っていました。そんな妙林尼は、豊後国(ぶんごのくに:現在の大分県)をはじめとした北九州を支配する、戦国大名・大友家の家臣「吉岡鑑興」(よしおかあきおき)に輿入れしたのです。

夫の死と妙林尼の出家

耳川の戦いにより、夫の吉岡鑑興と死別

妙林尼は、その生い立ちに歴史的史料がほとんどありませんが、唯一間違いのないことが、吉岡鑑興の正室であったということ。吉岡氏は大友氏の一族として扱われており、吉岡鑑興の父である「吉岡長増」(よしおかながます)は大友家の政治を担当した中心人物でした。

当時の九州は、妙林尼の属する北九州を支配する大友氏と、薩摩国(さつまのくに:現在の鹿児島県西部)から勢力を伸ばしていた島津氏に2分されていました。領地の拡大を図る島津氏は、大隅国(おおすみのくに:現在の鹿児島県東部)、日向国(ひゅうがのくに:現在の宮崎県)を次々と手に入れ、北上していきます。

大友宗麟

大友宗麟

大友家の21代当主「大友義鎮」(おおともよししげ)のちの「大友宗麟」(おおともそうりん)は、日向国を取り戻すため、1578年(天正6年)、日向国高城川原(現在の宮崎県木城町)で「島津義久」(しまづよしひさ)率いる島津軍と全面衝突。

当初は大友軍が優勢だったものの、島津軍の策にかかり「耳川の戦い」(みみかわのたたかい)で多くの将兵が戦死、敗北しました。

戦死者のなかには、妙林尼の夫・吉岡鑑興もおり、妙林尼は夫の菩提を弔うために出家し、妙林尼と名乗るようになりました。

島津軍が吉岡氏の居城「鶴崎城」へ侵攻

耳川の戦いにて大勝を収めた島津軍は、そのまま北上し、豊後に進軍を開始。これに危機感を抱いた大友義鎮は、天下統一を目前にした「豊臣秀吉」に自ら臣従し、庇護を求めました。

これを了承した豊臣秀吉は、讃岐の「仙石秀久」(せんごくひでひさ)、土佐の「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)らを援軍に派遣しますが、敗退。勢い付いた島津軍は、大友義鎮の居城である「丹生島城」(にゅうじまじょう)のちの「臼杵城」(うすきじょう)へ進軍を開始しました。

そして同時に、妙林尼の息子「吉岡統増」(よしおかむねます)が治める「鶴崎城」(つるさきじょう)の攻略を始めます。

このとき、城主である吉岡統増は、主君・大友義鎮と共に丹生島城に籠城中。若い兵も鶴崎城から出払っており、結果、最終的に鶴崎城に残ったのが、鶴崎城の指揮の一切を託された妙林尼とその家臣達、老兵、女性、子供のみとなってしまいました。

妙林尼の武勇①「鶴崎城攻防戦」

圧倒的戦力差を前にしても籠城を決意

鶴崎城跡の石碑

鶴崎城跡の石碑

1586年(天正14年)島津義久は、「伊集院美作守久宣」(いじゅういんみまさかのかみひでのぶ)、「野村備中守文綱」(のむらびっちゅうのかみふみつな)、「白浜周防守重政」(しらはますおうのかみしげまさ)らに鶴崎城の攻略を命ずると、3,000の兵を派兵し鶴崎城を包囲します。

島津軍の圧倒的な戦力とは裏腹に、鶴崎城に残された人々は今まで戦ったことがないような女性や子供と、力のない老兵ばかりでした。

普通なら命が助かることを優先し、降伏するところ。しかし、妙林尼は戦力の違いを見せ付けられながらも、籠城で対抗することを決意します。

島津軍に立ち向かい智謀を尽くす妙林尼

当然、若い兵達は、城主の吉岡統増と共に丹生島城で交戦中のため、戦の指揮は妙林尼が執ることとなりました。戦に出たことのない女子供に、鉄砲の撃ち方など、武具の扱い方を教え、城に残された者全員で戦い抜いたとされています。

さらに、鶴崎城は守りに優れた城でした。城の東西と北は、海や川に面しているため、攻められる箇所は南側のみ。そのため、守りに徹するのに予測を立てやすい利点もあったのです。

妙林尼達は、島津軍が攻めてくるであろう城の南側に落とし穴を作ったり、索敵のために鳴子を置き、そこを狙えるように鉄砲隊を置いたりすることで敵を待ち構え、敵の攻撃を防ぎました。

武力で圧倒的に勝っている島津軍は、鶴崎城を力で圧して攻略をしようとします。しかし、妙林尼らも負けじと応戦し、この攻防は16回にも亘ることとなりました。破竹の勢いであった島津軍の将を、老兵や女子供を率いた妙林尼は退けたのです。

この鶴崎城の攻防戦の偉業は、後世まで語り継がれており、現在の大分県大分市には、鶴崎の守護神として妙林尼の銅像が建立されています。

全員の命を保障に鶴崎城を開城

妙林尼ら鶴崎城側は、多彩な罠によって島津軍を見事退けましたが、16回にも及ぶ攻防戦のなかで、食料や体力の限界がやってきました。

また、粘り強いと言われる島津軍側も鶴崎城を攻めあぐねており、最終的には全員の命を保証することを条件に、開城することを島津軍は要求。防御の限界を感じていた妙林尼もこれに同意し、和睦が成立します。

しかし、妙林尼はまだ鶴崎城を諦めた訳ではありませんでした。

妙林尼の武勇②「寺司浜の戦い」

敵を油断させる妙林尼の策略

鶴崎城を開城する代わりに命を保証された妙林尼らは、地下に住むことを許されます。妙林尼ら城の女性は、3人の将達をはじめとする島津軍へ、毎夜、酒などを振舞い、接待をしました。そのような妙林尼に、将のひとりであった野村備中守文綱は、次第に恋心を抱くようになったと言われています。

これに気付いた妙林尼は、この恋心を利用しようと画策を始めます。

妙林尼が、島津軍に鶴崎城を明け渡した翌年である1587年(天正15年)、豊臣秀吉が20万人もの大軍勢を率いて「九州征伐」を開始。島津軍を討伐しようと動き出します。これを日向で迎え撃とうと考えた島津軍は、鶴崎城に駐留する3将にも合流を命じました。

このとき、野村備中守文綱から「あなたは豊後を裏切ったことになるので、この場所にいることは叶わないでしょう。もし良ければ、一緒に薩摩に行きませんか?」と誘いを受けています。

妙林尼は、この言葉を待っていたかの如く同意すると、気を良くした野村備中守文綱に、さらに酒を飲ませて泥酔させました。野村備中守文綱が泥酔しているのを確認すると、妙林尼は吉岡家の家臣達へ檄文を飛ばし、決戦のときが来たことを伝えたのです。

奇襲攻撃を仕掛け、鶴崎城を奪還

豊臣秀吉が来る前に出発を試みた野村備中守文綱は、妙林尼にも共に来るよう促しました。しかし妙林尼は、「準備があるため、あとで侍女と一緒に向かいます」と約束をし、野村備中守文綱を先に行かせたのです。

こうして3将率いる島津軍が日向へと進んでいたところへ、檄文を読み身を潜めていた吉岡家の人間が、乙津川(おとづがわ)のあたりで一斉に島津軍へ襲い掛かりました。この奇襲攻撃は成功。大激戦の末、見事に島津軍を倒したのでした。

この戦いは「寺司浜の戦い」(てらじはまのたたかい)もしくは「乙津川の戦い」(おとづがわのたたかい)と言われています。3人の将のうち、伊集院美作守久宣、白浜周防守重政は討死。野村備中守文綱は、流れ矢に射られながらも日向まで落ち延びますが、この傷が原因で息を引き取ったとされています。こうして、妙林尼は鶴岡城を奪還することに成功、島津軍へ夫・吉岡鑑興の仇討ちを果たすことができたのでした。

63もの侍首を手土産とする

この寺司浜の戦いで、吉岡軍は島津軍の軍勢約300人の家臣を倒した記録が残されています。さらに、この奇襲作戦を実行した翌日、妙林尼は討ち取った島津軍の63もの首を、丹生島城にいる大友義鎮に届けました。鶴崎城を奪還しただけでなく、島津軍を討伐した妙林尼に対して、大友義鎮は「尼の身として稀代の忠節、古今絶頼也」と称賛の声を上げたと言われています。

そして、多くの島津軍が討たれた寺司浜には「千人塚」と呼ばれる、島津兵の遺体が集められた場所が築かれました。しかし、この千人塚を立てたことによって、近くの村に災いが起こるようになったと言われています。

この千人塚の災いにより、寺司浜の住民は住むことができなくなり、村を退くことになりました。そのため、亡くなった島津兵を弔うために、千人塚の上に地蔵尊を祀ると、不思議なことに、今まで起こっていた天災などの災いが治まったのです。

今でもこの地蔵尊は、寺司浜地蔵尊として祀られ、供養が続けられています。

戦いのあとの妙林尼と鶴崎城

戦いのあとは一介の尼となり消息を絶つ

妙林尼が様々な策を弄して、島津軍を打倒したことを知った豊臣秀吉は、その武功を称え、面会を申し出ましたが、妙林尼はこれを辞退。妙林尼は報酬や名声には全く興味がなく、吉岡家当主である息子から託された鶴崎城を城代として守るため、島津軍に討ち取られた夫の仇討ちのため、を取ったのではないかと言われています。

その戦いののち、妙林尼は歴史上に姿を見せることなく消息を絶っています。戦国時代にあっても、出家した身でありながら、智謀を尽くして戦い抜いた彼女以上の女武将はいないでしょう。

鶴崎城のその後

加藤清正

加藤清正

妙林尼によって守られた鶴崎城でしたが、1593年(文禄2年)、吉岡氏は主君の大友氏が改易されると浪人の身となり、鶴崎城は廃城となってしまいました。

そののち、1601年(慶長6年)「関ヶ原の戦い」後、鶴崎は熊本城の城主である「加藤清正」(かとうきよまさ)の領地となり、天草の替え地として選ばれます。

熊本藩主となった加藤清正は、鶴崎城を「熊本藩鶴崎御茶屋」(くまもとはんつるさきおちゃや:藩主が領内を巡視、往来をする際の宿泊所のこと)へと改修。

御茶屋には、御茶屋敷をはじめとする多くの役所や、役人などの詰所が設けられ、藩政に大きく貢献しました。1633年(寛永10年)、加藤清正に代わり細川氏が熊本藩主として選ばれた際も、御茶屋はそのまま引き継がれていったのです。

また、1860年(万延元年)幕末になると「成美館」(せいびかん)という藩校が建てられ、鶴崎城跡は文学と武芸の学びの地となります。現在は、鶴崎小学校があり、校庭には鶴崎城跡の石碑が建立されています。

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