戦国時代の姫・女武将一覧

まつ(芳春院)

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「前田利家」の正室である「芳春院」(ほうしゅんいん)通称「まつ」は、前田利家を支えることで、前田家を豊臣政権の重要な地位に導いた女性。前田利家の没後は「徳川家康」から謀反の疑いをかけられ、これを晴らすために、天下にかかわる重大な決断をし、加賀120万石の礎を築きました。ここでは、豊臣政権内でのまつの待遇や逸話、前田利家が亡くなったあとに下した、まつの決断などについてご紹介します。

まつと夫・前田利家

従兄弟・前田利家に嫁ぐ

まつ(芳春院)のイラスト

まつ(芳春院)

「まつ」は、1547年(天文16年)に「織田信秀」(おだのぶひで)に仕えていた「篠原一計」(しのはらかずえ)の娘として生まれました。

父が亡くなると、まつの母「竹野氏」は、尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)の守護「斯波家」(しばけ)の家臣「高畠直吉」(たかはたさだよし)と結婚したため、母の妹「長齢院」(ちょうれいいん)が嫁いでいた「荒子城」(あらこじょう:現在の愛知県名古屋市中川区)の城主「前田利昌」(まえだとしまさ)のもとで育てられました。

まつは12歳になると、前田利昌の四男「前田利家」と結婚。

なお、まつの母と前田利家の母は姉妹であったため、まつと前田利家は従姉妹同士で夫婦となったのです。

しかし、その翌年に前田利家は、主君「織田信長」が寵愛していた同朋衆(どうぼうしゅう)を斬ったことで出仕停止の処分を受け、浪人となってしまいました。

夫・前田利家の出世とその活躍

前田利家

前田利家

前田利家は織田信長の許しを得ないまま、1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)に参加。

敵の首を獲りましたが、織田信長に許して貰えなかったため、1561年(永禄4年)にも無断で「森部の戦い」(もりべのたたかい)に出陣します。

そして敵方の「足立六兵衛」(あだちろくべえ)を討ち取り、出仕停止処分がようやく取り消され、所領の加増を受けたのです。

前田利昌が死去すると、荒子城は当初、前田利家の兄「前田利久」(まえだとしひさ)が継いでいましたが、1569年(永禄12年)に織田信長の命によって、その武功が評価されていた前田利家が入城。

これ以降、前田利家は織田信長に従軍し「姉川の戦い」や「長篠の戦い」(ながしののたたかい)などに参加。「越前府中城」(えちぜんふちゅうじょう:現在の福井県越前市)3万3,000石を賜り、大名となりました。

結婚して1年後、前田利家とまつの間には、長女「幸姫」(こうひめ)が誕生し、そのあとも次々と授かり、2男9女もの子どもを儲けたのです。そして前田利家とまつは、家族ぐるみで交流があり、子どものいなかった「豊臣秀吉」と「ねね」のちの「高台院」(こうだいいん)夫妻に、四女「豪姫」(ごうひめ)を養女として差し出します。

また、豊臣秀吉の母「大政所」(おおまんどころ)とも、親しい付き合いがあったと言われています。そののち、三女の「摩阿姫」(まあひめ)が豊臣秀吉の側室となり、前田家豊臣家はより一層強い絆で結ばれたのです。

前田家の危機

前田利家は1581年(天正9年)、能登国(のとのくに:現在の石川県北部)23万石を織田家より与えられ、国持大名になりました。

ところが、1582年(天正10年)に「明智光秀」が起こした「本能寺の変」により、織田信長が自刃させられたという知らせが届きます。そのあと、本能寺の変から10日あまりの間に、豊臣秀吉が明智光秀を討ち、織田信長の後継者として頭角を現しました。

さらには、織田家を継いでいた「織田信忠」(おだのぶただ)も明智光秀に殺害されていたため、同家の後継者問題が浮上したのです。

これを解決すべく行なわれた「清洲会議」(きよすかいぎ)では、織田家の筆頭家老「柴田勝家」は、織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)を推挙しますが、豊臣秀吉は織田信忠の嫡男「三法師」(さんぼうし)を後押ししたのです。

その結果、織田家の跡目は三法師が継ぐことになりましたが、まだ幼かったため、その後見人を織田信長の三男「織田信孝」(おだのぶたか)が務めることに決まりました。これにより、豊臣秀吉と柴田勝家の対立が決定的になったのです。

しかしこの頃の前田利家は、与力(よりき)として柴田勝家に従っていたため、親友の豊臣秀吉と戦わなければならなくなりました。

そして1583年(天正11年)、豊臣軍と柴田軍の間で「賤ヶ岳の戦い」(しずがだけのたたかい)が勃発。同合戦において前田利家は、5,000の兵を連れて出陣しましたが戦わずに退却。これが決定打となったことで柴田軍は総崩れとなり、撤退することになったのです。

豊臣政権下での前田利家とまつ

賤ヶ岳の戦い後、前田利家は「加賀国」(かがのくに:現在の石川県南部)内で2郡を加増され、嫡男「前田利長」(まえだとしなが)も、同国の「松任城」(まっとうじょう:現在の石川県白山市)4万石を与えられました。そして、前田利家は豊臣政権下において、ますます重要な存在になっていきます。

例えば朝鮮出兵の際に、豊臣秀吉が母・大政所の危篤の知らせを受け、京都に戻っていたとき、代わりに政務を担っていたのは「徳川家康」と前田利家でした。これに加えて前田利家は官位も上がり、「大納言」(だいなごん)に任ぜられたのです。

豊臣政権における前田利家の地位が上がっていくにしたがって、この他の諸大名も前田利家を頼るようになります。1595年(文禄4年)に「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)の切腹事件のときには「浅野幸長」(あさのよしなが)が連座で配流されましたが、前田利家の取り成しにより間もなく許されたのです。

そして前田利家は、豊臣秀吉に嫡子「豊臣秀頼」(とよとみひでより)が誕生した際に、豊臣秀頼の「傅役」(もりやく/ふやく:貴人の世継ぎの世話をする教育係)となり、「五大老」にも任命されました。

豊臣政権での前田利家の地位が上がったこと、そして、ねねとまつが親密な関係を築いていたことなどから、まつ自身も別格の待遇を受けるようになります。それがよく分かるのが、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が開催した「醍醐の花見」(だいごのはなみ)での逸話です。

淀殿

淀殿

この催しに豊臣秀吉は、徳川家康など諸大名の妻や、女性の使用人などを招待。

そのなかには、豊臣秀頼やその生母の「淀殿」(よどどの)、豊臣秀吉の正室・ねねもいました。

しかし、その宴席の場での盃(さかずき)を受ける順番を巡り、名門・京極家出身の「松の丸殿」(まつのまるどの)と淀殿が揉めたことが伝えられています。

そのとき、ねねとまつが仲裁に入り、その場を丸く収めたことにより、まつの名前は世の中により広く知られるところとなりました。

前田利家の没後、まつが下した決断とは

1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると、その遺言通り「大坂城」(現在の大阪城)に前田利家が入り、「伏見城」(ふしみじょう:現在の京都府京都市伏見区)には徳川家康が入りましたが、このとき徳川家康は、天下を手中に収めるため、すでに動き出していたのです。

まず、徳川家康は豊臣秀吉が禁じていた大名間の婚姻を進めていきます。このとき、前田利家そして徳川家康それぞれの屋敷に多くの大名が集まり、大きな騒動に発展。豊臣秀吉に仕えていた「加藤清正」や「細川忠興」(ほそかわただおき)などが前田利家を慕い、その屋敷に集まったと言われています。

結局、前田利家は徳川家康と誓紙(せいし:誓いの言葉が記された紙)を交わし穏便に済ませましたが、世の中では次の天下人は前田利家か、それとも徳川家康になるのかを窺う雰囲気が漂っていました。

1599年(慶長4年)に前田利家が亡くなると、まつはその菩提(ぼだい)を弔うために出家して「芳春院」(ほうしゅんいん)と号します。そんななか、前田家に謀反の疑いがあるとして、徳川家康が加賀征伐を計画。

前田利長は、金沢で迎え撃とうと交戦を主張しましたが、まつはこれを拒否し、疑いを晴らすために自分が人質となって江戸に行くことを決意しました。これがのちに、江戸幕府で大名の妻子に江戸常住を義務付ける最初の例となったのです。

このまつの決断により、徳川家康の天下人への流れが一気に加速。前田利家が死去したと言っても、前田利長は父の跡を継ぎ徳川家康と同じく、五大老のひとりになっていました。徳川家に唯一対抗できると目されていた前田家が徳川家に下ったことで、両者の天下争いは徳川家康に軍配が上がったのです。

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