戦国時代の姫・女武将一覧

土田御前

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「土田御前」(どたごぜん/つちだごぜん)とは、「織田信長」の実母。「織田信秀」と結ばれて、織田信長、「織田信勝/織田信行」(おだのぶかつ/おだのぶゆき)、「織田信包」(おだのぶかね)、「お市の方」など、複数の子宝に恵まれましたが、なぜか織田信長のことは可愛がらず、織田信勝のことを溺愛したと伝えられる人物です。その偏った愛情が、織田信長の人間形成に暗い影を落としたとも言われます。土田御前はなぜそのような毒母と化したのでしょうか。土田御前についてご紹介します。

土田御前とは?

土田御前の出自と経歴

土田御前のイラスト

土田御前

「土田御前」(どたごぜん/つちだごぜん)の出自は、一般的に美濃国(みののくに:現在の岐阜県)「土田家」(どたけ)と言われています。

土田家とは、平安時代後期の武将「木曾義仲/源義仲」(きそよしなか/みなもとのよしなか)の有力家臣で「義仲四天王」と称されていた「根井行親」(ねのいゆきちか)の末裔。

根井行親の子孫は、近江国蒲生郡(おうみのくにがもうぐん:現在の滋賀県)から美濃国可児郡(現在の岐阜県可児市)の木曽川河畔にある「土田村」(どたむら)に移住します。

土田山(どたやま)にある大井戸渡しを支配し、田んぼを開墾。そののち、どんどん領土を増やし最終的には「土田」(どた)の姓を名乗るようになりました。

のちに「土田秀定」(どたひでさだ)という人物が、明智家の娘婿となり、明智家の家臣として働くようになったとされています。

それをきっかけとして土田家は勢力を拡大し、1400年(応永7年)代後半頃に「土田城」(どたじょう)を作りました。

また、それだけではなく土田御前の出自は、尾張清州の「土田」(つちだ)であるとも、「六角高頼」(ろっかくたかより)の娘、または「小嶋信房」の娘であるとも書かれていることがあり謎めいています。そんな土田御前は「織田信秀」に嫁ぎました。

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土田御前を正室として迎えた織田信秀とは

織田信秀は、織田家の分家である勝幡城(しょばたじょう:現在の愛知県愛西市稲沢市)の城主で、清州三奉行のひとりです。17歳で家督を継ぎ、智勇に優れた武将であったと言われています。最初の正室として「織田達勝」(おだみちかつ)の娘を娶りましたが離縁したため、土田御前が継室(後妻であるが正室と同じ立場)になったのです。

土田御前は織田信秀にとても愛され、その証拠として「織田信長」、「織田信勝/織田信行」(おだのぶかつ/おだのぶゆき)、「織田信包」(おだのぶかね)、「お市の方」、「犬姫」など、何人もの子供に恵まれています。※実子に関しては、諸説あり。

織田信秀は、他にも商業における活性化を図ったとされ、常に先を見通しながら戦略を練っていた軍師としても剛腕の武将です。「大うつけ」と言われていた織田信長に対して、様々な点で手助けをしてきたとも言われています。

さらには、土田御前以外にも側室を置き、すべて合わせると息子は12人、娘は10人以上。政略結婚が当たり前の戦国時代、織田信秀はどれだけ織田家の規模拡大に力を入れていた武将であったのかが分かるのです。

織田家の来歴をはじめ、ゆかりの武具などを紹介します。

土田御前の2人の息子

織田信長

織田信長

織田信長

織田信長は、戦国時代において最も有名と言える武将です。

織田信長は、1534年(天文3年)生まれ。織田信秀の次男ですが、長男「織田信広」(おだのぶひろ)は側室の子で家督相続権がないため、実質の長男。母は土田御前です。

そんな織田信長は、母親である土田御前からは愛されていなかったとよく言われています。

実は武家の慣例により、織田信長を嫡男としてしっかりと育てるため、実母である土田御前ではなく、乳母が育てました。織田信長は、赤ちゃんの頃から癇癪持ちで、乳母をたびたび困らせていたとのこと。幼少期は悪戯が多く、身分というものを嫌い、民衆と同じように町の若者と戯れる毎日を過ごす変わり者で「尾張の大うつけもの」と言われていました。

このような評判が、土田御前の肩身を狭くしたのかもしれません。しかし、成長した織田信長は全国統一を志すようになったのです。

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織田信勝(織田信行)

一方、土田御前に愛された息子として有名なのは、織田信勝です。

織田信勝は、織田信秀と土田御前との間に生まれた、織田信秀の三男(実質の次男)。通称は「勘十郎」です。土田御前は、織田信長のときとは違い、夫の織田信秀と共に「古渡城」(ふるわたりじょう:現在の愛知県名古屋市西区)に住み、自分の手元で織田信勝を育て溺愛しました。織田信勝は、温厚な性格で品行方正。家臣からも慕われ、将来の跡継ぎは織田信勝が良いと多くの者に考えられていたのです。

そんな織田信勝は、跡継ぎを意識するようになります。しかし、年の順から言うと、織田信長が跡継ぎになる可能性が高く、織田信勝は織田信長に対して、対抗意識を持つようになるのです。

織田信勝は、母の愛を知って育ちました。一方、織田信長は母親とは離れて暮らし「大うつけもの」と呼ばれて、母親の土田御前に毛嫌いされていたのです。この母親からの愛情の違いが、2人の兄弟に大きな溝を作っていったと言われています。

そんななか、父である織田信秀が死亡。「信長公記」によると、織田信勝は正装で葬儀に参列。一方の織田信長は、父の位牌に抹香(まっこう:焼香に用いられる粉末の香料)を投げ付けるという愚行を行なったと記載されています。この織田家にまつわる事件を見ても、織田信長と織田信勝の性格が正反対だということが分かるのです。

土田御前が家督争いをけしかける!?

稲生の戦いとは

「稲生の戦い」(いのうのたたかい)とは、1556年(弘治2年)に織田信長と織田信勝の間で起こった合戦です。なんと2人の母親である土田御前が、織田信長を倒すため織田信勝に家督争いをけしかけたと言われています。

父の織田信秀が亡くなると、一旦は織田信長が跡を継ぎ、織田信勝は織田信秀の居城「末森城」(現在の愛知県名古屋市千種区)を譲られ、母の土田御前と共に暮らしていました。

柴田勝家

柴田勝家

しかし、家臣「林秀貞」(はやしひでさだ)や「柴田勝家」(しばたかついえ)は、織田信勝に織田家の家督を継がせたいと、織田信長を討ち倒す策略を練りだしたのです。

それを察知した織田信長は「佐久間重盛」(さくましげもり)に命令し、名塚(なづか:現在の愛知県名古屋市西区)に砦を設けて、戦の準備を開始。

このとき、織田信長の軍は佐久間重盛、「森可成」(もりよしなり)、「佐久間信盛」(さくまのぶもり)、「前田利家」(まえだとしいえ)、「丹羽長秀」(にわながひで)など、合わせて700人足らずしかいなかったとされています。

一方、織田信勝が率いる軍は1,700人。圧倒的に織田信長が不利でしたが、織田信長率いる軍団はかなり強く、圧倒的な人員差にも怯むことなく奮闘。次々と敵将を倒して勢いを取り戻し、最終的には織田信勝軍を倒してしまったのです。織田信勝は敗走し、末森城に籠城しました。

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土田御前が織田信長に許しを請う

織田信勝は、織田信長を倒すことに失敗して籠城し、追い詰められていました。しかし、土田御前が織田信長に織田信勝を許してくれるように頼み出たのです。

実の母親に裏切られた気持ちであろう織田信長でしたが、織田信長も土田御前の息子であり織田信勝の兄という立場からか、一度は許したという記録が残っています。

しかし、生き永らえた織田信勝は、1557年(弘治3年)再び謀反を企てるのです。ところが、家臣の柴田勝家は織田信勝を見限り、織田信長へこれを密告。

一度は命乞いをしてまで生き延びたにもかかわらず、再び謀反を企てようとしたと知ったときの、織田信長の心情はどのようだったのでしょうか。織田信長は、2度と許すまいと仮病を装い、清洲城に織田信勝を見舞いに来させる作戦に出ます。そこで織田信勝を殺害したのです。

織田信長と土田御前との関係性

織田信長は母を憎んでいなかった

織田信長は、織田信勝は殺害した一方で、土田御前を庇うかの如く一緒に過ごしました。

織田信長と土田御前との関係性ですが、ここまでの話を見ていくと、織田信長は母親に愛されることなく常に恨まれる存在であったかのように思われます。しかし、織田信長は母親である土田御前を恨んではいなかったようなのです。

なぜなら、のちに「本能寺の変」が起こったときには、土田御前を自らのお城である安土城、もしくは城下の屋敷に住まわせていたから。恨んでいたならば、一緒に住むことはないだろうと思います。ただ住まわせていただけでなく、面倒まで見ていた記録もあるので、母親には特別な感情を持っていたのでしょう。

また、織田信長を嫌っていたと言われる土田御前ですが、織田信長が仮病という手を使ったときに、織田信勝に対して「兄のお見舞いに行きなさい」と促しています。本当に織田信長のことが嫌いであれば、そのような言葉は出ないのではないでしょうか。

そののち、土田御前は織田信長や、その子ども達である長男「織田信忠」(おだのぶただ)、次男「織田信雄」(おだのぶかつ)、三男「織田信孝」(おだのぶたか)、お市の方の子どもである「茶々」(ちゃちゃ)、「」(はつ)、「」(ごう)などと仲良く暮らしました。

織田信長亡きあとの土田御前

本能寺の変とは

本能寺の変

本能寺の変

織田信長は、全国統一を目指していましたが、1582年(天正10年)家臣「明智光秀」の謀反によって自害へと追い込まれます。これが、かの有名な本能寺の変です。

しかし、不思議なことに織田信長の死体は見付からなかったとされています。

このとき、土田御前は織田信長が居住していた安土城に住んでいましたが、「蒲生賢秀」(がもうかたひで:蒲生氏郷[がもううじさと]の父)達によって救出され、日野城を経て、織田信包がいる安濃城(あのうじょう)に逃れました。

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織田信長の死後は、孫の織田信雄の擁護を受けた

織田信長が亡くなったあとは、孫である織田信雄の擁護を受けます。土田御前は「大方殿」(おおかたどの)と呼ばれ、640貫分の化粧料(生活費)を与えられていた記録が残されており、織田信雄が改易されたのちは、伊勢国(いせのくに:現在の三重県)にある織田信包の家に引き取られ、1594年(文禄3年)の1月7日に亡くなりました。お墓は、三重県津市にある「四天王寺」にあり、今でも安らかに眠っています。

土田御前の銅像がある岐阜県可児市

土田御前が生まれたのは、今の岐阜県にある可児市だと言われています。ただ、生誕については諸説あり確証はありません。しかし、現在において岐阜県可児市土田には「土田城史跡」もあり、土田御前の像が建てられています。

土田御前の銅像は、幼い織田信長を抱いた仲睦まじい様子なのが印象的。大うつけものとして織田信長を嫌っていた「毒母」と言われる土田御前ですが、この銅像の柔和な表情のなかに、初めて授かった子どもである織田信長のことを愛していない訳がない、という意味が含まれているのではないでしょうか。

土田御前

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