戦国時代の姫・女武将一覧

竹林院

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「竹林院」(ちくりんいん)は、戦国時代において「日本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と称された名将「真田幸村/真田信繁」(さなだゆきむら/さなだのぶしげ)の正室です。戦国武将のなかでも特に人気が高い真田幸村を、妻としてどのように支えたのか、史実と共にご紹介します。

竹林院の出生

竹林院のイラスト

竹林院

「竹林院」(ちくりんいん)は法号で、生前は「安岐姫」(あきひめ)または「利世」(りよ)で通っていました。

生年や実母は不明瞭ですが、父親は「豊臣秀吉」の家臣として異例のスピード出世を果たしたとされる大名「大谷吉継」(おおたによしつぐ)。

その縁から竹林院は豊臣秀吉による政略結婚として、1589年(天正17年)ごろに、「真田幸村/真田信繁」(さなだゆきむら/さなだのぶしげ)に嫁ぎました。

竹林院は最期まで豊臣軍として戦った真田幸村を語る上でも重要な人物と言えます。

また、真田幸村には他にも側室がいましたが、竹林院が真田幸村の嫡男「真田大助」(さなだだいすけ)のちの「真田幸昌」(さなだゆきまさ)を産んだため正室となりました。

真田幸村の出生

真田幸村(真田信繁)

真田幸村(真田信繁)

真田幸村は、信濃国(しなののくに:現在の長野県)の上田城城主「真田昌幸」(さなだまさゆき)と、「山手殿」(やまのてどの)の次男として誕生。

19歳のとき、人質として越後国(えちごのくに:現在の新潟県)の上杉家へ送られたものの、上杉家からは武士としての才能を見込まれ、家臣と同等の扱いを受けていたと言われています。

また、上杉家から戻ったあとも、父・真田昌幸の策略により豊臣秀吉に仕えました。

真田幸村は竹林院の他に、家臣「堀田興重」(ほったおきしげ)の娘、家臣「高梨内記」(たかなしないき)の娘、「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)の娘なども側室に迎え、嫡子は合わせて12人にのぼります。

戦国武将「真田幸村」 YouTube動画

戦国武将「真田幸村」

真田丸
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武将イラスト・合戦イラスト集では、戦国時代に活躍した武将達を中心に、今にも動き出しそうなリアルタッチで描いたイラストを掲載しています。

運命を変えた関ヶ原の合戦

関ヶ原の戦いとは

1600年(慶長5年)に起こった「関ヶ原の戦い」は、「天下分け目の戦い」と評される、安土・桃山時代最大の合戦です。豊臣秀吉が亡くなったあと「石田三成」(いしだみつなり)を中心とする西軍、「徳川家康」を中心とする東軍が関ヶ原で激突しました。

総勢約10万の兵を率いる西軍に対して、東軍は約7万。西軍は、関ヶ原の地理的条件を活かした布陣で、東軍を迎え撃ちます。対して、徳川家康は外交手腕により、西軍に属していた大名の多くを東軍に寝返らせ、結局東軍が勝利を収めるのです。

このとき、竹林院は西軍の人質として、義母の山手殿と共に大坂にいたとされますが、父の大谷吉継の計らいで無事に保護されています。

合戦の街 関ヶ原
「関ヶ原の戦い」の経緯や結末、関ヶ原の現在についてご紹介します。

兄弟で東軍と西軍に分かれて参戦

関ヶ原の戦いでは、真田幸村は父と共に西軍に、兄の「真田信之」(さなだのぶゆき)は、正室「小松姫」(こまつひめ)が徳川家康の養女だったこともあり、東軍として出陣。どちらが勝っても真田家が存続できるように、親子で東西軍に分かれたと言われています。

真田幸村は、父と共に関ヶ原へ向かっていた「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の軍を引き留めるなど西軍に貢献。しかし、肝心の関ヶ原で西軍が敗退してしまいます。真田幸村と真田昌幸は、真田信之の配慮により、なんとか死罪を免れますが、高野山麓の九度山に幽閉させられることとなったのです。

竹林院の父・大谷吉継は自害

大谷吉継

大谷吉継

盟友の石田三成に賛同し、西軍に付いた竹林院の父・大谷吉継。

石田三成に、徳川家康に勝つ見込みはないことや、人望のなさを指摘して徳川家康との戦いを避けるよう画策しますが、石田三成を止めることはできず、決死の覚悟で出陣することに。

しかし、西軍から東軍へ寝返った「小早川秀秋」(こばやかわひであき)により、大谷吉継の隊は壊滅状態となり、ついに大谷吉継は戦場で自害してしまいます。戦国時代における大谷吉継の武功は大きく、偉大な父を亡くした竹林院の心情は計り知れません。

幽閉先の九度山で待望の嫡男が誕生

嫡男・真田幸昌の誕生

関ヶ原の戦いのあと、徳川家康の命で紀伊国(きいのくに:現在の和歌山県)九度山に幽閉されることになった真田昌幸と真田幸村。竹林院も側室や子供達と共に、九度山で暮らすことになります。九度山では、真田幸村と竹林院の間に嫡男・真田幸昌や次男、2人の娘が誕生。戦いの日々から離れ、夫婦水入らずのときを過ごしたと言えます。

真田紐の行商で資金と情報を収集

上田領を取り上げられたこともあり、貧しい暮らしを強いられていた真田家。竹林院は「真田紐」と呼ばれる、刀剣を巻く頑丈な紐を作り、家臣に行商させて家計を助けたという伝承があり、その行商を通じて諸国の動向を探っていたとも言われています。

大名の娘だった竹林院ですが、側室の子供達も引き取って育てるなど、困窮を極める生活のなかでも真田幸村を献身的に支えていたのです。

また、真田幸村は隠棲にあっても兵術や天文を学び、長男・真田幸昌と水練を行なうなど、将来を見据えた生活を送っていました。しかし、九度山での生活は14年にも及び、1611年(慶長16年)竹林院の義父・真田昌幸は失意のなか、病により亡くなります。

運命を決した「大坂冬の陣・夏の陣」

恩義に応えるため、大坂へ集結

大坂城(大阪城)

大坂城(大阪城)

1614年(慶長19年)、いよいよ九度山を下りるときがやってきました。

徳川家康と「豊臣秀頼」(とよとみひでより)による「大坂冬の陣・夏の陣」の勃発です。

豊臣秀頼の使者より招集依頼を受け取った真田幸村は、豊臣軍への従軍を決意し九度山をあとにして「大坂城」(現在の大阪城)へ向かいます。

竹林院や側室、子供達も大坂城内の屋敷に移住。竹林院は、戦場に向かう息子・真田幸昌を「自分達のことは気にせず、父と生死を共にするように」と言って送り出しました。軍師として名を馳せた大谷吉継を父に持つ竹林院らしく、息子を鼓舞したのです。この言葉を贈ったあと、竹林院は大坂城を離れへと逃れました。

真田幸村・真田幸昌の死

大坂冬の陣では、圧倒的な守備力を誇る大坂城での籠城策を採った豊臣軍。真田幸村は、大坂城唯一の弱点である南面の防衛をかってでます。出丸(防衛施設)の「真田丸」を築造し、迫りくる徳川軍を次々と迎撃。真田幸村の活躍もあり、豊臣軍と徳川軍は休戦することになりました。

しかし休戦も束の間、再び両軍の関係は悪化。大坂夏の陣の勃発です。

冬の陣の講和条件により、大坂城は防衛機能をほぼ失っていたため、豊臣軍のできる策は野戦のみ。決死の覚悟で戦いに臨む真田幸村は、不利な戦況にも臆することなく徳川軍の本陣まで切り込む猛攻を見せます。

しかし、あと一歩のところで真田幸村は討死。また、真田幸村の命で、大坂城に籠城していた豊臣秀頼のもとへ戻った息子・真田幸昌も、豊臣秀頼と共に自害しました。これにより豊臣家は滅亡し、徳川家康が勝利を収めたことで戦国時代は幕を閉じます。

京都でこの世を去った竹林院

大坂夏の陣のあと、徳川家康は真田幸村の正室である竹林院の捜索を開始します。竹林院は娘の「あぐり」と共に、紀伊国の伊都郡(いとぐん)に身を潜めていましたが、紀伊藩主により徳川家康に引渡されてしまいます。

そののち、竹林院の罪は許されたため「石川貞清」(いしかわさだきよ)のもとへ嫁いでいた娘「おかね」を頼り、晩年は京都で過ごしました。名将・真田幸村を、不遇のときも支え続けた竹林院は、1649年(慶安2年)にその生涯を終えました。

現在は、京都の「龍安寺」(りょうあんじ)境内にある「大珠院」(だいしゅいん)に真田幸村、真田幸昌と共に眠っています。

竹林院

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