戦国時代の姫・女武将一覧

豪姫

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「豊臣秀吉」の養女として、安土桃山時代から江戸時代初期までを生き抜いてきた「豪姫」(ごうひめ)。その人生をたどると、まるでドラマのような軌跡で、現在でも語り継がれている逸話は多いのです。結婚相手の「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)とは生涯仲睦まじい関係だったという点でも、戦国時代の女性としては他と一線を画していると言えます。
しかし、宇喜多氏の改易などを経て状況は悪化。豪姫と宇喜多秀家は離れ離れになってしまい、苦しい思いもしました。晩年にはキリスト教の洗礼を受けて移住したという経緯もあります。そんな豪姫は、一体どのような人生を歩んだのでしょうか。豪姫の生涯と、そのなかで起きたドラマに焦点を当てて解説します。

豪姫の出生から豊臣秀吉の養子になるまで

織田氏家臣の家に生まれる

豪姫のイラスト

豪姫

「豪姫」(ごうひめ)は1574年(天正2年)、尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)にて、織田氏の家臣である戦国大名「前田利家」(まえだとしいえ)の四女として生まれました。

織田氏は、日本の氏族・武家のなかでも由緒ある一族のひとつであるため、出自は身分の高い家柄なのが分かります。

生母は前田利家の正室であり「篠原一計」(しのはらかずえ)の子にあたる「まつ」。

このように豪姫は、家系にも恵まれた環境ですくすくと育っていきました。そして、2歳のときから運命が大きく動き出します。

2歳のときに豊臣秀吉の養女に

豪姫が2歳になったとき、父である前田利家が、当時は「羽柴秀吉」のちの「豊臣秀吉」との関係を親密にすべく、子どもがいなかった豊臣秀吉夫妻に、豪姫を養女として送り出したのです。

豪姫がまだ幼かったこともあり、豊臣秀吉夫妻は養女を歓迎。心から可愛がったとされ、前田利家との信頼関係も熟成したと伝えられています。

一時は姫路城にいたとされる

姫路城

姫路城

豊臣秀吉は、養女の豪姫を可愛がっただけでなく、その賢さにも一目置いており「もし豪姫が男だったのなら関白を譲っていた」という言葉を残していたほどです。

当時、豊臣秀吉が播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南西部)・但馬国(たじまのくに:現在の兵庫県北部)攻略の拠点としていた「姫路城」(現在の兵庫県姫路市)にも同行させていたという話も伝えられています。

そのような環境で豪姫はつつがなく成長し、1588年(天正16年)に運命の人と出会うのです。

日本の城 姫路城 YouTube動画

「姫路城」国宝5城・現存12天守

豪姫が宇喜多秀家の妻として生きるまで

織田家家臣という由緒正しい家系に生まれ、2歳になる頃には豊臣秀吉の養女として引き取られた豪姫。養女として迎えられたあとは、秘蔵っ子として大変可愛がられてすくすく育っていきました。そんな豪姫も、ついに妻として嫁ぐ年齢になります。誰のもとに嫁ぎ、妻として生きていくことになったのでしょうか。

15歳で宇喜多秀家の妻として嫁ぐ

宇喜多秀家

宇喜多秀家

1588年(天正16年)に、彼女の人生は大きく動き出します。

現在の岡山県にあたる備前国(びぜんのくに:現在の岡山県南東部)の戦国大名「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)の妻として嫁ぐことになったのです。

豪姫15歳、宇喜多秀家は17歳。宇喜多秀家もまた豊臣秀吉の養子でした。

その婚姻により、豪姫は周りから「備前御方」と呼ばれることとなったのです。なお、婚姻の時期は諸説あり、1586年(天正14年)だったとも言われています。

宇喜多秀家と結婚した豪姫は「宇喜多秀高」(うきたひでたか)、「宇喜多秀継」(うきたひでつぐ)、「理松院」(りしょういん)ら3男2女を授かりました。夫婦の関係は非常に良好で、仲睦まじかったとのこと。

子宝にも恵まれ関係も良好と、まさに順風満帆な人生を送っていましたが、あるできごとを境に状況が一変することになります。

宇喜多氏の改易で状況が一変

豊臣秀吉の死後、内部の政争を発端として、1600年(慶長5年)に「関ヶ原の戦い」が勃発しました。その戦いに、豪姫の夫である宇喜多秀家は「毛利輝元」(もうりてるもと)を総大将とする西軍の中心人物として加わることになります。そして戦いは、西軍の大敗で幕を閉じました。

合戦後、宇喜多秀家は改易され、身分や土地などを没収されることになったのです。その状況から逃れるため、宇喜多秀家は敵軍からの逃走を図ります。敵軍に追われた宇喜多秀家は、かろうじて薩摩(現在の鹿児島県)に逃げ込むことに成功。

そして、薩摩を拠点にしている大名家である島津氏に匿って貰えることになりました。薩摩で状況が変わるまで潜伏しようとした矢先の1602年(慶長7年)、さらなる試練が訪れます。

合戦の街 関ヶ原
「関ヶ原の戦い」の経緯や結末、関ヶ原の現在についてご紹介します。

1602年(慶長7年)になると状況がさらに悪化

八丈島

八丈島

島津氏が宇喜多秀家を匿っていることが噂になり、島津氏は庇い続けることが困難になったため、宇喜多秀家を「徳川家康」に引渡すことにしました。

このとき、宇喜多秀家の死罪は濃厚という状況でしたが、豪姫と兄である「前田利長」(まえだとしなが)、島津家当主「島津忠恒」(しまづただつね)の3人の嘆願によって、流罪まで罪を軽くすることに成功します。

もともと豪姫は聡明な女性と評されており、その賢さを活かして根回しを行なったことが功を奏したのです。そして、豪姫も一緒に流罪になる意思を伝えていましたが、徳川家康は豪姫を不問とし、一緒に流罪になることは叶いませんでした。

豪姫の尽力があっても、これ以上状況は変えられず、宇喜多秀家は1606年(慶長11年)に息子2人と共に八丈島(現在の東京都八丈町)へ流罪となり、豪姫とも離れ離れになります。こうして順風満帆な人生から一転、夫や子どもと離れ、豪姫は孤独の身となってしまいました。

流罪後も関係は続くことに

八丈島に流罪となった宇喜多秀家は厳しい状況に立たされます。これまでは一国の大名として、位も高く順調な生活であったのに対し、八丈島では日々の糧にも困る有様。例えば、八丈島の代官に呼ばれた宇喜多秀家は、握り飯を振る舞われますが、ひとつだけ食べて残りは息子達に持ち帰っていたと言われています。

その状況を聞いた豪姫は、弟であり加賀3代藩主である「前田利常」(まえだとしつね)と協力し、江戸幕府と交渉。その甲斐あって、1614年(慶長19年)からは定期的に食料や金品を送ることができました。

その仕送りは豪姫が亡くなったあと、宇喜多家が解放されるまで続いていたと伝えられています。このように流罪になり、離れ離れになっても宇喜多秀家の身を案じて仕送りを続けた一途さは、まさにドラマのようです。

前田利常
戦国武将を主に、様々な珍説をまとめました。

豪姫の晩年

戦国大名の正室として、子宝にも恵まれて順風満帆な生活を送っていましたが、関ヶ原の戦いを契機に夫や子ども達と離ればなれになり、孤独の身となってしまった豪姫。そのあとどのような人生を送ったのでしょうか。豪姫の晩年を振り返っていきます。

洗礼を受けたあと金沢へ

宇喜多家が没落したあと、豪姫は豊臣秀吉の正室でもある「ねね」のちの「高台院」(こうだいいん)に仕えていました。仕えている間にキリスト教の洗礼を受け、「マリア」という名前を授かることになります。

宇喜多秀家の流罪が執行された翌年の1607年(慶長12年)には、豪姫は金沢に引き取られました。その際、豪姫は「化粧料」という名目で、1,500石を受け取って金沢西町に居住したとされています。

1634年(寛永11年)に享年61歳で幕を閉じる

金沢に移り住んでからも、豪姫は再婚することなくひっそりと暮らし、1634年(寛永11年)に61歳で人生の幕を下ろしました。

葬儀は家臣である「中村次郎兵衛」(なかむらじろうべえ)など縁のある者によって、浄土宗「大蓮寺」(だいれんじ:石川県金沢市)で行なわれたとされています。なお、葬儀には宇喜多家の旧臣と前田家の両家が参加していたとのことで、いかに豪姫が愛されていたのかが分かります。豪姫は石川県金沢市の「野田山墓地」で眠っているとのことです。

時を経て夫と再会するまで

豪姫は、宇喜多秀家が八丈島へ流罪となったあとも夫を献身的に援助し続け、いつかまた息子達と共に出会うことを夢見ていました。そんな豪姫は、夫や子ども達と再会することはできたのでしょうか。最後に、後世の人々の手によって、宇喜多秀家と再会するまでの軌跡を辿っていきます。

夫とは再会することなく人生の幕を閉じる

豪姫は、宇喜多秀家が流罪になったあとも、毎年白米を70俵、金子を35両、その他医薬品などを八丈島へ援助。いつか罪が免除され、本土に戻って夫と再会することを望んでいたと言われていますが、結局その夢は叶いませんでした。

豪姫は、献身的に援助を続けていた最中の1634年(寛永11年)に61歳で生涯を終えます。葬儀は宇喜多氏の菩提寺と浄土宗大蓮寺で行なわれ、その生涯で夫と再会を果たすことはありませんでした。

豪姫が、夫である宇喜多秀家と最後に会ったのは、薩摩へ逃れる途中で立ち寄った大坂の備前屋敷。ここで数日間豪姫と過ごしたあとに、宇喜多秀家は薩摩に向かったのです。そののち、再会が叶わなかったとは言え、豪姫は他家へ嫁ぐこともなく半生を援助に捧げ続けました。

400年後、別の形で「再会」することに

豪姫と宇喜多秀家は、生涯で再会することはありませんでしたが、400年後に別の形で再会を果たします。

きっかけは宇喜多秀家が築いた「岡山城」(現在の岡山県岡山市)が築城400年を迎えたこと。それを記念し、1997年(平成9年)に宇喜多秀家と豪姫の像が雛人形のように隣り合わせに並んで、八丈島の海岸に建てられたのです。

関ヶ原の戦いに敗れ大坂で豪姫と別れてから、約400年。会おうにも会えなかった2人が、八丈島でついに再会を果たしました。2人の像は仲睦まじく同じ太平洋を眺め続けています。

豪姫

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