戦国時代の姫・女武将一覧

京極マリア

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「浅井長政」(あざいながまさ)の姉であった「京極マリア」(きょうごくまりあ)は、キリスト教の熱心な信徒でした。キリスト教と出会う以前の京極マリアは、夫「京極高吉」(きょうごくたかよし)と弟の浅井長政が戦をしたり、夫と各地を転々としたりするなど波乱な人生を送っていましたが、キリスト教に出会ってからは、一変することになります。「豊臣秀吉」による「バテレン追放令」や、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の時代に「禁教令」が発布されても、変わらずキリスト教を信仰し続けていたのです。
ここでは、戦国時代を生きた女性として、キリスト教の布教活動にその生涯を捧げた京極マリアについてご紹介します。

浅井家のために主家・京極家に嫁ぐ

浅井久政の娘として生まれる

京極マリア

京極マリア

「京極マリア」(きょうごくまりあ)は、1542年(天文11年)に北近江の戦国大名であり、浅井家(あざいけ)の2代目当主でもあった「浅井久政」(あざいひさまさ)の次女として生まれました。

この頃の浅井家は、南近江を領していた「六角家」(ろっかくけ)の支配下にあり、衰退の一途を辿っていた状況だったため「浅井長政」(あざいながまさ)は、「六角義賢」(ろっかくよしかた)の名前にある「賢」の字を偏諱(へんき)として賜り、「浅井賢政」(あざいかたまさ)と名乗らされていたのです。

さらには、六角家の家臣「平井定武」(ひらいさだたけ)の娘を浅井長政が娶らされるなど、浅井家は六角家に対して完全に従属する態度を示しており、また浅井家の当主であった浅井久政は、六角家との関係が対等でないことを受け入れていたので、浅井家中から不満の声が上がっていたと言われています。

しかし、このような六角家からの支配は、浅井長政が当主になると変化していきます。

1560年(永禄3年)、まだ15歳であった浅井長政が「野良田の戦い」(のらだのたたかい)で六角軍を破ったことで、浅井家は六角家の支配から脱却し、浅井長政は六角家との主従関係を完全に切るため、妻と離縁し平井定武のもとに送り返しました。

またこのとき、六角家からの扱いに不満を持っていた浅井家の家臣達は、浅井久政を隠居させ、浅井長政に家督を継いで貰うことを迫ったと伝えられています。

浅井家の来歴をはじめ、ゆかりの武具などを紹介します。

京極高吉に嫁いだ京極マリア

京極マリアは、浅井家の主筋にあたる京極家の「京極高吉」(きょうごくたかよし)に嫁ぎました。京極家の源流である佐々木家は、平安時代から近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)で豪族として栄えた名門。鎌倉時代にも多くの国において守護に任命されています。

1523年(大永3年)京極家宗家の家督を巡って、京極高吉派とその兄である「京極高延」(きょうごくたかのぶ)派に家中が二分。京極高吉派は、彼を溺愛していた父「京極高清」(きょうごくたかきよ)や「上坂信光」(かみさかのぶみつ)、そして京極高延派には、北近江の国人衆である「浅井亮政」(あざいすけまさ)や「浅見貞則」(あざみさだのり)などがいました。

その翌年には、京極高吉派と京極高延派が実際に戦い、その結果、浅見貞則を中心とした京極高延派が勝利を収め、京極高吉と京極高清、そして上坂信光は、尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)へ追放されることになったのです。

夫と弟の戦いに翻弄された京極マリア

北近江を巡る争い

浅井長政

浅井長政

尾張へ追放されたあとの京極高吉は、京極高延や浅井亮政らと再び対峙。

京極高吉は南近江の六角家と手を組み、北近江で勢力を延ばしていた浅井家に攻め入ります。

このとき浅井軍を率いていたのが、京極マリアの弟である浅井長政でした。結局、京極高吉は浅井長政に敗れ、北近江に残されていたわずかな領地まで失ってしまったのです。

そののち、浅井家は織田家と同盟を結び、南近江から六角家を駆逐。浅井家は繁栄のときを迎えることになります。

一方で、京極高吉は北近江を再びその手中に収めるため、近江まで逃れてきた「足利義昭」(あしかがよしあき)を保護し、室町幕府15代将軍に擁立しようと尽力します。足利義昭は、13代将軍であった兄「足利義輝」(あしかがよしてる)が、1565年(永禄8年)に起こった「永禄の変」において、「三好三人衆」や「松永久通」(まつながひさみち)らに暗殺されたことを受け、京都から近江まで逃亡してきたのです。

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5人の子供を儲けるも、長男は人質へ

1568年(永禄11年)、「織田信長」は足利義昭を奉じて上洛する途中、近江国の守護であった六角義賢・「六角義治」(ろっかくよしはる)父子と兵刃を交えます。この合戦の舞台となったのは、現在の滋賀県近江八幡市にあった「観音寺城」(かんのんじじょう)。この合戦では、観音寺城が無血開城となり織田軍が勝利を収めました。その一方で敗北を喫した六角家は、甲賀郡に逃走することになったのです。

この「観音寺城の戦い」(かんのんじじょうのたたかい)を経て上洛に成功した織田信長は、足利義昭の名のもとに全国の諸大名に対して上洛を命じました。しかし、越前国(えちぜんのくに:現在の福井県北東部)の「朝倉義景」(あさくらよしかげ)がこれを拒否。そのため、織田信長は上洛の命にしたがわない朝倉家を討伐する目的で、1570年(永禄13年/元亀元年)に軍を率いて、朝倉家の領地に向けて進撃を開始します。

金ヶ崎の戦い」(かねがさきのたたかい)と呼ばれるこの合戦には、織田軍方として「徳川家康」の軍勢も参陣。ところが、織田信長の妹婿であり、同盟関係を結んでいた浅井長政が、突如朝倉家に寝返ったことによって織田方は窮地に陥り、織田軍は撤退を余儀なくされたのです。

そののち織田信長は、徳川家康と共に浅井家を討つべく、近江国の浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市付近)にて、浅井・朝倉連合軍と激突。この「姉川の戦い」では激闘の末、織田・徳川連合軍が勝利し、金ヶ崎の戦いの屈辱を晴らしました。

この頃から足利義昭は、織田信長に不満を持つようになり、諸大名に対して織田信長を討つように書状を送ります。これにより、浅井長政や朝倉義景、「武田信玄」、石山本願寺の住職「顕如」(けんにょ)、そして三好三人衆などが「織田信長包囲網」を形成することになったのです。

足利義昭は、1573年(元亀4年)に起こった「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)において、武田軍により織田信長と同盟関係にあった徳川家康の軍勢が敗北したことを聞くと、織田方に敵対姿勢を示します。

しかし織田方は、「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)に働きかけて勅命を出して貰い、足利義昭と和睦を結びました。この頃、京極高吉は嫡男である「京極高次」(きょうごくたかつぐ)を織田側に人質として差し出すことで、自分の身を守っています。

そののち、織田信長包囲網の要であった武田信玄が、三河国(みかわのくに:現在の愛知県)の「野田城」(現在の愛知県新城市)を攻囲中に死去。

そのため、武田軍は甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)へ撤退しました。これにより、浅井家、及び朝倉家に対する攻撃に大勢の兵を割けるようになった織田軍は、再び対抗姿勢を見せた足利義昭を追放し、室町幕府は滅びることになったのです。

室町幕府を滅亡させた翌月、織田軍は浅井家の領内に侵攻します。浅井家の援軍として駆け付けた朝倉軍でしたが、最終的には浅井家の救出を諦め、撤兵を開始。織田軍はこれを追撃し、朝倉家の居城であった「一乗谷城」(いちじょうだにじょう:現在の福井県福井市)において朝倉家を滅亡させました。

この「一乗谷の戦い」(いちじょうだにじょうのたたかい)のあと、織田信長は浅井軍が本拠としていた「小谷城」(おだにじょう:現在の滋賀県長浜市)を攻撃。この戦いにおいて、京極マリアの実父である浅井久政と弟の浅井長政は、織田軍に抵抗し続けましたが、最後には自刃に追い込まれ、浅井家の血筋は途絶えることになったのです。

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夫と共に洗礼を受ける

北近江の支配を失い、嫡男である京極高次を織田信長のもとへ人質として差し出した京極高吉は、隠居生活を送っていました。1581年(天正9年)、京極高吉と京極マリアは、「安土城」(あづちじょう:現在の滋賀県近江八幡市)城下において、イタリア人のイエズス会宣教師「オルガンティーノ」に出会います。

オルガンティーノは、1570年(元亀元年)に日本を訪れ、布教活動に生涯を捧げた人物です。織田信長から厚遇を受け、安土の地に3階建の教会を作りました。

しかし、「豊臣秀吉」が発布した「バテレン追放令」によって迫害を受け、そのあとは長崎で暮らしたと伝えられています。京極高吉と京極マリアは、このオルガンティーノから安土城下で洗礼を受けましたが、その数日後に京極高吉は亡くなったのです。

キリスト教と天下の間で揺れる気持ち

豊臣秀吉に追われた京極高次

織田信長の人質として預けられていた京極マリアの息子・京極高次は、織田信長に家臣として仕え、1582年(天正10年)に起きた「本能寺の変」の頃には5,000石を与えられていました。

本能寺の変で織田信長が自刃すると、京極高次は妹である「京極竜子」(きょうごくたつこ)が嫁いでいた若狭国(わかさのくに:現在の福井県西部)の「武田元明」(たけだもとあき)のもとを訪れます。若狭武田家はもともと若狭国の守護であり、越前国の朝倉家に従属していました。

織田信長によって朝倉家が滅亡すると、若狭の地は「丹羽長秀」(にわながひで)が領することになり、武田元明は「石山城」(現在の福井県おおい町)3,000石を織田信長より与えられ、丹羽長秀の「与力」(よりき:侍大将や足軽大将に付き従っていた武士)のひとりになります。

そして本能寺の変のあと、今を好機と見た武田元明は、「明智光秀」にしたがうことで勢力を拡大しようと目論みます。京極高次は武田元明に従軍し、丹羽長秀の居城であった「佐和山城」(現在の滋賀県彦根市)を攻め落としましたが、「山崎の戦い」において、明智光秀が「羽柴秀吉」(はしばひでよし)のちの豊臣秀吉に討たれると、武田元明は自刃。そして京極高次は、羽柴秀吉から追われる身となったのです。

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キリスト教で禁じられていた側室制度

豊臣秀吉

豊臣秀吉

そんななかで、京極高次の妹・京極竜子は羽柴秀吉に捕らえられ、その側室となりました。

京極竜子の嘆願もあって、京極高次は羽柴秀吉から許しを得ることができ、1584年(天正12年)、近江国高島郡に2,500石を与えられます。

そののち、京極高次は羽柴秀吉にしたがい、1586年(天正14年)に、さらに2,500石の加増を受け、石高は合計5,000石となったのです。

そして、1587年(天正15年)、豊臣秀吉による「九州征伐」で武功を挙げ、京極高次は1万石の大名になりました。

その一方で、豊臣秀吉の側室となった京極竜子は、その寵愛を大いに受けていました。しかし、京極竜子の母である京極マリアは熱心なキリシタン。キリスト教では、一夫多妻制が禁じられているのに、自身の娘が天下人の側室になったことは、認めたくない事実であったはず。このときの京極マリアの心は、娘の幸せを思う気持ちとキリスト教の信仰の間で、大きく揺れ動いていたかもしれません。

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京極家再興への道のり

京極竜子が豊臣秀吉の側室として寵愛を受けていることや、京極高次の妻が同じく側室であった「淀殿」(よどどの)の妹「」(はつ:常高院[じょうこういん])であったことなどを背景に、京極家は再興の道を歩み始めました。

1590年(天正18年)京極高次は、主君・豊臣秀吉にしたがって「小田原の役」に参陣。京極高次はこの合戦においても武功を挙げ、豊臣秀吉より「八幡山城」(はちまんやまじょう:現在の滋賀県近江八幡市)を与えられ、1595年(文禄4年)には、6万石で「大津城」(おおつじょう:現在の滋賀県大津市)に入城しました。

さらに京極高次は、1600年(慶長5年)に起きた「関ヶ原の戦い」で徳川方である東軍に付き、大津城に籠城。そして、わずか3,000人の兵のみで西軍1万5,000人の兵を引き付けたのです。
この功績が認められた京極高次は、徳川家康より若狭一国8万5,000石への加増転封を受け、小浜藩(おばまはん:現在の福井県小浜市)の初代藩主に任じられました。

また、京極高次の弟である「京極高知」(きょうごくたかとも)は、豊臣秀吉に早くから仕え「飯田城」(現在の長野県飯田市)の城主「毛利秀頼」(もうりひでより)の娘婿となっています。

そして、1593年(文禄2年)に毛利秀頼が亡くなると、京極高知はその遺領から6万石を拝領し、同城の城主に就任。その翌年には10万石に加増され、関ヶ原の戦いにおいては兄と同様、東軍に味方した京極高知は、その恩賞として12万3,000石を賜り、丹後国(たんごのくに:現在の京都府北部)の国持大名になったのです。

関ヶ原の戦いのあと、京極高次と京極高知、兄弟合わせた京極家の所領は、20万石を超え1代で京極家を再興させました。

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キリスト教の布教活動に捧げた生涯

バテレン追放令発布とその背景

1587年(天正15年)、熱心なキリシタンであった京極マリアにとって、頭を抱えるようなできごとが起こりました。キリスト教の宣教や南蛮貿易に対して禁止事項を定めた、バテレン追放令が発布されたのです。

「バテレン」(漢字表記:伴天連)とは、この当時、日本へのキリスト教の伝来に際して、渡来していたカトリックの宣教師の総称。当初は豊臣秀吉もキリスト教の宣教を認めていましたが、宣教師や貿易に訪れたポルトガル人のなかで、日本人の人身売買が行なわれていたことが、同法令の発布に至った理由のひとつ。

この他にも、ある九州のキリシタン大名が、豊臣秀吉の許可を得ることなく、カトリック教会の修道会であったイエズス会に、長崎の地を寄進していたことに激怒したからとする説もあります。

バテレン追放令ではキリスト教を邪教として禁じ、同法令の発布後、20日以内に外国人宣教師全員に国外へ退去することを定めていました。また、大名については豊臣秀吉の許可を得ずにキリスト教を信仰することを禁じていましたが、民衆によるキリスト教信仰については、特に禁止していなかったのです。

時代を下って江戸時代になると、江戸幕府はキリスト教に関して、さらに厳しい禁教令を2度に亘って発布します。1度目は、1612年(慶長17年)に出された、いわゆる「慶長の禁教令」です。この禁教令は、幕府の直轄地のみを対象とする法令でしたが、幕府に倣う形で自身の領地に向けて同法令を出す大名も現われました。

そして1613年(慶長18年)には、1度目の禁教令に変更を加えた法令を出し、禁教令の対象となる領地を、幕府の直轄地から日本全国にまで拡大したのです。

禁教令のもとでも布教活動を続ける

このように、豊臣政権以降にはキリスト教に対する風当たりが強くなっていきましたが、京極マリアはキリスト教の信仰をやめることはありませんでした。次男・京極高知の領地である丹後国で暮らしながら、懸命に布教活動を行なったと伝えられているのです。京極マリアが幕府に弾圧されることなく信仰を継続できたのは、息子である京極高知が国持大名であったために黙認されていたのではないかと言われています。

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