戦国時代の姫・女武将一覧

春日局(斎藤福)

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歴史を紐解いていくと、逆境から出世の階段を駆け上がった女性がいることが分かります。それは「春日局/斎藤福」(かすがのつぼね/さいとうふく)です。春日局はどん底にあった人生から、最終的には将軍の乳母という立場まで上り詰めました。ここでは、どのようにしてどん底から這い上がり、徳川幕府における事実上の権力者となったのか、その過程を見ていきます。

春日局が余儀なくされた「転落人生」とは

転落のきっかけは「本能寺の変」

春日局(斎藤福)のイラスト

春日局(斎藤福)

「斎藤福」(さいとうふく)のちの「春日局」(かすがのつぼね)は、1579年(天正7年)に美濃斎藤氏の一族である「斎藤利三」(さいとうとしみつ)の娘として誕生。愛称は「お福」。

父の斎藤利三は、縁戚関係にある「明智光秀」(あけちみつひで)に仕え、手腕を発揮すると褒賞として丹波にある「黒井城」(現在の兵庫県丹波市)城主に任命されます。また、筆頭家老としても用いられていました。

福が3歳になった頃、歴史を揺るがす大事件「本能寺の変」が勃発。

斎藤利三にとっては、主君の明智光秀が君主の「織田信長」を襲撃したのです。

斎藤利三は、明智光秀に対する恩義から首謀者のひとりとなって加担しました。

豊臣秀吉に敗北し一族は流浪の身に

本能寺の変を受け、中国地方の毛利氏と戦っていた「羽柴秀吉」(はしばひでよし)のちの「豊臣秀吉」は、毛利との講和を取りまとめ明智光秀を討つため、約10日で「備中高松城」(現在の岡山県岡山市)から上洛します。この誰も予想し得なかった反転攻勢は、のちに「中国大返し」(ちゅうごくおおがえし)と呼ばれました。

斎藤利三は、明智軍として豊臣秀吉軍と戦うことになり、山崎の地で決戦に挑みます。これが明智一族の命運を分けた「山崎の戦い」です。

しかしながら、明智勢は豊臣秀吉軍に完敗。斎藤利三は敗走するも、「坂本城」(現在の滋賀県大津市)付近で捕らえられ処刑されてしまいます。福は豊臣勢の追っ手から逃れるために、他の兄弟とも散り散りに逃れ、家族は離散してしまうのです。

稲葉家に世話になることで一旦流浪生活は終結

福は当初、父の斎藤利三と仲が良かった元浅井家家臣「海北綱親」(かいほうつなちか)の息子「海北友松」(かいほうゆうしょう)を頼り一時的に保護してもらいます。

しかし、豊臣秀吉の追っ手が迫り居所が知られそうになると、次は母方の親戚にあたる「三条西公国」(さんじょうにしきんこく)を頼ります。三条西公国は、福の外祖父である「稲葉一鉄」(いなばいってつ)の妻の甥で公家だったことから、福はそこで公家の文化や教養を教わりました。

そのあとは、豊臣方に居場所が知られてしまい、一時的に斎藤利三の妹が嫁いでいた縁のある長宗我部家に身を寄せます。福が12歳になった頃、再び三条西家を頼り京都で生活をし、書道・歌道などの教養を幅広く身に付けることになりました。

そののちの経緯は不明ながら、福は母方の実家である稲葉家に引き取られます。福は、稲葉一鉄の長男「稲葉重通」(いなばしげみち)の養女となり「稲葉福」(いばなふく)となるのです。

稲葉正成の後妻となる

稲葉家の一員として生活していた福の境遇に変化が起こります。

稲葉重通には、自分の娘と結婚した「稲葉正成」(いなばまさなり)という婿養子がいましたが、稲葉正成の妻が結婚して数年で亡くなってしまったため、その後妻として福に白羽の矢が立ったのです。

当人同士の気持ちは不明ながら、周囲からの反対はなく、福は稲葉正成の後妻となりました。夫である稲葉正成は、そのあとの朝鮮出兵の際に思うような成果が出せず、豊臣秀吉に叱責されましたが、間に入ってくれたのが「徳川家康」だとされています。このことがのちに大きな影響を与えることになるのです。

徳川3代将軍「徳川家光」の乳母になるまで

浪人に成り下がった夫と、徳川家康の嫡孫の乳母に応募した妻

1602年(慶長7年)、小早川家に仕えていた稲葉正成は浪人へと転落してしまいます。それは豊臣秀吉の死後、1600年(慶長5年)に「関ヶ原の戦い」が勃発したことが引き金となりました。

小早川秀秋

小早川秀秋

小早川秀秋」(こばやかわひであき)は、もともと豊臣家に仕えており、合戦当初は西軍の要と呼ばれる存在として参戦。

裏切りの過程については諸説あるものの、史実としては東軍の徳川方に寝返ったのです。このことにより、西軍は壊滅したとされています。

しかし、関ヶ原の戦いからわずか2年後に小早川秀秋は早世。世継ぎとなる男子がいなかったこともあり、徳川家康が主導して小早川家は改易(かいえき:家を取り潰すこと)されてしまったのです。

このため、小早川家に仕える武士達が浪人に転落。もちろん稲葉正成も例外ではありません。浪人となった稲葉正成と福は、一時期美濃で半農生活をすることとなりました。

1603年(慶長8年)に徳川幕府が開かれ、その翌年に徳川家康の嫡孫「竹千代」(たけちよ)のちの「徳川家光」(とくがわいえみつ)の乳母募集のお触れが出されます。

福は、「京都に在住経験があり教養のある方」という条件を満たしていたこともあり、半農生活から抜け出す意味でも応募することにしました。

合戦の街 関ヶ原
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乳母に採用されると夫とは離縁?

福は、稲葉家で公家の文化や教養を身に付けていたこともあり、竹千代の乳母に選ばれました。

竹千代の祖父である徳川家康は、稲葉正成を通じて福に面識があったと言われ、乳母選任の過程で徳川家康が関与した説が有力とされています。

乳母に選ばれた福は、夫の稲葉正成とは離縁することになりました。夫婦仲が良くなかったためか、当時の幕府が決めた規定なのか、詳しい離縁理由は分かっていません。

正式に乳母に選ばれ人生の大逆転を達成

乳母に選ばれた福は、この時点で事実上徳川幕府の一員となったのです。

それはこれまでの福の人生を振り返ると大逆転であり、このまま何事もなければ、次期将軍の乳母として「権威」が付いてくるのです。しかし、人生はそんなに甘くないことを、乳母に就任したばかりの福は知る由もありませんでした。

見えない権力闘争の始まり

徳川秀忠夫妻が次男を儲けたことにより、主導権争いが勃発

徳川家光は、順当にいけば未来の将軍としての地位を確立できると思われていました。ところが1606年(慶長11年)、「徳川秀忠」(とくがわひでただ)と妻「お江」(おごう)夫妻の間に第2子である男子が誕生。母であるお江は、嫡男の徳川家光よりも、次男である「国松」(くにまつ)のちの「徳川忠長」(とくがわただなが)の方を可愛がるようになったことから、福の足場が揺らぎ始めました。

徳川家光

徳川家光

国松を可愛がるようになった理由については諸説ありますが、幼少の頃の徳川家光は病弱な体質で、将来の将軍職は務まらないと考えたと言われています。

あとから生まれた徳川忠長の方が利発で顔立ちも端正なことから、将軍にふさわしいとして、徳川家光を冷遇するようになったと言うことです。

このことは乳母の立場にある福にとっても由々しき問題でした。

次第に劣勢に追いやられる

福はこの状況を重く受け止め、徳川幕府2代将軍の徳川秀忠に、徳川家光がいかに冷遇されているかを訴えましたが、抜本的な解決には至らなかったのです。

その理由として、徳川秀忠はお江に頭が上がらなかったからとされていますが、それを裏付ける詳しい資料はありません。ただ、徳川秀忠よりお江の方が年上だったことや、お江が織田信長の姪で、かつ豊臣秀吉の養女だったことなども、徳川秀忠が遠慮していた理由だと考えられます。

この状況に耐えきれなくなった徳川家光は自害を試み、寸前に止められたという逸話があり、福はそれに衝撃を受けました。

福が奥の手を使う

福はこの状況を打開するため、奥の手を使う決心をします。それは隠居した徳川家康に会ってこの状況を伝えることです。

福は、「駿府城」(現在の静岡県静岡市)の徳川家康に会いに行く口実を、怪しまれないために「伊勢参り」と称して江戸を離れることにしました。

ただ、徳川家康に直訴することは一種の賭けと言えます。最高の結果となれば良いのですが、下手をすれば徳川家康の逆鱗に触れ、命を落としてもおかしくはありません。それでも福は不退転の決意をもって徳川家康に会いに行ったのです。

徳川家康という最強の手札で逆転を図る

徳川家康

徳川家康

福は駿府城にて徳川家康に謁見しました。

徳川家康は当初、福の直訴に耳を傾けながらも、一方では自分の息子が、福の訴えにあるような事態を引き起こしているとは本気で思っていなかったと言います。

しかしそののち、徳川家康が「江戸城」(現在の東京都千代田区)を訪れると、福の直訴したことを信じざるを得ませんでした。

徳川家康は、徳川秀忠らを呼び付け「長幼の序」(ちょうようのじょ:年上の者と年下の者の間にある秩序)を明確にし、事実上、徳川家光が3代将軍に決まったのです。

徳川秀忠にとって、先代将軍でもある父の徳川家康は、お江以上に頭の上がらない存在だったことから、父が取り決めたことに異論を出せるはずがありません。これにより、徳川家光の輝かしい未来は約束され、福は乳母としての地位を完全に固めたのです。

徳川家康の亡きあとも、徳川秀忠は「二元政治」(最高権力者が2人いる状態)を敷いています。将軍職は徳川家光に譲ったものの、徳川秀忠は一部の権力を保持したまま「大御所」として死去するまで、江戸城西の丸で政務を取り仕切りました。

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春日局の誕生と、残した功績

正式に春日局を賜り権威固めへ

1620年(元和6年)に徳川家光が元服。それから6年後の1626年(寛永3年)、福とは反目する間柄であったお江が亡くなったのです。

福は、1629年(寛永6年)に「伊勢神宮」(現在の三重県伊勢市)に参拝してから上洛します。そこで、かつて世話になった公家の三条西家の力を借りて春日局を賜りました。

将軍の跡目争いに敗れた徳川忠長は、お江が亡くなってから数年後に数々の奇行をはたらくようになり、徳川秀忠と徳川家光は、徳川忠長を処分することで一致します。そののち、徳川忠長は自害しました。

徳川忠長の件も影響したためか、徳川秀忠は体調を崩して1632年(寛永9年)に死去。これにより二元政治はようやく終わりを迎えたのです。

このときより、最高権力は徳川家光と春日局の二人三脚体制となります。2人は、権力を維持するための制度作りや大規模な改易を行ないました。この徳川家光の時代まで執り行なわれた強権的な政治を別称で「武断政治」(ぶだんせいじ:武力を発動して圧伏させる政治手法)と呼びます。

春日局に近しい関係者はほぼ全員出世する

春日局が乳母に就任してから、かつての夫だった稲葉正成は、越後(えちご:現在の新潟県)の糸魚川に2万石の大名として復帰を果たしました。

また、稲葉正成と福との間に生まれた子「稲葉正勝」(いなばまさかつ)は、最終的に相模小田原藩(現在の神奈川県小田原市)において8万5,000石を所有する大名へ出世します。

春日局の兄である「斎藤利宗」(さいとうとしむね)は、のちに徳川家光の旗本として召し抱えられ5,000石を領有。詳しい人数は不明ながら、春日局を援助した他の関係者も、ほとんどが異例の出世を果たしたとされています。

春日局は、かつて苦境にあったとき、自分を助けてくれた人達に恩返しをしたと言えるのです。

春日局が確立させた「大奥制度」は江戸城無血開城まで続いた

1618年(元和4年)春日局が大奥制度を整備して本格的な運用に至ったとされています。この制度は、将軍の「御台所」(みだいどころ:正夫人)や将軍家の子女、奥女中達の居場所として確立されました。

大奥制度は、1868年(慶応4年)に江戸城の明け渡し、つまり江戸城無血開城まで続きます。これは春日局が残した功績のひとつであり、日本史の1ページに名前を刻むことになりました。

春日局(斎藤福)

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