戦国時代の姫・女武将一覧

於万の方(長勝院)

文字サイズ

現代の価値観では、戦国武将達が多くの側室を持っていたことに、ひどく嫌悪感を抱く人も多くいることでしょう。しかし、明日をも知れぬ戦乱の世で、御家を存続させるため、多くの子を儲ける必要があり、ひとりの女性だけでは限界があるので、仕方のないことだったのです。
そのような時代のなかで、戦乱の世を治め、のちに天下人となった「徳川家康」も、実は多くの側室がいました。そのひとりで男子を残しながらも、不遇な人生を歩むことになった「於万の方」(おまんのかた)院号「長勝院」(ちょうしょういん)の生涯をご紹介します。

徳川家康最初の側室となった於万の方

徳川家康の従兄妹

於万の方(長勝院)

於万の方(長勝院)

自分の遺伝子を多く残したいという願いは、生き物としての本能的な思いです。

特に引き継ぐものが多い、朝廷や武家、商家などは御家存続のために、たくさんの子供を望みます。

現代の価値観では考えられませんが、多くの側室を持ち子供をたくさん作ることは、武士達にとってごく普通のことだったのです。

長きに亘る戦国時代を完全に終わらせ、天下統一を果たした「徳川家康」には、20人もの側室がいました。

さらに、多くの子宝にも恵まれたおかげで、徳川幕府の盤石な体制を作ることができたのです。

そんな徳川家康の側室のひとりに「於万の方」(おまんのかた)と呼ばれる女性がいました。その他にも、「おこちゃ」や「小督局」(こごうのつぼね)、「松」、「長勝院」(ちょうしょういん)とたくさんの呼び名があります。

家系図などが残される名門の家でも、女性の名前がきちんと書かれている書画などはほとんどありません。「女」と書かれているか、夫亡きあとに出家や在家での仏門に入るため、「○○院」や「○○尼」と書かれているくらいで、残されている文献や史書などから、該当しそうな人を判断するしかなく、側室までになると本名をはっきりさせることは困難です。

なお、徳川家康の側室で、於万の方と呼ばれる女性は、実はもうひとりいますが、区別するには○○院で判断します。ちなみにその女性は、「養珠院」(ようじゅいん)と言う名です。

今回紹介する於万の方は長勝院ですが、徳川家康の従兄妹にも当たります。

於万の方は、1548年(天文17年)に三河(みかわ:現在の愛知県)にあった「池鯉鮒神社」(ちりふじんじゃ)にて、神主だった「永見貞英」(ながみさだひで)の娘として誕生。池鯉鮒神社は、現在の愛知県知立市(ちりゅうし)にある「知立神社」(ちりゅうじんじゃ)のことです。

永見貞英の家系は、第51代「平城天皇」(へいぜいてんのう)の流れを汲む、伊勢物語の主人公、貴族「在原業平」(ありわらのなりひら)の血筋の家と伝えられており、高貴な血を引いていることがうかがえます。

しかし、戦国時代に入ってからの三河は、守護大名から戦国武将と化した「今川義元」(いまがわよしもと)が侵略を進めていました。それに伴い、周辺にある三河の徳川家康の祖父や父の松平家、そして「織田信長」の祖父や父「織田信秀」(おだのぶひで)がいた尾張の織田家が戦い、戦乱の世と化していったのです。

池鯉鮒神社は、2度その戦に巻き込まれ、今川方に社殿を焼かれるなどの被害が出たため、武士である水野家と婚姻関係を結びました。於万の方の母は、その「水野忠政」(みずのただまさ)の娘と伝えられています。そのことから於万の方は、徳川家康の従兄妹に当たると言われているのです。

  • 徳川家康のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

  • 徳川家康のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

男子を2人産むも冷遇される

昔は忌み嫌われていた双子

於万の方の幼少期などは史料がほぼありません。そのため、どのような経緯があったのかは分かりませんが、於万の方は徳川家康の正妻である「築山殿」(つきやまどの)の奥女中として働いていたと伝わっています。

徳川家康の目に留まりお手付きにされたのですから、本当の雑用係などではなく築山殿の身近なお世話をしていた可能性が高いのです。徳川家康の実母である「於大の方」(おだいのかた)の姪であれば、それなりに優遇されていたと推察できます。

この時期の女性達は、平均的に13~16歳くらいになると、嫁に出されたり側室となったりしていました。何歳のときに徳川家康の目に留まったのかは不明ですが、於万の方もその頃に出逢ったと言えます。

徳川家康は「桶狭間の戦い」で、今川義元が織田信長に討たれたことにより、長きに亘る人質生活から解放され、どさくさに紛れて父の居城であった「岡崎城」を奪い返し、独立の機会をうかがっていました。

於万の方が15歳前後に徳川家康と出会ったと仮定すると、その頃の徳川家康は、織田信長と同盟を組み「浅井長政」(あざいながまさ)や「武田信玄」などと、戦っていた時期です。

まだ今川の人質生活の最中に、今川義元の姪と言われる築山殿と結婚して、長男の「徳川信康」(とくがわのぶやす)、長女の「亀姫」(かめひめ)という2人の子が生まれ、奪い返した岡崎城に住まわせていました。その際に、於万の方と出会ったと想像できます。そして、於万の方は妊娠し子を産みましたが、徳川家康は側室と認めませんでした。

生まれた子は双子で男子が2人も生まれたのに、徳川家康は子に会うことも、於万の方を側に置くこともしません。現代であれば、育児や経済的には大変かもしれませんが、一気に2人も子に恵まれたのですから喜ばしいことだと言えます。

しかし、長い間双子は「畜生腹」(ちくしょうばら)と呼ばれ、忌み嫌われていました。畜生腹とは、獣は一度に何匹も産むことからくる言葉で、迷信深い時代の女性への暴言です。

徳川家康が本当にこの畜生腹を嫌ったのか、それ以外の事情があったのかは分かりませんが、於万の方の産んだ息子の内、ひとりは早々に永見家(ながみけ)へと養子に出しています。そのことからも、歓迎された出産ではなかったことには違いありません。

もうひとりの息子は「結城秀康」(ゆうきひでやす)です。徳川家康にとっては次男になりますが、名前からも分かるように、松平や徳川の姓を名乗ることはできませんでした。

  • 徳川家康と城
    徳川家康の生涯と、ゆかりのある城について紹介します。
  • 岡崎城へ行こう!徳川家康が生まれた城
    徳川家康生誕の地「岡崎城」や岡崎公園内にある家康ゆかりのスポットをご紹介。
  • 刀剣や甲冑を観ることができる城郭を地域別に検索できます。

  • 歴史上の人物が活躍した桶狭間の戦いをご紹介!

  • 武将達が戦った桶狭間の戦いの古戦場をご紹介!

  • 浅井長政のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

  • 武田信玄のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

正妻「築山殿」の心情にまつわる逸話

築山殿

築山殿

於万の方が妊娠したとき、徳川家康の正妻・築山殿は激怒し、於万の方を裸にして庭の木に括り付けたという逸話があります。

それを徳川家康の家臣であった「本多重次」(ほんだしげつぐ)が見付けて助け、浜松の元今川家家臣であり、徳川家康の家臣になった「中村と言う男」の家に、於万の方は匿われたと伝えられているのです。

現代の感覚で考えれば、妻の側に付いている女中(現代風に言えば家政婦さん)が、夫の子を妊娠した状況は、修羅場でしかありません。

いつ頃の手紙かは不明ですが、築山殿が徳川家康に送った手紙には「私が長男の母であり、正妻であるのに、城から離れた淋しいところに追いやった上、何故全くこちらに来てくれないのですか。」というような恨み言が残されています。

そののち、築山殿は「武田勝頼」(たけだかつより)との内通を織田信長に疑われたことで、長男の徳川信康と共に殺されてしまうのですが、そのようなことからも嫉妬深く、恨みがましい女性と伝わっているのです。

しかし、築山殿は岡崎の城にも入れない状況な上に、於万の方は浜松にある中村家で子を産んだことから、当時すでに一緒には居なかったと見られ、この話は後世の作り話だと現在は言われています。

  • 築山殿の活躍するまでの経緯や、成し遂げた偉業などをご紹介します。

  • 武田勝頼のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

徳川家康に嫌われた悲劇の息子、結城秀康

父としての徳川家康

徳川家康

徳川家康

1574年(天正2年)2月8日、冬の寒いなかで於万の方は、双子の男子を産みました。

徳川家康がどのような気持ちだったのかは計りかねますが、何か祝いを述べたということも、会いに来たという史実も残されていません。

双子のうちのひとりは、於万の方の実家である永見家にすぐさま養子に出され「永見貞愛」(ながみさだちか)と名付けられました。そして、池鯉鮒神社を継いだとされています。

双子だったことが分かってすぐに、於万の方にひとりは死産したと伝えたという話もありますが、永見貞愛は徳川家康とは会うことはなかったのです。

もうひとりの結城秀康は、幼名を「於義伊」(おぎい)と付けられました。徳川家康が息子の顔を見て、「ギギという魚に似て気持ち悪い」と言って、その名を付けたという悲惨な逸話が残されていることから、生まれたときに一度は顔を見に来た可能性があります。しかし、徳川家康はそのあと3年間、一度も於万の方にも於義伊にも、何故か会うことはしませんでした。

於義伊が生まれた頃の徳川家康は、織田信長と同盟を組んでおり、武田信玄と戦っている最中です。単純に忙しかったりストレスが多かったりと、子や側室の所へ何度も足を運ぶような暇はなかったとも言えます。男子誕生の盛大なお祝いも、お披露目もないままひっそり生まれ、正式に子と認められない於義伊。そんな弟を不憫に思い、徳川家康の長男である徳川信康が、再三会うことを促して、生誕から3年後にようやく父と子は対面できました。

そんな兄・徳川信康は、於義伊が6歳の頃に切腹してこの世を去りました。徳川家康の正妻である築山殿が、武田勝頼との内通を織田信長に疑われ、織田信長の命により夫の手で殺され、長男の徳川信康も切腹させられてしまったのです。

突然の嫡男の死によって、於義伊が跡継ぎ候補となりましたが、結局跡継ぎにはなれませんでした。何故跡継ぎになれなかったかと言えば、まだ幼少だったこともありますが、その4年後に世の中の情勢が大きく変化するからです。

1582年(天正10年)「本能寺の変」が起こり、突如として織田信長がこの世から消えました。織田家家臣の「明智光秀」が謀反を起こし、織田信長は本能寺で自刃し、二条城で戦っていた織田家の長男「織田信忠」(おだのぶただ)も追い詰められ切腹。

さらに、織田信長の家臣であった「羽柴秀吉」(はしばひでよし)のちの「豊臣秀吉」が、明智光秀を討伐して織田家の実権を握り、ついに徳川家康とも戦をすることに。

1584年(天正12年)に、豊臣秀吉と徳川家康の対決となった「小牧・長久手の戦い」が勃発します。この戦は織田家の跡目と実権を巡る戦いで、一度、豊臣秀吉に担ぎ出された織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)と豊臣秀吉の関係が悪化し、織田信雄は徳川家康と同盟を組んで豊臣秀吉に挑みました。

7ヵ月ほど続いたこの戦いで、徳川家康側が勝利していたのですが、何故か豊臣秀吉は突然、織田信雄と和解してしまったのです。そのため、中途半端な状態で戦は終結。そのときの和睦の条件として、徳川家康はなんと跡継ぎ候補になった於義伊を、豊臣秀吉の養子に出して人質にしてしまいます。於義伊は、豊臣秀吉から「秀」の字と徳川家康からの「康」を貰い、「羽柴三河守秀康」(はしばみかわのもりひでやす)となりました。

しかし、それからわずか5年後に、豊臣秀吉に子ができてしまい、結城家へと養子に出され、最終的に結城秀康となったのです。

  • 歴史上の人物が活躍した本能寺の変をご紹介!

  • 武将達が戦った本能寺の変の古戦場をご紹介!

  • 明智光秀のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

  • 明智光秀のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

  • 豊臣秀吉のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

  • 豊臣秀吉のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

  • 歴史上の人物が活躍した小牧・長久手の戦いをご紹介!

  • 武将達が戦った小牧・長久手の戦いの古戦場をご紹介!

息子・結城秀康との短い同居

息子達が2人とも、手元から離れてしまった於万の方が、その間何処で何をしていたかは分かりません。しかし、永見家の養子になった永見貞愛へ身体の心配をする手紙を出していることや、10歳の結城秀康が豊臣秀吉の養子になってしまったことを思えば、子供達を産んだ中村家にそのままいた可能性が高いです。浜松城にいた説もありますが、真相は不明。

徳川家康にはすでに「西郷局」(さいごうのつぼね)という側室がいて、嫡男の徳川信康が切腹を命じられる半年ほど前に、のちに第2代徳川将軍になる「徳川秀忠」(とくがわひでただ)が産まれています。そのことからも、於万の方は徳川家康の側には行けなかったでしょうし、確固たる自分の居場所もなく、離れた息子達の身を案ずることしかできませんでした。

結城秀康

結城秀康

豊臣秀吉亡きあと、結城秀康はようやく父の下で働けるようになったのです。

1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」では、徳川家康の命で上杉討伐の抑えとして、会津に残って戦いました。

その功績を父に認められ、結城秀康は越前(えちぜん:現在の福井県)の「北ノ庄城」(きたのしょうじょう)を与えられたのです。

結城秀康が27歳になったとき、於万の方は53歳。20年近く経って結城秀康はようやく母と共に、北ノ庄城で暮らすことができたのです。しかし、於万の方の幸せは長く続きません。念願叶った母子の生活は、わずか7年ほどで終わってしまいます。結城秀康が、34歳という若さで亡くなってしまったのです。実は、その3年前にも永見家へ養子に出したもうひとりの息子、永見貞愛も31歳でこの世を去っていました。

於万の方は徳川家康の許可も得ず、結城秀康が亡くなってすぐに出家。そのことからも、於万の方がどのくらい息子達の死を嘆き悲しんだかが分かります。

  • 徳川秀忠のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

  • 歴史上の人物が活躍した関ヶ原の戦いをご紹介!

  • 武将達が戦った関ヶ原の戦いの古戦場をご紹介!

  • 合戦の街 関ヶ原
    「関ヶ原の戦い」の経緯や結末、関ヶ原の現在についてご紹介します。

現代の皇室に流れる於万の方の血

於万の方の子孫は現代の天皇陛下に繋がる

亡くなった息子達の菩提を弔いながら、於万の方はひとりで72歳まで生きました。

少しの希望を見出すとすれば、幸い結城秀康は孫を残していたことです。結城秀康の長男と次男が、松平家を継ぎました。長男の「松平忠直」(まつだいらただなお)は途中で問題を起こし、将軍・徳川秀忠に蟄居(ちっきょ:自宅に謹慎させること)を命じられてしまいます。しかし、越前はそのまま、次男の「松平忠昌」(まつだいらただまさ)が引き継ぐことができたのです。その上、結城秀康が名乗れなかった徳川の親族である証の「松平」を名乗れるようになり、於万の方も少しは心が晴れたことでしょう。

この於万の方の孫達の血が、実は現代の皇室にも流れています。結城秀康の五男である「松平直良」(まつだいらなおよし)の流れが、第120代「仁孝天皇」(にんこうてんのう)の子を産み、現代の陛下まで繋がっています。さらに、結城秀康の嫡男・松平忠直の血が「昭和天皇」を産んだ、「貞明皇后」(ていめいこうごう)の血筋へと続いていたのです。

徳川家康には認められず、正式な将軍の側室にも将軍の母にもなれなかった於万の方ですが、天皇陛下の血筋には確実に彼女の生きていた証が残されています。

歴史上の人物と刀剣にまつわるエピソードをまとめました。

於万の方(長勝院)

於万の方(長勝院)をSNSでシェアする

「戦国時代の姫・女武将一覧」の記事を読む


朝日姫

朝日姫
天下人「豊臣秀吉」の妹であった「朝日姫/旭姫」(あさひひめ)。すでに尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)の農民に嫁いでいた朝日姫でしたが、天下を取りたい兄の夢のために、長年連れ添った夫と無理矢理離縁させられ「徳川家康」の正室となりました。ここでは、朝日姫が徳川家康に嫁ぐことになった背景を、天下統一を果たすまでの兄・豊臣秀吉が歩んだ道のりと共に紐解いていきます。

朝日姫

阿茶局(雲光院)

阿茶局(雲光院)
「徳川家康」の21人にも及んだ正室・側室のなかで、ひときわ異彩を放つ女性がいます。甲冑に身を包み、徳川家康と共に戦場を駆け抜け、大坂冬の陣では豊臣方との交渉にあたった「阿茶局」(あちゃのつぼね)です。今回は、徳川家康から厚い信頼を受け、表舞台でも裏方としても活躍した阿茶局について、人柄やその生涯を見ていきます。

阿茶局(雲光院)

綾御前(仙桃[洞]院)

綾御前(仙桃[洞]院)
「上杉謙信」の異母姉であった「綾御前」(あやごぜん)は、上杉家の将来を大きく変えていくこととなった重要人物です。政略結婚や上杉謙信亡きあとの後継者争いなど、上杉家の発展や存続のために、その力を注いでいたと伝えられています。上杉家のために生きたとも言える綾御前は、果たしてどのような人物だったのでしょうか。そこで今回は、綾御前に焦点を当てて、彼女の歴史や生涯について解説します。

綾御前(仙桃[洞]院)

明智煕子

明智煕子
かつて「明智の妻こそ天下一の美女」という噂がありました。明智とは、戦国武将「明智光秀」のこと。妻は「明智熙子」(あけちひろこ)です。少ない史料をたどっていくと、明智熙子の美貌は東美濃随一で、たいへん心が美しい女性であったことが分かります。明智熙子とはどんな出自で、どのような女性であったのかを詳しくご紹介します。

明智煕子

荒木だし

荒木だし
「有岡城」(ありおかじょう:現在の兵庫県伊丹市)の城主「荒木村重」(あらきむらしげ)の妻であった「荒木だし」(あらきだし)は、「今楊貴妃」(いまようきひ)と称されるほど、絶世の美女でした。ここでは、荒木だしが壮絶な最期を遂げるまでに、夫・荒木村重をどのように支えていたのか、その生涯を通して見ていきます。

荒木だし

生駒吉乃

生駒吉乃
「織田信長」の側室にして、その最愛の女性であったと伝わる「生駒吉乃」(いこまきつの/いこまよしの)。織田信長との間に授かった3人の子ども達は、織田家にとって重要な役割を果たし、生駒吉乃は織田信長から正室と同格の扱いを受けていたとも言われています。生駒吉乃に関する記載がある資料は「武功夜話」(ぶこうやわ)しかなく、大変謎が多い女性です。ここでは、そんな生駒吉乃が織田信長に嫁ぐ前から死去する前の行動など、その生涯についてご紹介します。

生駒吉乃

犬姫

犬姫
「織田信長」の妹と言えば「お市の方」が有名ですが、もうひとりの妹「犬姫」(いぬひめ)をご存知でしょうか?お市の方は「絶世の美女」だったとよく言われますが、その妹の犬姫も美しい女性だったのです。織田信長の戦略によって、2度も政略結婚をさせられるなど、波乱万丈な人生を歩んだ犬姫の生涯をご紹介します。

犬姫

栄姫

栄姫
「栄姫」(えいひめ)は、福岡藩初代藩主「黒田長政」(くろだながまさ)の継室(けいしつ:後妻のこと)となった女性です。1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」が始まる直前に黒田長政と結婚し、大坂で戦乱に巻き込まれます。はたして栄姫とは、どのような人物だったのでしょうか。ここでは栄姫の生涯と、栄姫にかかわりの深い人物達についてご紹介します。

栄姫

お市の方

お市の方
戦国時代の覇者「織田信長」の妹であった「お市の方」(おいちのかた)。戦国一と言われるほどの美貌の持ち主であったと伝えられています。お市の方は、最初の夫であった「浅井長政」(あざいながまさ)と兄の織田信長が戦うことになり、夫が兄によって自刃に追い込まれるなど、波乱万丈の生涯を送った女性です。ここでは、戦国の世に翻弄されたお市の方が歩んだ道のりと、その3人の娘達についてもご紹介します。

お市の方

注目ワード
注目ワード