徳川十五代将軍

第6代将軍/徳川家宣

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江戸幕府6代将軍を務めた「徳川家宣」(とくがわいえのぶ)は、5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)が行なった「天和の治」(てんなのち)を踏襲しながらも、後期は、「生類憐れみの令」(しょうるいあわれみのれい)といった政策を次々と廃止するなど、政治の刷新を図りました。
しかし徳川家宣は、将軍に就任してわずか3年で亡くなってしまいます。そのため、徳川家宣の生涯や政策についてはあまり知られておらず、歴代の徳川将軍に比べると語られることが少ない人物です。徳川家宣の生涯や政策について掘り下げ、その実像を解き明かしていきます。

徳川十五代将軍徳川十五代将軍
江戸時代を語る上で欠かせない徳川十五代将軍の姿を紐解きます。

将軍就任前における徳川家宣の半生

「徳川家宣」(とくがわいえのぶ)が将軍に就任したのは1709年(宝永6年)、47歳のときのこと。そのあと、1712年(正徳2年)に亡くなったため、その在職期間は3年と短かったのです。つまり徳川家宣は、生涯の大半を将軍としてではなく、将軍継嗣候補として過ごしていたことになります。

徳川家宣の出自と家系

徳川家宣

徳川家宣

徳川家宣は、1662年(寛文2年)に誕生しました。

父は、3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)の三男であり、25万石を領する「甲府藩」(こうふはん)の藩主「徳川綱重」(とくがわつなしげ)。

徳川家宣は出生当初、甲府藩の家臣であった「新見正信」(にいみまさのぶ)の養子となり、「新見左近」(にいみさこん)と名乗っていました。

そののち徳川家宣は、1670年(寛文10年)には甲府藩邸に戻って「松平虎松」(まつだいらとらまつ)と称するようになります。

これは、父の徳川綱重と正室「隆崇院」(りゅうそういん)との間に、後継者となる男子が生まれなかったことがその理由。徳川家宣は、父の世継ぎとなるために呼び戻されたのです。

そして1676年(延宝4年)には元服し、伯父であった4代将軍「徳川家綱」(とくがわいえつな)の偏諱(へんき:通字ではない方の字を与えること)を賜って、名前を松平虎松から「徳川綱豊」(とくがわつなとよ)と改めます。

1678年(延宝6年)、父の徳川綱重が亡くなったことを受け、徳川家宣は弱冠17歳で家督を相続し、甲府藩2代藩主となったのです。

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将軍就任のチャンスを逃す

徳川家宣が甲府藩主に就任してから2年後の1680年(延宝8年)、徳川家綱が病によって倒れてしまいます。これにより、男子に恵まれなかった徳川家綱の次期将軍を、「徳川家」(とくがわけ)の親藩のなかから選び出さなければならなくなったのです。

そこで候補に挙げられた人物が、徳川家綱の弟で、当時は「館林藩」(たてばやしはん)の藩主であった「徳川綱吉」(とくがわつなよし)と徳川家宣の2人でした。

しかし、のちに徳川綱吉が将軍となった際に大老として重宝され、「天和の治」(てんなのち)と称された施政を推し進めた「堀田正俊」(ほったまさとし)による強い後押しと、徳川家綱の弟にあたる徳川綱吉のほうが、血筋としてより徳川家綱に近しいという理由から、5代将軍は徳川綱吉に決定したのです。

こうして将軍就任のチャンスを逃してしまった徳川家宣は、甲府藩主として領内を治めながら、将軍就任の機会を待つことに。甲府藩主としての徳川家宣は、江戸幕府から領地の10万石加増を受けるなど、その善政が高く評価されていました。

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徳川綱吉の治世と徳川家宣に再び訪れた将軍就任のチャンス

徳川綱吉

徳川綱吉

5代将軍の座に就いた徳川綱吉は、礼儀や忠孝を重視し、「末期養子」(まつごようし:跡継ぎのいない武家の当主が死に瀕した場合に、急遽縁組される養子のこと)の緩和や、殉死の禁止などを定めた「武家諸法度」(ぶけしょはっと)通称「天和令」(てんなれい)を発布するなど、天和の治と呼ばれる政策を展開。

政治の刷新を図ろうとした徳川綱吉は、違反者に死罪などの刑を科した極端な動物愛護令である、「生類憐れみの令」(しょうるいあわれみのれい)などを発しただけでなく、経済対策を怠たるなどの悪政を敷いたことにより、庶民からの評判はあまり芳しくありませんでした。

さらに、徳川綱吉の長男「徳松」(とくまつ)が5歳で早世し、そのあとは男子を儲けられなかったため、次期将軍の候補者不足にも悩まされていたのです。

このような徳川綱吉の治世や後継者不足を背景に、徳川家宣に再び将軍就任のチャンスが巡ってきます。「黄門様」(こうもんさま)として知られる「水戸藩」(みとはん)藩主の「徳川光圀」(とくがわみつくに)による強い推挙により、徳川家宣は次期将軍候補のひとりに選ばれることになったのです。

徳川家宣の他にも、徳川綱吉の娘婿にあたる「紀州藩」(きしゅうはん)藩主の「徳川綱教」(とくがわつなのり)が、将軍候補として挙げられていましたが、徳川家宣が3代将軍・徳川家光の孫であったことから、正式に将軍世嗣に定められました。

こうして2度目の機会をものにした徳川家宣は、自身の名をこれまでの「綱豊」から「家宣」に改め、5代将軍・徳川綱吉の養嗣子として、「江戸城」(えどじょう)に入ることになりました。そして1709年(宝永6年)に徳川綱吉が亡くなると、ついに将軍の座に就くことになったのです。

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6代将軍に就任!徳川家宣が残した功績とは

48歳にして将軍となった徳川家宣。この年齢は、15代に亘って続いた歴代の徳川将軍の中で最年長でした。

結果としては、徳川家宣の在任期間はわずか3年で終わってしまうのですが、その短い期間に徳川家宣が行なった治世は、7代将軍「徳川家継」(とくがわいえつぐ)と合わせて「正徳の治」(しょうとくのち)と呼ばれ、後世においても高く評価されています。

徳川家宣が将軍に就任すると、それに伴い「甲府徳川家」(こうふとくがわけ)は廃絶。甲府藩の家臣はすべて幕臣となり、江戸幕府本体の組織に取り込まれることに。

このように将軍となってからも、藩主時代の家臣を引き続いて召し抱え、その補佐の任務にあたらせることは、親藩から将軍を出す際には、しばしば行なわれた配置換えだったのです。

正徳の治

文官の積極登用
こうして将軍に就任した徳川家宣は、徳川綱吉と同様に文官を積極的に登用していきます。徳川綱吉の時代から、財政面で優れた才気を発していた幕臣「荻原重秀」(おぎわらしげひで)を重用。荻原重秀は、徳川家宣による治世の間だけでなく、そののちも、江戸幕府における財政政策のブレーンとして活躍しました。

しかし、徳川綱吉の側用人を経て大老格にまで登り詰め、強大な権力を保持していた「柳沢吉保」(やなぎさわよしやす)は罷免し、血の入れ替えを断行。徳川綱吉時代から引き継いだ政策などもありましたが、その一方で、積極的な改革も行なっていったのです。

新井白石公像

新井白石公像

この人材登用策の一環として新たに登用されたのが、甲府時代の家臣であった「間部詮房」(まなべあきふさ)や「新井白石」(あらいはくせき)らでした。

彼らは統治者の徳をもって、人民を治める思想に基づいた「徳治主義」(とくちしゅぎ)を標榜(ひょうぼう:主義・主張などを明確に示すこと)し、徳川家宣の配下において幕政の実質的な実行者として重宝されました。

生類憐れみの令や酒税などを廃止
文官であった間部詮房や新井白石らは、徳川綱吉の治世下で導入された政策を、次々と改めていきます。例えば、庶民からの評判が最悪に等しかった生類憐れみの令を廃止。同令によって、罪人とされた8,000人以上を放免しました。

生類憐れみの令は、徳川綱吉が最も重要視した政策のひとつ。そのため、徳川綱吉が病床に伏せていた際、徳川家宣への遺言として「私の死後も続けていくように」と伝えています。そのとき徳川家宣は、「私自身は、たとえ100年でも言い付けを守りましょう。しかし天下の万民には、生類憐れみの令を免除してやってはくれないでしょうか」と答えたのです。

さらに徳川家宣は、徳川綱吉が導入した酒税についても廃止。この酒税によって酒の生産量が減少し、酒の価格が高騰しており、庶民の不満の種になっていました。

また、効果的な税収に繋がっていなかったこともあり、この酒税廃止の政策は結果的に成功を収めています。

将軍就任後、わずか3年で死去

しかし1712年(正徳2年)、徳川家宣は病を患うことに。そのため徳川家宣の最期に備えて、間部詮房ら家臣は、後継者の選定に臨む必要が生じました。順当にいけば、徳川家宣の嫡男である「世良田鍋松」(せらたなべまつ)のちに7代将軍となる徳川家継が、次期将軍となるはずでしたが、徳川家宣は、「尾張徳川家」(おわりとくがわけ)の「徳川吉通」(とくがわよしみち)を、後継者にすることを提案。これは世良田鍋松が、当時まだ4歳で幼いことがその理由にありました。

この提案を受けた新井白石は、徳川家宣自らが後継者候補を二分するような状況を作ることは、政争の種になってしまうこと、さらには世良田鍋松が幼君であっても、家臣や御三家の皆々が支え、盛り立てていくつもりであることを理由に、次期将軍には世良田鍋松が適任であることを主張します。

新井白石の返答を聞いた徳川家宣は、最終的に、世良田鍋松を自身の後継者に選んだのです。そののち徳川家宣は、50歳でこの世を去ったのでした。臨終の際には、かたわらで涙を流す家臣達に、「泣くな、馬鹿者。人が死ぬのは世の理だ」と言い放ったと伝えられています。

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徳川家宣の人柄と評価

50歳の若さでその生涯の幕を閉じた徳川家宣は、優れた為政者であったと評されることが多く、その人柄や洞察力は現代でも高い評価を得ている人物です。ここからは、それらが窺える逸話やできごとを見ていきます。

慈悲深く真面目な性格

学問を好み、儒教の教えを深く理解していた徳川家宣。その治世は、それらに基づいて行なわれていたと言われており、役人への賄賂を固く禁じるなど厳格で真面目な一面もありました。

また、庶民への気配りにも定評があり、人気を博した将軍でもあった徳川家宣は、前述したような政策だけでなく、庶民による政治批判の落書きも不問とした他、刑罰を科す際にも何か情状酌量の余地を探すように指示するなど、真面目なだけでなく慈悲深いところもあったようです。

もちろん、柳沢吉保の罷免や生類憐れみの令の廃止などからは、決断すべきところでは非情にもなれる人柄も垣間見え、政治的手腕は非常に優れていたと考えられています。

政務の中心にいたのは新井白石ら文官達

6代将軍として数々の功績を残した徳川家宣でしたが、実際の政務において中心となって実行していたのは、間部詮房や新井白石などの文官でした。文官の登用自体は徳川綱吉の路線を引き継いだと言えますが、徳川家宣の登用した文官達は、その死後にも大きな結果を残していたのです。

例えば新井白石は、政務においてその手腕を発揮したのはもちろん、自伝である「折たく柴の記」(おりたくしばのき)など多数の優れた著書を残し、近世最大の学者として現代に至るまで、その名が伝えられています。新井白石を歴史の表舞台に登場させたのは、徳川家宣の大きな功績でもあり、人を見る目は確かだったと言えるのです。

徳川家宣の没後も引き継がれた政策とは

正徳の治で実行された改革のなかには、徳川家宣の没後に実行された政策も少なくありませんでした。例えば、「朝鮮通信使」(ちょうせんつうしんし)への儀礼を簡素化させようと画策したこともそのひとつ。徳川家宣の生前には、あくまで計画のみで実現することはありませんでしたが、彼の遺志を継いだ新井白石は、後年になってそれを実現しています。

また新井白石は、将軍の世継ぎがいない場合に、将軍職を継ぐ特権を与えられていた「徳川御三家」(とくがわごさんけ)から着想を得て、皇族にも同様の制度を取り入れることを提案。これが、「四親王家」(ししんのうけ)のひとつであり、昭和まで続いた「閑院宮家」(かんいんのみやけ)創設に繋がっていくことになります。閑院宮家の存在は、近世から近代を通じて日本の皇族制度を支えました。

徳川家宣の生涯においてやはり惜しむらくは、その在位期間が3年ほどと短かったこと。そのため、徳川家宣の将軍としての仕事は、現代では過小評価されてしまう傾向があります。それでも、後世に繋がる人材の登用や政策の導入を成し遂げたことは、徳川家宣に、為政者としての非凡な才能があった証明だと言えるのです。

徳川吉宗

徳川吉宗

しかし、残念なことに徳川家宣や新井白石が推し進めた正徳の治は、9代将軍となった「徳川吉宗」(とくがわよしむね)によって、そのほとんどが方針転換に追い込まれ、新井白石も失脚することになりました。

徳川家宣が、もう少し長く将軍として君臨していれば、江戸幕府の歴史は変わっていたかもしれません。

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