歴史上の実力者

坂本龍馬 ~勝海舟の1番弟子~

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幕末の志士、坂本龍馬が師とあおいだ勝海舟。勝海舟と出会うことによって世界の大きさを知った坂本龍馬は、1862年(文久2年)から1867年(慶応3年)までのわずか5年の間に、薩長同盟の締結や大政奉還に貢献し、亀山社中(海援隊)を組織。そして31歳の若さで散っていきました。

出会いは暗殺!?勝海舟を刺すつもりだった坂本龍馬

勝海舟(かつかいしゅう)の弟子で、幕末の志士として知られる坂本龍馬(さかもとりょうま)。2人の出会いは1862年(文久2年)12月9日のこと。

幕府政事総裁職の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)から紹介状を得た坂本龍馬は、門田為之助(かどたためのすけ)・近藤長次郎(こんどうちょうじろう)とともに、当時幕府軍艦奉行並であった勝海舟の屋敷を訪れます。

なんと坂本龍馬は「今宵の事ひそかに期する所あり。もし公の説明如何によりては、敢えて公を刺さんと決したり」と、場合によっては勝海舟を刺し殺す覚悟で勝邸を訪ねて行ったと言います。

勝海舟は同年1月に咸臨丸(かんりんまる)に乗ってアメリカに行ってきたばかり。蘭学に通じ、欧米の進んだ技術や軍事力を知る勝海舟は、攘夷派(じょういは)の坂本龍馬にとって開国派の先鋒のように見えていたのでしょう。

しかしよくよく話を聞けば、勝海舟の主張は、外国との交易によって日本も西欧にも負けない国力を付け、防衛力を強化していく必要があると言うもの。勝海舟の考えにすっかり感化された坂本龍馬は「大いに余の固陋(ころう)を恥ず。請う、これよりして公の門下生とならん」と、自分の見識の狭さを恥じて勝海舟の弟子になったと言います。

もっとも、この暗殺説は1890年(明治23年)に勝海舟が記した「追賛一話」(ついさんいちわ)から流布したもの。初会談から28年が経過しており、勝海舟には物事を大げさに話す癖もあることから、近年は坂本龍馬に本当に殺意があったかどうか疑問視されています。

  • 勝海舟

    勝海舟

  • 坂本龍馬

    坂本龍馬

  • 勝海舟のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

  • 坂本龍馬のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

勝海舟の弟子となった坂本龍馬

師と呼べる人物との出会いがよほど嬉しかったのか、坂本龍馬は姉、坂本乙女(さかもとおとめ)に2度も手紙を送り、報告したほどです。

1863年(文久3年)3月20日付の手紙には「日本第一の人物勝麟太郎殿という方の弟子になり」とあり、勝海舟への傾倒ぶりが伝わってきます。

また、同年5月17日付の手紙には「此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かわいがられ候て、先きゃくぶんのようなものになり申候。(中略)すこしエヘンにかおしてひそかにおり申候。達人の見るまなこはおそろしきものとや、つれづれにもこれあり。猶(なお)エヘンエヘン、かしこ」とあります。

現代語にすると「このごろは天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生の門人となり、ことのほか可愛がられていて、まず客分のようなものになりました。ひそかに得意顔をしております。達人の見る目はすごいと徒然草にもあるように、私を見込んだ勝先生も素晴らしい」といったところ。エヘンエヘンと自慢げです。

出会いが暗殺なら別れも暗殺だった!?

大政奉還

大政奉還

この頃の坂本龍馬は、脱藩して土佐藩から追われる身でしたが、勝海舟が土佐藩藩主・山内容堂(やまうちようどう)に取り成して脱藩の罪が許されると、1864年(元治元年)に勝海舟とともに「神戸海軍操練所」(こうべかいぐんそうれんじょ)を設立し、坂本龍馬は神戸海軍塾塾頭となります。

当時、土佐藩から坂本龍馬に帰国命令が出ていましたが、神戸海軍操練所の仕事を続けたかったため、帰国延期を申請。しかしこの申請が却下されると、坂本龍馬は再び脱藩してしまいます。

一方、勝海舟は私塾の塾生が長州藩の起こした「禁門の変」(きんもんのへん:蛤御門の変とも言う、京都御所付近における幕府と長州藩兵との戦闘)に参加し、自身が老中・阿部正外(あべまさと)の不興を買ったことにより、江戸召還命令を出され、軍艦奉行の任を解かれてしまいます。

西郷隆盛

西郷隆盛

そして1865年(慶応元年)に神戸海軍操練所が廃止になると、塾生達は勝海舟に頼まれた薩摩藩西郷隆盛に庇護されます。

薩摩藩は塾生の航海術の知識を重要視し、坂本龍馬の貿易商社と政治組織をかねた「亀山社中」(かめやましゃちゅう:のちの海援隊)に出資するのです。

1866年(慶應2年)、坂本龍馬は京都薩長同盟の会談を斡旋したあと「寺田屋」に宿泊していました。このとき伏見奉行から派遣された30人あまりの捕り方に襲撃され手傷を負います(寺田屋事件・寺田屋遭難)。坂本龍馬は薩摩藩邸に匿われ、西郷隆盛に助けられています。

そののち、坂本龍馬は亀山社中の同志とともに、討幕や大政奉還、明治維新などに関与。そして運命の1867年(慶応3年)11月15日、坂本龍馬は中岡慎太郎(なかおかしんたろう)とともに「近江屋事件」で殺害されてしまいます。

この坂本龍馬暗殺は、「新選組」によるものとする説や、幕府の治安組織「京都見廻組」によるものとする説、薩摩藩士による陰謀説など諸説あり、なんと勝海舟が黒幕だったのではないかという説もあるのです。

その根拠は、坂本龍馬が亡くなる直前に「船中八策」(せんちゅうはっさく)をもとにして記した「新政府綱領八策」(しんせいふこうりょうはっさく)にあります。

新政府綱領八策は維新後の新政府が基本とすべき指針をまとめたもので、坂本龍馬はその末尾に「○○○自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下萬民ニ公布云云」と記述し、新政府のリーダーとなる人物をあえて○○○と伏字にしていました。

徳川慶喜

徳川慶喜

この○○○に入る人物は誰か。薩摩藩の島津久光(しまづひさみつ)や、土佐藩の山内容堂、福井藩の松平春嶽など様々な名前が挙がりますが、勝海舟黒幕説を唱える人々は江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)であると主張。

さらに新政府綱領八策では、「参議」(さんぎ:太政官に置かれた官名のひとつ)の欄に「坂本龍馬」と記載されているのに対し、「勝海舟」の名前はどこにもなかったとされています。

盟主が徳川慶喜では今までと何も変わらないと、勝海舟は激怒し、坂本龍馬の暗殺を指示したと言うのです。

また、暗殺の実行犯とされている人物、原田信郎(はらだのぶお)が勝海舟と同じ直心陰流剣術(じきしんかげりゅうけんじゅつ)の免許皆伝で、同じ幕府の講武所に勤めていたことがあったというのも、勝海舟を黒幕とする理由のひとつです。

しかし、坂本龍馬が○○○と伏字にしたのは、新政府のリーダーは民主主義・選挙で決めるべきという考えの表れであるという説などもあり、今となっては、真相は分かりません。

坂本龍馬亡きあとの1868年(慶応4年)、勝海舟は幕府の最高指揮官として江戸城の無血開城を果たし、明治新政府では外務大丞(がいむだいじょう)や兵部大丞(ひょうぶだいじょう)、海軍大輔(かいぐんたいふ)などを歴任。

晩年はほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、回想録「氷川清話」(ひかわせいわ)や「吹塵録」(すいじんろく)、「海軍歴史」、「陸軍歴史」、「開国起源」などを記しました。

そして1899年(明治32年)、風呂上りにトイレに立ち寄った際、脳溢血を起こし亡くなりました。最後の言葉は「コレデオシマイ」。享年77歳でした。

  • 江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

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