歴史上の実力者

小松帯刀 ~維新十傑のひとり~

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「西郷隆盛」、「大久保利通」、「坂本龍馬」、「桂小五郎」らと並び、明治維新の十傑のひとりでありながら、表には出てこない陰の存在、「小松帯刀」(こまつたてわき)。幕末動乱期において「英明の君主」(英明とは、優れて賢いこと)と称された「島津斉彬」(しまづなりあきら)の死後、小松帯刀は若干27歳にして薩摩藩を背負って立ちます。そして「薩摩の小松、小松の薩摩」と言われるほど活躍し、幕末から明治維新にかけて薩摩藩の躍進を支えました。しかし、小松帯刀は明治維新後わずか3年、病によりこの世を去ります。もし生きていれば、西郷隆盛、大久保利通らを超える歴史的知名度があったと言っても過言ではない、有能すぎるナンバー2・小松帯刀を紹介します。

生まれながらのナンバー2

小松帯刀

小松帯刀

「小松帯刀」(こまつたてわき)は、1835年(天保6年)、薩摩国下原良村(現在の鹿児島県鹿児島市原良町)にて喜入(現在の鹿児島県鹿児島市喜入町)領主肝付家(きもつきけ)の三男として誕生しました。幼名は「尚五郎」(なおごろう)。

第3子として生まれた尚五郎の立場は低く、冷遇された少年時代を送っていたため、両親に認められたい思いでひたすら勉学に励みます。

薩摩藩(現在の鹿児島県)の藩校教授の漢学者「横山安之丞」(よこやまやすのじょう)や薩摩藩士で歌人の「八田知紀」(はったとものり)に師事し、英才・小松帯刀の基盤がつくられました。やがてそれは、幕末の動乱期の薩摩で大いに役立つことになります。

「薩摩藩」をはじめ、江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

薩摩藩ナンバー2への道

尚五郎が初めて薩摩藩主「島津斉興」(しまづなりおき)に拝謁したのは、1844年(弘化元年)10歳の頃。島津斉興は当時、重役の「調所広郷」(ずしょひろさと)とともに藩の財政を回復させる改革に着手していました。当時の薩摩藩は、幕末から明治維新にかけての政治を中心になって牽引し、徳川の外様大名でありながら徳川とは常に対等の関係という考えを持っていました。

そののち、薩摩藩では島津斉興の後継者を巡るお家騒動「お由羅騒動」(おゆらそうどう)があり、1851年(嘉永4年)、「島津斉彬」(しまづなりあきら)が11代藩主となります。1853年(嘉永6年)には、アメリカの「マシュー・ペリー」が浦賀に来航し、その翌年には「日米和親条約」(にちべいわしんじょうやく)が締結されたことで幕末の動乱がはじまります。

そんななか、島津斉彬は類まれな先見性を持ち、富国強兵を推し進め、軍艦や大砲の製造などを行なう日本最初の近代洋式産業群「集成館事業」(しゅうせいかんじぎょう)などを立ち上げます。そして、日本を外国と戦争をしても負けない近代国家にするためのイノベーションを巻き起こします。

薩摩藩でもこれに立ち向かえる人材が求められ、1855年(安政2年)、当時21歳だった尚五郎は、藩から奥小姓・近習番(おくごしょう・きんじゅうばん:主君の身近で世話・警護を行なう者)に選ばれ、江戸勤務を命じられます。

西郷隆盛

西郷隆盛

このとき、島津斉彬とともに江戸に上っていたのが、「西郷隆盛」です。

そののち、尚五郎は小松家に養子入りし、名を「帯刀」(たてわき)と改名して小松家を継ぎました。

小松帯刀は、領内の百姓達と分け隔てなく付き合い、農作業を手伝ったり、相撲を楽しんだり、宴で酒を酌み交わしたりと、領民思いの名領主として名を轟かせていきます。

薩摩藩士として順調なスタートを切った小松帯刀ですが、1858年(安政5年)、島津斉彬が志半ばにして急死。島津斉彬の死後、家督を継いだのが12代藩主「島津久光」(しまづひさみつ)でした。島津斉彬体制の頃から小松帯刀に目を付けていた島津久光は、1862年(文久2年)、小松帯刀を薩摩藩家老に大抜擢します。当時の小松帯刀は若干27歳。小松帯刀は島津久光の有能な懐刀として、動乱の薩摩を背負って立つことになります。

人望が厚い小松帯刀が島津久光とのパイプ役を果たすことで、幕末に活躍した西郷隆盛や「大久保利通」などが自由に動き回ることができたのです。

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小松帯刀と坂本龍馬の出会いが生んだ奇跡

坂本龍馬

坂本龍馬

小松帯刀が「坂本龍馬」と出会ったのは、「池田屋事件」があった1864年(元治元年)、小松帯刀30歳のとき。

池田屋事件後、「勝海舟」は軍艦奉行を罷免され、神戸海軍操練所(江戸幕府軍艦奉行の勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関)が廃止されます。

勝海舟は、塾頭だった坂本龍馬をはじめ、行き場所を失った塾生達の身の振り方を西郷隆盛に相談し、その話を聞いた小松帯刀が大坂の薩摩藩邸に彼らを引き取ったことが、出会いのきっかけでした。

小松帯刀は、薩摩の自邸に坂本龍馬らを住まわせたあと、長崎の亀山を拠点にして薩摩の交易船で働くように手配しました。「亀山社中」のちの「海援隊」は、小松帯刀が指示して坂本龍馬に作らせたとも言えます。

1865年(慶応元年)、長崎の薩摩藩邸に居た小松帯刀のもとに、「薩摩名義で武器や艦船を買いたい」と亀山社中の「近藤長次郎」(こんどうちょうじろう)の口利きで、長州藩(現在の山口県)の「伊藤俊輔」(いとうしゅんすけ)のちの「伊藤博文」と「井上聞多」(いのうえもんた)のちの「井上馨」(いのうえかおる)がやってきます。

当時の長州藩は、幕府の目が厳しい長崎で武器の調達が思うようにできませんでした。そんな長州藩に対して小松帯刀は、薩摩藩に米を貰うことを条件に武器の調達を引き受けます。

そののちも坂本龍馬を仲立ちに薩摩藩と長州藩の関係は深まり、1866年(慶応2年)には長州藩の「桂小五郎」のちの「木戸孝允」(きどたかよし)が上京。薩摩藩代表として小松帯刀が出席し、京都の小松邸で「薩長同盟」が結ばれます。当時の小松邸は、近衛家の別邸であったため、幕府もそう簡単に手を出すことはできません。小松帯刀のネットワークがあってこそ実現した歴史的な瞬間です。

小松帯刀がいなければ、土佐藩(現在の高知県)の浪人に過ぎなかった坂本龍馬もここまでの功績を残すことはできなかったでしょう。この薩長同盟他、幕末の重要な秘密会議は、小松邸で行なわれたと言われています。

ちなみに小松帯刀と坂本龍馬は、同じ1835年(天保6年)生まれ。坂本龍馬は、妻「おりょう」と共に家老であった小松帯刀を訪ね、しばらく小松邸に滞在したこともありました。「日本最初の新婚旅行」と言われているできごとです。激動の幕末に熱い思いを持って日本のために働いた2人の間には、同志を超えた深い絆と信頼があったのかもしれません。

頭脳明晰なエリートで、人格的に非の打ちどころのない人物であった小松帯刀。明治維新のあともその能力を買われ、外交官副知事まで上り詰めましたが、1870年(明治3年)に36歳という若さで病死。歴史の表舞台に立つことなく生涯を終えます。最後までナンバー2を貫き通した男、小松帯刀こそ日本の歴史における真のナンバー2ではないでしょうか。

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