歴史上の実力者

新井白石 ~6代将軍徳川家宣の侍講~

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徳川第6代将軍「徳川家宣」(とくがわいえのぶ)に仕えた江戸時代中期の朱子学者「新井白石」(あらいはくせき)。幕政を実質的に主導し、側用人「間部詮房」(まなべあきふさ)とともに「正徳の治」(しょうとくのち)を行なった政治家としても活躍しました。並みの儒学者では太刀打ちできない学識と理想を貫き通す信念を持ち、理想の政治を行なうためなら将軍にも屈しない「鬼のナンバー2」として幕政を牽引していました。日本医学の基礎を築いた天才「杉田玄白」(すぎたげんぱく)からも「生まれながらの天才」と絶賛された新井白石とは一体どんな人物だったのでしょうか。

どんな苦境に立たされても学び続けた天才

新井白石

新井白石

「新井白石」(あらいはくせき)は、1657年(明暦3年)「明暦の大火」の翌日となる2月10日に、焼け出された避難先で誕生しました。

幼い頃から非凡な才能を示し、3歳で父の読む儒学の書物をそっくり書き写し、16歳で「中江藤樹」(なかえとうじゅ)の「翁問答」(おきなもんどう)を読んだという、新井白石の天才っぷりを裏付ける伝説が残っています。

一方、気性が激しく、怒ると眉間に「火」の字に似たシワができることから、父が仕えていた「上総久留里」(かずさくるり:現在の千葉県君津市)の藩主「土屋利直」(つちやとしなお)からは、「火の子」と呼ばれ可愛がられていました。

土屋利直の死後、「土屋直樹」(つちやなおき)が藩主を継ぎますが、土屋直樹には狂気の振る舞いがあり、父の「新井正済」(あらいまさなり)は「あんな主君には仕える必要はない」と今で言うストライキを起こし、土屋家を追われることになります。これをきっかけに新井家は困窮し、その日の暮らしもままならない状況になりますが、苦境のなかでも独学で儒学や史学を学び続けました。

1683年(天和3年)より大老「堀田正俊」(ほったまさとし)に仕えましたが、堀田正俊が若年寄の「稲葉正休」(いなばまさやす)に刺し殺されると堀田家は衰退。新井白石は堀田家の財政難を知り、自ら退いて浪人になります。

浪人中に豪商の「角倉了仁」(すみのくらりょうじん)から「知人の娘を娶って跡を継がないか」という誘いや、「河村通顕」(かわむらずいけん)から「当家の未亡人と結婚してくれれば、3,000両と宅地を提供する」という誘いがあっても、新井白石は好意に感謝しつつ「幼蛇のときの傷は例え数寸であっても、大蛇になるとそれは何尺にもなる」という喩えを用いて断ったという逸話も残ります。

そののち、「木下順庵」(きのしたじゅんあん)の門弟として朱子学を学び、木下順庵の推挙で甲府藩主「徳川綱豊」(とくがわつなとよ)のちの6代将軍「徳川家宣」(とくがわいえのぶ)のお抱え儒学者に抜擢されます。大の学問好きだった徳川綱豊のもとで、新井白石は1299日も講義を行ないました。

徳川十五代将軍のひとり、第6代将軍・徳川家宣をご紹介します。

理想のためなら将軍も叱咤する鬼のナンバー2

徳川家宣/徳川綱豊

徳川家宣/徳川綱豊

1705年(宝永2年)徳川綱豊は名を徳川家宣と改め、徳川第6代将軍になります。

徳川家宣は将軍に就任すると、側用人の「松平輝貞」(まつだいらてるさだ)・「松平忠周」(まつだいらただちか)を解任し、新井白石を君主に学問を講義する「侍講」(じこう)として「江戸城」(現在の東京都千代田区)に呼び寄せます。

新井白石は、側用人の「間部詮房」(まなべあきふさ)とともに徳川家宣を補佐するナンバー2として頭角を現します。

政治家としての新井白石は、「政治は民のためにあり、私的な事情に流されてはいけない」という信念のもとに、武断政治を退け儒教道徳に基づく政治を理想としました。しかし、新井白石は元来激しい性格の持ち主。文治政治と言えども、将軍さえも追い詰める勢いで自分の信念を押し通すこともありました。

その代表的なエピソードが、「徳川綱吉」(とくがわつなよし)時代に「貨幣改鋳」(かへいかいちゅう)を行なった「荻原重秀」(おぎわらしげひで)を幕府から追放したことです。

荻原重秀は、将軍や幕府の無駄遣いによって逼迫した幕府の財政立て直しのため、流通している「慶長小判」を回収し、金の含有量を減らして小判の数を水増し。世にインフレをもたらして景気を良くした反面、物価が高騰し庶民の生活は苦しくなってしまいます。しかも、荻原重秀は御用商人から多額の賄賂を受け取って、自らの懐を肥やしていました。これを知った新井白石は怒り狂い、荻原重秀を強引に幕閣の座から引きずり下ろします。

そして荻原重秀とは逆に、小判の品質をもとに戻す貨幣改鋳を行ない「正徳金銀」(しょうとくきんぎん)を流通させます。しかし、あまりにも急激な改革だったために、貨幣の価値が上がりすぎるデフレとなり、そのなかでも特に米価が下がり、武士が貧乏になるという結末に。

これらの貨幣改鋳や財政立て直しの他、長崎貿易の縮小や朝鮮通信使の待遇簡素化をはじめ、武家諸法度改訂、儀式典礼の整備などを行ないます。かの有名な徳川綱吉の「生類憐れみの令」を廃止したのも新井白石です。

豊富な知識と揺るがない信念を持って、理想主義的な政治を行なう新井白石は、周囲から嫌われることも少なくはなかったそう。短期の治世ながら「正徳の治」(しょうとくのち)と言われ、今でも徳川家宣が称えられるのは、将軍に代わり厳しく政治を行なう新井白石がいたからこそではないでしょうか。

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新井白石の思いを語る書物達

徳川吉宗

徳川吉宗

1712年(正徳2年)、徳川家宣は将軍になって4年たらずでこの世を去り、その跡を継いだ7代「徳川家継」(とくがわいえつぐ)も早世。

8代将軍の座についた「徳川吉宗」は、新井白石ら前将軍の「近習衆」(きんじゅうしゅう)をすべて失脚させます。

さらに徳川吉宗は、新井白石が行なった朝鮮通信使に対する応接や武家諸法度を覆し、政策資料や著書なども破棄してしまいます。これにより正徳の治は7年ほどで終わりを迎えます。

隠居後の新井白石は、詩作と執筆活動に勤しみました。祖母や父のことから、徳川綱豊に仕えるようになったこと、徳川綱豊が6代将軍徳川家宣となってから行なった正徳の治のことなどを綴った自伝「折たく柴の記」(おりたくしばのき)をはじめ、アイヌのことを書いた「蝦夷志」(えぞし)、初めて「沖縄」の文字を使用した書物「南島志」(なんとうし)、国語辞典「東雅」(とうが)、世界地理について書いた「采覧異言」(さいらんいげん)、イタリア人宣教師「シドッチ」との対話に基づく「西洋紀聞」(せいようきぶん)など、時代が変わっても自分に代わって語り続ける数々の書物を残しました。

こうして江戸時代の思想に大きく影響を与えた新井白石は、1725年(享保10年)に69歳で波乱に満ちた生涯を閉じます。現在、東京都中野区にある「高徳寺」(こうとくじ)に墓所が残っています。

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