歴史上の実力者

大石内蔵助 ~主君への忠義を貫いた武士~

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日本の師走の風物詩と言えば「忠臣蔵」。薄暗い夜明け前、雪が降り積もる江戸の町を行く揃いの半被…、この隊列を率いるのは赤穂藩のナンバー2、大石内蔵助。
主君の汚名を返上するために戦った家臣達の物語は、人形浄瑠璃や歌舞伎の題材にもなり、様々な脚色を加えられながら時代を超えて語り継がれています。

大石内蔵助が赤穂の筆頭家老になるまで

大石内蔵助

大石内蔵助

1659年(万治2年)、代々浅野家の筆頭家老を務める家系に生まれた大石内蔵助(おおいしくらのすけ)。本名は大石良雄(おおいしよしお・よしたか)。

年少の頃、山鹿素行(やまがそこう)に軍学を学び、伊藤仁斎(いとうじんさい)に漢学を学んだとされています。

1673年(延宝元年)、14歳の時に父、大石良昭(おおいしよしあき)が亡くなると、祖父、大石良欽(おおいしよしたか)の養子となり、その祖父も亡くなると19歳でその跡を継いで1679年(延宝7年)、21歳で赤穂藩の筆頭家老となりました。

内蔵助はもともと祖父の通称で、祖父が亡くなった頃から、大石良雄も内蔵助と呼ばれるようになります。

1686年(貞享3年)、豊岡藩(現在の兵庫県豊岡市)家老の娘、りくと結婚し、3男1女を儲けました。3人の男児の内の1人が、のちに大石内蔵助とともに吉良邸討ち入りを果たす、大石主税(おおいしちから)です。

筆頭家老としての大石内蔵助は「昼行灯」と揶揄されていたとか。昼間に灯る炎のように、存在感の薄い、凡庸な家老だったようです。ところが1701年(元禄14年)、その評価を覆す大事件が起こります。主君、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)による殿中刃傷事件(でんちゅうにんじょうじけん)、俗に言う「松の廊下刃傷事件」です。

江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

殿中刃傷事件のあらまし

1701年(元禄14年)3月14日、江戸城では東山天皇の勅旨に対して、時の将軍、徳川綱吉が奉答する「勅答の儀」という大イベントが予定されていました。

殿中刃傷事件が起きたのは、まさにこの勅答の儀が始まる直前の午前11時30分ごろ。天皇勅使の接待役を担当していた浅野内匠頭が「この間の遺恨、覚えたるか」と叫びながら、接待指南役の吉良上野介(きらこうずけのすけ)を松の廊下で切り付けたのです。

吉良上野介によるパワハラのようなものがあったのか、はたまた別の理由があったのか、浅野内匠頭は「私の遺恨、一己の宿意をもって、前後忘却つかまつり、討ち果たすべく候て、刃傷に及び候」とだけ述べ、2人の間に何があったのか詳細を語ることはありませんでした。

浅野内匠頭が使ったのは打刀ではなく脇差であったため、吉良上野介は額と背中に傷を負っただけで済みましたが、幕府は即日、浅野内匠頭の切腹と赤穂藩浅野家の取りつぶしを命じました。一方、吉良上野介へのお咎めはありません。

当時の原則は「喧嘩両成敗」。にもかかわらず、浅野内匠頭だけが即刻処分された背景には、将軍、徳川綱吉の個人的な思惑がありました。徳川綱吉は愛する母、桂昌院に女性の最高位である「従一位」を賜るよう、朝廷に働きかけていたのです。

こういった事情もあり、何としても成功させたかった儀式を台無しにされた幕府は激怒。赤穂側に一方的な処分を下したのです。

大石内蔵助と殿中刃傷事件

切腹

切腹

昼行灯と呼ばれた大石内蔵助の存在感が増すのはここから。

大石内蔵助はまず浅野内匠頭の弟、浅野大学長広(あさのだいがくながひろ)を擁立して、浅野家を再興しようと画策しました。

浅野家家臣の堀部安兵衛(ほりべやすべえ)ら、急進派は盛んに仇討ち実行の催促を申し入れてきましたが、大石内蔵助は「まずは御家再興が第一。軽挙妄動に走らないように。」となだめ、説得しました。

幕府に対して徹底抗戦すべきと主張する者、おとなしく従うべきと主張する者とで対立する藩内の意見をとりまとめ、御家再興と吉良上野介の処分を幕府に嘆願したうえで、城を明け渡しました。

また、大石内蔵助は赤穂藩で流通していた藩札(藩内で流通していた紙幣)の価値がなくなるため、藩札を回収し始めました。そして藩札と交換で浅野家の財産を浪人となってしまう浅野家家臣に分配したのです。これは今で言う退職金のようなもので、当時としては異例の措置です。大石内蔵助の他者への気遣いが窺えます。

赤穂を出た大石内蔵助は親戚を頼って京に隠棲し、御家再興のために奔走しますが、1702年(元禄15年)7月に浅野内匠頭の弟の浅野大学長広に対する処分が確定すると、浅野家再興を断念。一気に吉良邸討ち入りに舵を切ります。

このころから大石内蔵助は酒癖が悪くなり、女性と遊び回るような放蕩生活を始めます。そして妻と離縁、ついには遊女と結婚までしてしまうというエピソードが残っていますが、これは御家再興が不可能となったことにより、仇討ちを企てるのではないかと警戒していた吉良家側を油断させる為の行動だったのではないかと言われています。

そして自らの命を投げうってでも主君の無念を晴らしたいという47人の志士を集め、約5ヵ月かけて粛々と準備を進め、決戦の日である12月15日を迎えたのです。

緻密な作戦が立てられ、吉良邸の間取りは完全に把握されていました。討入りの際、赤穂藩士達は口々に「火事だ!」と叫んで吉良邸に乱入したため、吉良家の家臣は混乱し、対応に手間取ったそうです。

また吉良邸には100名ほどの家臣が長屋に詰めていましたが、討ち入った直後にその長屋の戸を鎹(かすがい)で開かないようにしたため、実際に戦闘に加わった者は4割に満たなかったと言われています。緻密な作戦により、見事吉良上野介は討ち取られ、吉良邸討ち入りは成功しました。

2時間の激闘を制した47人の赤穂藩士達は、その足で浅野内匠頭が眠る泉岳寺まで行進し、吉良上野介の首を墓前に手向けました。

翌年2月4日、幕府は討ち入りに参加した赤穂藩士達に切腹を命じます。大石内蔵助は身柄を預けられていた細川家の下屋敷で切腹。亡骸は他の浪士達と一緒に、浅野内匠頭と同じ泉岳寺に葬られました。

大石内蔵助が討ち入りの際に所持していた脇差には、以下のように刻まれていたと言います。

「万山重からず君恩重し、一髪軽からず我命軽し」

主君への恩は幾山よりも重く、私の命は1本の髪の毛よりも軽いという意味。どこまでも忠義に厚い人物だったようです。

宿敵、吉良上野介という人物

吉良上野介の本名は吉良義央(きらよしひさ・よしなか)。1641年(寛永18年)、「高家」(こうけ)とよばれる家格を持つ名門の家に生まれました。高家は幕府における儀式や典礼を担う役職でもあります。

吉良上野介は高家としての知見や技量に秀でていたようで、1683年(天和3年)に大沢基恒(おおさわもとつね)、畠山義里(はたけやまよしさと)とともに「高家肝煎」(こうけきもいり)に就任。(高家肝煎とは高家のうちから選出され高家諸氏の差配にあたる者のことを指します。通常は3人選出され、月番制で職務を行ないました。)諸大名に礼儀作法を伝授する立場になりました。

殿中刃傷事件が起きたとき吉良上野介は61歳。一方、浅野内匠頭は35歳。親子ほどの年の差を考えると、吉良上野介によるいじめがあったと想像するのは容易です。

しかし、吉良上野介の地元三河では治水事業や塩田開発などを行なった名君だったという説も。稀代の悪役として描かれることの多い吉良上野介ですが、真相はいかに?

ちなみに、浪士に切腹の沙汰が下ったのち、幕府は喧嘩両成敗の形を取り、吉良家当主の吉良佐兵衛義周(きらさひょうえよしちか)を信州高島の諏訪家にお預け(配流・幽閉)、領地没収という処分を下しています。諏訪家にお預けとなった吉良佐兵衛義周は当時18歳でしたが、3年目に21歳の若さで亡くなっています。

幕府は法秩序に従うことを武士に求めていましたが、本音では主君の敵を臣下が討つという道徳観を肯定していたようにも思えます。

大石内蔵助ら赤穂浪士達の死は、こうした形で報われたのです。

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